畿内に東遷した勢力と九州に残った勢力の関係について考えた話です。
畿内に大陸からの人々が
前回まで数回に渡って、畿内に移って来た大和政権が、どのようにして勢力を拡大していったかを見てきました。
国としての形を造り上げるため大陸の人的資源を受け入れ、結果として先進的な優位性を獲得することになります。
その先進性を求めて、中国と周辺国の間にあった冊封体制のような関係が、大和政権を中心として出来上がっていたのではないかと考えました。
「漢委奴国王」の金印の時代から多くの朝貢をしており、先進的な優位性のある勢力との間の冊封という考え方は、理解できるものだったはずです。
九州にも大陸の人々が
ところで、大和政権は邪馬台国が九州から東遷したものと考えていますが、同時にそのほとんどが九州に残ったとも考えています。
そして大陸からの人々も、少なくない数の人が存在していたと思われます。
遣隋使に対して中国から送られた裴世清の報告に、九州に上陸した後の記述に「秦王国は中国人の国だ」とあるのを見ても、その後も多くの人々がやって来たことがうかがえます。
ということは、畿内の大和政権が獲得した優位性を、九州の勢力も持っていたという事になります。
2つの勢力の関係は
つまり、九州の勢力も畿内の大和政権と同様に、冊封体制の中心となってもおかしくないのです。
実際にも、九州や西日本の一部とはそういう関係にあったのかもしれません。
また、もともと邪馬台国の大部分が残ったと考えているので、軍事力も最初からそれなりにあったはずです。
そうなると、東遷からしばらくは、九州の勢力の方が優位だった可能性が高いのです。
しかし、歴史を見てれば明らかなように、最終的には九州の勢力は敗れ去ることになります。
国内は見ていなかった
その最大の要因は、九州の勢力の関心が一貫して大陸に向かっていたからではないでしょうか。
大和政権を作った人々が東に去った後、九州に残った勢力が採った戦略は、朝鮮半島への侵攻でした。
九州の勢力では、大陸からの人々の力が強く、失った地を回復することが最大の目標という事になったのかもしれません。
「広開土王碑」に記録されているように、朝鮮半島を攻め上がりますが、最後は高句麗に敗れます。
その後は、「倭の五王」、遣隋使、初期の遣唐使と、中国への朝貢外交に転じます。
あくまでも、大陸との関係を重視していたことが分かります。
このことが、軍事力の弱かった東遷後の大和政権が、命脈を保ち勢力を広げることが出来た原因だったのでしょう。
九州に残った大陸からの人々にとって、日本のような後進的な地は興味無かったのかもしれません。
ではでは