古代の頻繁な遷都について考えた話2です。
前回の話は看板倒れ
前回の記事は、「頻繁な遷都の意味するもの」という題名の割には、平安京が長く都であった背景にも太陽活動の変化が有ったのではないかという結論で、いささか看板倒れという内容になってしまいました。
書いてるときはうまく纏まったと思ってたんですけどね。
後で読み返してみたら、途中が無くて、結論だけの話になっているじゃないですか。
これはきっと、ここ最近の異常な暑さのせいに違いありません。
という事で今回は、平安京に至る遷都について考えて見ます。
特に、唐から学んだ条坊制を取り入れたと考えられている、藤原京以降について見てみる事にします。
都を作っても
以前の記事で、仏教の受容に太陽活動の低下による気候変動が影響していたのではないかと考えました。
従来の宗教的な手段では気候変動に対応出来なかったと考えられるからでした。
それも含め、実際の国家運営の方法を学ぶために送られたのが遣隋使という事でした。
その結果が、国家鎮護仏教と律令体制を始めとする中国からの国家運営に関する情報で、その成果ともいえるのが、唐の首都長安のような碁盤の目状の条坊制を取り入れた都になります。
という事になるのですが、残念ながらそれでもってしても、気候変動には対応出来なかったはずです。
そのために、不安定な社会状態が続くことになり、様々な理由を付けて、次々と新たな宮都を作ることになったのではないでしょか。
藤原京
先ずは藤原京ですが、日本史上はじめての条坊制を取り入れた都という事になります。
しかしその藤原京は、わずかに16年ほどしか使われませんでした。
次の平城京は、文武天皇の生存中に造営が始まったようですし、藤原京で特に怨霊等が跋扈した訳でもなさそうです。
なぜ捨てる事になってしまったのでしょう。
引用元:藤原京 - Wikipedia
図を見ると、唐の長安などとは違い、内裏が都の中央部に有る形をしています。
これは、中国から持って帰った情報が間違っていたわけではなく、天武天皇が『周礼』にある理想的な都城造りを基に設計させたと考えられているようです。
背景には、天武天皇の唐に対する対抗意識が有ったようです。
当然のことながら、それによって気候的、社会的な状況が好転する事は無かったはずで、やはり最先端の長安に倣うべきだという事になったのではないでしょうか。
そのため、僅か16年で平城京に移る結果となったと考えられます。
平城京と長岡京
その結果として作られた平城京ですが、使われたのは70年間程でした。
その間には、東大寺の大仏建造に代表されるように、仏教を国家運営の方法として用いようと試みていたことが見て取れます。
その一方で、「彷徨五年」と呼ばれる、聖武天皇が恭仁宮と紫香楽宮、そして難波宮と転々と居所を変えたりした事があったりと、不安定な社会が続いていたことがうかがわれます。
そして、次の都として作り始めていた長岡京への遷都を中断する形で、平安京へと移る事になります。
途中で中断された長岡京ですが、これに関しては、造営長官の暗殺と、それに関係したとされ憤死した早良親王の怨霊を恐れてのものだと考えられています。
早良親王の祟りとされる事象の多くは、日照りや大雨などによる飢饉、疫病であり、気候不順と考えれば、これも背景は同じと考えることが出来そうです。
移る前に、早くもケチがついてしまったというところでしょうか。
仏教に見切り
平安京への遷都の動機の一つとして、「奈良仏教」(南都六宗)の影響から逃れるためと言うようによく言われますが、実際にはもっと根本的なところで、仏教そのものに見切りをつけるといった考えが有ったのだと思います。
なにしろ、奈良の大仏を作り、全国に国分寺、国分尼寺を作ったりしても、気候的、社会的に影響を与えることは出来なかったはずですから。
さすがに仏教を完全に禁止することは無かったのですが、国家を運営する手段としての仏教に見切りをつけたのだと考えられます。
その結果、唐の制度を取り入れた完成形の平安京になったことにより、その名の通り平安な世の中になりました、という訳では無かったというのは前回の記事で見た通りです。
頻繁な遷都については、下々は大変だったろうと言われることが多いですが、気候不順の中での公共事業という面もあったかもしれないと、書いていて思い付きました。
ではでは