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「會稽東冶の東」も情報操作だ

「會稽東冶の東」について考えた話です

 

 

邪馬台国は大月氏に比肩する大国

 以前の記事で、陳寿は、旅程を情報操作することにより、西の大国大月氏と同程度の東の大国として邪馬台国を記述することにより、その朝貢を意義あるものとして演出したと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その情報操作の具体的内容は、
1.終盤の邪馬台国までの行程を「水行20日、南に水行10日、陸行1月」とすることで、位置を南方にずらすと共に距離を曖昧にする。
2.邪馬台国までの距離は一万二千里だという一文を入れ込む。
というものでした。

これによって邪馬台国は、大月氏に比肩する距離にある東方の国になったと考えました。

ただし方位は曖昧

 しかし、よく考えるとこれだけで、中國大陸の東方の国と考えるのは、日本列島の位置のよく分かっている人間か、邪馬台国フリークぐらいでしょう。

そのあたりの位置関係があいまいな人にとっては、帯方郡から出発して、途中色々と経由して、最終的に南方に水行、陸行合わせて2ヶ月ほど行ったところだというのは分かりますが、それがどのあたりなのかは、それほど明確では無かったのではないでしょうか。

これだけでは、一万二千里だけが印象に残りそうです。

そのため、陳寿には、一万二千里という距離だけではなく、中国から見て東方だという事をはっきりさせる必要が有ったと考えられます。

それが「會稽東冶の東」だったのです。

風俗の記述の中に

 ここで、チョット長くなりますが、女王国まで一万二千里の文に続く部分を引用します。

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)

「男子は大小無く、皆、黥面文身す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。」

引用元:魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)

男子が皆、黥面文身すなわち刺青をしているという記述から始まっている事からも分かる様に、邪馬台国までの旅程およびその周辺の記述は、直前の一万二千里の記述で終わり、ここからは、その風俗を記述する部分となります。

ところが、その後すぐに、昔から中国に来た使者はみな太夫と言っていたとか、いにしえの夏后少康の子の話とか、派遣された官僚の報告書の内容としては、奇妙とも言える記述が続きます。

「會稽東冶の東」を思いつく

 恐らく、元々の文書にはこれらの記述は無かったと考えられます。

黥面文身の記述を見て、陳寿は、夏后少康の子が、會稽の地で蛟龍の害を避けるために断髪して刺青を入れたという話を思い出し、単なる東ではなく「會稽東冶の東」とすることで、より具体的に位置関係を示すことを思いついたのではないでしょうか。

刺青という共通点が有る事から、そういった国が、「會稽東冶の東」にあっても可笑しくないと思わせる狙いもあったとも考えられます。

その結果、住民が刺青をしているという報告をした文に、関係のない話が差し込まれることになりました。

こうして、邪馬台国を「會稽東冶の東、一万二千里」の位置にある国にすることが出来たという訳です。


「會稽東冶の東」とはなかなか上手い事言ったものですよね。


ではでは