「會稽東治」と「會稽東冶」について考えた話です
見て見ぬふりをしていました
前回の記事では、『魏志倭人伝』における「會稽東冶の東」も、作者陳寿による情報操作の一部だと考えました。
実は「會稽東冶の東」の「會稽東冶」には、古来色々と論争が有るのですが、前回の記事では見て見ぬふりをしました。
今回はそのあたりの話となります。
ニスイかサンズイかが問題だ
ここで、前回も引用した関係する部分を見てもらいます。
男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)
「男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。」
原文の最後にある「東治は東冶の転写間違いと考える」という注釈が、論争の内容を端的に表したものとなります。
最後の文字が、ニスイの「冶」なのか、サンズイの「治」なのかが問題の焦点なのです。
一字違うと大違い
この一字が違うと、その意味するところがまったく違うものになります。
先ず、ニスイの「會稽東冶」は、そのものズバリ地名を表し、會稽郡の東冶という意味になります。
次に、サンズイの「會稽東治」については、會稽山という山が有り、その東部の辺りの治めている地域を意味すると考えられています。
両者の位置関係は次の図のようになります。
引用元:日本古代史つれづれブログ 後漢書倭伝を読む その1~ ここに歴史上初めて邪馬臺国の国名が出てくるのだが・・・
見て分かる様に、会稽山から見て東ならともかく、会稽郡東冶の東という事になると、明らかに日本列島にはない事になってしまいます。
こんなことになった原因は、後の時代に作られた『後漢書東夷列伝倭条』に「會稽東冶の東」に位置していると書かれているからです。
そのため陳寿が、書き損じたのだと考えられているわけです。
私は「會稽東治の東」派
個人的には、サンズイの「會稽東治の東」だと思っています。
原文のすぐ上の部分に、「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く」という意味の文があります。
ここで出て来る夏后少康の子というのは、文中にある様に断髪文身したのですが、これが越の起源だとされているのです。
越は、春秋時代にあった国で、首都は會稽山に近い現在の紹興市付近だったとされています。
次のような、短髪で文身の入った像も見つかっており、越と文身は結び付けて考えられていたようです。
引用元:越 - Wikipedia
というように文身と関係の深い「夏后少康の子」についての話を持ち出しておいて、関係のない「會稽東冶の東」というのは有り得ないだろうというのが理由です。
実はどちらでもいい
とは思っているんですが、実はぶっちゃけた話をすると、どちらでもいいというのが正直な所なんです。
前回の記事でも書いたように、陳寿は、邪馬台国の位置を中国から見て東方にある国だと認識させるために、「會稽東治の東」の話を入れ込んだ訳です。
従って、もう一度上の図を見てもらえば分かる様に、北の「會稽東治」でも、南の「會稽東冶」でも中国の東方という事から考えると、問題になるほどの差はないとも言えるのです。
陳寿にとっては、日本列島に有るかどうかは、どうでもいいと言えばいい話ですからね。
以上。見て見ぬふりをした言い訳でした。
ではでは