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陰陽師とはなんだったのか

陰陽師について考えた話です

 

 

太陽活動と平安京

 今回は、あの有名な安倍晴明を代表とする陰陽師たちが、なぜ平安時代に活躍したのか考えて見たいと思います。

先ずは活躍した時代の背景説明から。

前回までの話は、太陽活動の低下による気候変動の影響に対応するために、中国からの情報を基に遷都を繰り返した結果、平安京に落ち着いたというものでした。

その最後の平城京からの遷都は、特に国家運営の方法としての仏教に見切りをつけるものだったのでは無いかと考えました。

yokositu.hatenablog.com

かといって、平安京により完璧な律令国家と都を作り上げたことによって、その後千年以上も平安京が都で有り続けた訳でも在りませんでした。

yokositu.hatenablog.com

結論から言うと、たまたま平安京への遷都と相前後して、中世極小期と呼ばれている太陽活動の低下の時期が終わり、上昇へと転じた事により、気候回復し結果として社会が安定しからだと考えられるという訳です。

必要な事は学んだ

 当時の人々からすれば、太陽活動云々は分かるはずも有りませんから、平安京律令制によって国家運営の礎が出来たと考えても不思議はありません。

中国から必要な事は、全て学んだと考えたのかもしれません。

その事を示すように、中国から情報を得るために行われていた、遣唐使は839年の19回目を持って廃止となります。

20回目は、唐の滅亡により行われることは有りませんでしたし、その後建国された宋などへも送られることはなかったのです。

加えて、社会が安定していった事を示すかのように、792年に桓武天皇により一部を除き軍団が廃止され、軍事力を放棄してしまうところまで行ってしまいます。

仏教に代わって陰陽師

 こういった状況の中で、存在感を増して来たのが陰陽師なのです。

平城京からの遷都に関連して考えたように、仏教の影響力は小さくなっていたと考えられます。

なにしろ、奈良の大仏様まで作ってしまいましたから、いわば行くところまで行ってしまった訳です。

陰陽師は、その仏教に代わる形で受け皿として出て来た事になります。

ここまで来ればもうお分かりでしょう。

そう陰陽師は、太陽活動の回復の波に乗って、その影響力を拡大したのではないかと思うのです。

太陽活動の回復の波に乗った

 仏教の力に疑いを持った人々が、その代わりに国家機関の陰陽師に頼ったとして不思議は有りません。

その時に偶然太陽活動が回復し始めたのです。

そうなると、陰陽師の行為に対して、天候などの状況が悪化することが少なくなっていったと考えられます。

当然、上手くいった場合も、いかなかった場合も有ったと思いますが、それまでの状況が悪かった事を考えると、上手くいった事に注目が集まり易かったはずです。

そういう事が積み重なって、陰陽師への信頼が次第に高まり、その頂点ともいえるのが安倍晴明だったのだと思います。


 実は陰陽道では、太陽活動についても分かっていたという事ならば、それはそれでびっくりですけどね。


ではでは