中国史書に書かれている「倭」について考えた話2です。
今回は「唐」
1では、「隋」の正史『隋書』にある「倭」についての記述と、当ブログの考えの整合性を考えて見ました。
「隋」が北方民族系の王朝で有った事から、それ以前の南北朝時代に南部の漢民族系の王朝に朝貢していた「倭の五王」に関する情報が少なく、600年以降に使者を送って来たのを、それ以前の「倭」と同一視したのではないかと考えたのでした。
今回は、「隋」に続いて建国された「唐」の正史における「倭」について考えて見ます。
今回も、中国歴史の年表(部分)を見ながら話を進めたいと思います。
「唐」の正史は2種類
その「唐」の正史ですが、『旧唐書』と『新唐書』の2種類があります。
どちらかが本物というでは事は無く、どちらも正史という扱いのようです。
『旧唐書』は、「唐」滅亡後の「五代十国」の混乱の中で作られたもので、情報に偏りなどが見られ、評判があまり良くなかったようです。
その為「宋」の時代に改めて編纂されたのが、『新唐書』という事のようです。
そうは言っても、『旧唐書』の方が時代が近いだけに、資料的に見るべきところも有るようで、いずれも正史という事になっているようです。
『旧唐書』に2つの国
先ずは、『旧唐書』から見てみます。
『旧唐書』における「倭」に関する記述のハイライトは、「倭国」と「日本国」の二つの項目が建てられている点でしょう。
しかも、「倭国」の項には、「倭国は古の倭奴国なり」とあり、古来朝貢をしていた国と書かれています。
さらに、「日本国」の項には「日本国は倭国の別種なり」という記述が有るのです。
続けて、「その国日辺に有るを以て、故に日本を以て名とす」と書かれており、日に近い所にあるから日本という事は、「倭国」より東に有ったと考えていいでしょう。
これは、「倭国」を「邪馬台国」の東遷時に九州に残った勢力、「日本国」を東遷したヤマト政権と考えれば、本ブログの主張にドンピシャではないですか。
「日本国」の朝貢は703年
残念ながら、現実はそんなに甘くないようです。
「日本国」が初めて使者を送って来たのは、長安3年と書かれています、これは西暦だと703年になります。
これは、日本側から見ると第8回の遣唐使の年にあたり、飛鳥時代末文武天皇の御代という事になります。
さすがに、この時代まで九州勢力即ち「倭国」が続いていたとは考え難いので、別の理由がありそうです。
この時の遣唐使に関しては、『続日本紀』に記事が有るようで、唐側からどこからの使者か尋ねられたのに対して、「日本国使」と返答をしたようです。
どうもこれが対外的に「日本」という国名を使った最初の記録らしいです。
「唐」は信用しなかった
それを聞いた「唐」の側は、当然これまでにも何度も使者を送って来ていた「倭」が送って来たと考えていたと思われますので驚いたのでしょう、「倭」との関係を聞いたようです。
それに対して、「日本は元々小国だったが、倭国の地を併合したのです。」というような趣旨の返事をしたようですが、「唐」の側はこれを疑ったと記載されています。
その後使者を送ったりして、その真偽を調べたような事実もなく、これについてはそれ以上の話はないようです。
703年当時の「唐」は、一時的に上の年表に有る「周(武周)」呼ばれる時期でした。
これは、あの中国史上唯一の女帝である「則天武后」が帝位についていた時期で、「倭」のような周辺国の事まで気にかけている余裕はなかったのかもしれません。
『旧唐書』の編者が、この辺りの資料をそのまま纏めたために、「倭国」、「日本国」の項目が並立することになったのだと思われます。
使者が認識していたという事は
それにしても、日本からの使者が「日本は元々小国だったが、倭国の地を併合したのです。」と答えたという事は、そういった認識が有ったという事です。
これを、本ブログの主張に合わせて考えると、東遷した当初は小さな勢力であったヤマト政権が次第に勢力範囲を広げ、九州に残った勢力を併合した事が念頭にあったからだと考えると、辻褄が合いそうです。
加えて、ひょっとしたらヤマト政権が、九州に残った勢力を「倭国」と呼んでいたということなのかもしれません。
それにしても中国は、周辺の野蛮人の国に興味無さすぎですよね。
ではでは