義経北行伝説
義経の伝説にも色々とありますが、最も興味深いのは、やはり生存説とそれに続く北行伝説でしょうか。
表向きは、頼朝の圧力を受けた泰衡が、衣川館の義経を襲い、自害に追い込んだという事になっています。
その実、義経は北に逃げ延び、蝦夷地、さらには大陸にまで逃げ延びたというものです。
実は、チンギスハンこそ義経だという説も有るのは、ご存知の通りです。
伝説の背景
このような生存説が出来たのには、鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」の記述も一役買っています。
「吾妻鏡」によれば、義経が自害した後、首実検のために、義経の首が鎌倉に運ばれました。
しかし自害した日が4月30日で首実検が6月13日であり、その間40日も経っています。
塩漬けにされていたとはいえ、5月から6月にかけての40日も経てば、首が腐ってしまうことが考えられ、義経と確認できない可能性が有ったと考えられます。
また衣川から鎌倉までは距離にして四百数十キロであり、40日掛かる所ではありません。
このように、義経の死を疑わせるような記述になっているのです。
更に、北の各地にも、義経が逃げて来たという伝説が残っており、北行伝説の根拠となっています。
ただ、幕府側が首実検により義経の死を認めたにもかかわらず、蝦夷の地まで逃げる必要が有ったのかというのは、疑問として残ります。
北への一本道
これらは普通、英雄不死伝説の一種だと考えられています。
しかし、それだけでは片付けられない点もあるのです。
例えば、北行に関して、各地に義経が逃げてきたという伝説が残る地を地図上で見ると、一本の道になっているのです。
引用元:(みちのものがたり)義経・北行伝説のみち 岩手、青森、北海道 「ヒーロー死なず」の真偽は:朝日新聞デジタル
英雄不死伝説の一種という事であるならば、もっと東北全域に伝説の地が有ってもおかしくないはずなのです。
これは、伝説の残った地の人々が、義経がやって来たと後の時代に残すような出来事が有ったと考えるのが自然ではないでしょうか。
以上のような点を説明出来る仮説を考えてみました。
義経は再起を図った
伝説によると、生き延びた義経一行は、各地を経て宮古にたどり着き、「黒(九郎)館」とよばれる居館を構えたと伝わっています。
そして、この地に3年3ケ月滞在したとされます。
その間に当然、首実検の話も伝わったはずです。
もう追手が掛かることはないわけです。
そこで、密かに再起を図ったのが、3年3カ月ともされる長期間の滞在だったのではないでしょうか。
その後、再び北を目指す事になるのですが、その理由は何でしょうか。
死んだと思われているわけですから、北に向けて逃げる必要はなかったはずです。
宮古には、北へ向かった義経の徳をしのび、その甲冑が埋められた上に祠がたてられた、源義経が祭神となっている、判官稲荷神社があります。
ここが義経の墓なのではないかと思います。
残された家来が北を目指した
再起を図ったものの、志半ばで主人を無くした家来一行には、頼朝の力の及ばない蝦夷地を目指すのが、残された最後の手段だったのでしょう。
そして、北を目指す訳ですが、その過程で、義経の名を使って逃避行をしたという事なのではないでしょうか。
宮古から北には、義経のいない義経一行が通って行ったことになります。
現在と違って、義経の顔が知られていたわけでは無いので、各地の人々は義経が来たことを信じたのだと思います。
結果として、北へと通じる一本の逃避行の道が残されたという訳です。
さすがに、チンギスハンは無いと思いますが、大陸に渡った家来はいたかもしれないと思っているのですが。
ではでは