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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

邪馬台国までは一万二千里(その3)

邪馬台国までの距離について考えた話(その3)です

 

 

今回の話

 さて今回は、その2で思わせぶりに終わった、邪馬台国までの距離がなぜ一万二千里とされたのかという話になります。

 

yokositu.hatenablog.com

 


陳寿の情報操作

 このブログでは、魏志倭人伝の編者陳寿が、邪馬台国を東方の大国に見せかけるために、旅程などの内容を情報操作したと考えています。

その理由は、自らが仕える西晋の司馬氏に、天命が下る程の徳が有ることを示すためだと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

司馬氏は、前王朝の魏時代に、中国東北部及び朝鮮半島北部を治める立場にあり、その地域から朝貢してきた邪馬台国が、同時代に西方から朝貢してきた大国大月氏と同等だとすることで、徳が有る事を示そうとしたのです。

そのために、邪馬台国への終盤の旅程を、水行20日、南に水行10日、陸行1月とすることで、実際の位置よりも南方の、中国から見て東方になる位置に持っていく必要が有ったというのが、基本的な考え方になります。

月氏は遠い

 といった事を地図を見て再確認していたのですが、その時に改めてチョット驚いたのです。

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引用元:https://www.y-history.net/appendix/wh0203-085.html

 

右端の朝鮮半島楽浪から北九州までの距離に比べて、左端の大月氏はチョット遠すぎると思いません?

当時の中国人に、このような正確な地理的な認識が有ったとは思われませんが、果して一万二千里で話が成り立つのかと思ったのです。

そこで、大月氏の位置について、当時はどう捉えていたのか調べてみました。

まさにそこに答えが有りました。

一万二千里の正体

 大月氏については、漢の武帝の時代に、張騫という人物が派遣され、その報告が「史記(大宛列伝)」に記録されています。

それによると「大月氏は大宛の西二、三千里ばかりに在り」という事になっています。

「大宛」は上の地図でも大月氏の右上にその名がありますが、「史記」では「漢の正西に在り。漢を去ること万里ばかり。」と記されています。

ということは、両方の話をを合わせると大月氏は漢の西-万二、三千里の所に有るという事になります。

因みに、漢時代の1里は約400メートルだったようですので、西に約4,800キロとなり、現在の地図で調べてもかなりいい所をついたそれらしい数字だといえます。

この距離が、その後の中国の人たちの大月氏の位置に関する基本的な認識になっていたと考えていいでしょう。

これこそが、邪馬台国までの距離一万二千里の正体だったのです。

そして東方の大国に

 作者の陳寿は、倭人伝の下敷きにした記録を見た時に、これは使えると思ったのでは無いでしょうか。

邪馬台国までの距離が偶然にも短里で一万二千里に近い(宇佐説だと一万一千数百里になります)所に目を付けて、先ず終盤の邪馬台国までの行程を「水行20日、南に水行10日、陸行1月」とすることで、位置を南方にずらすと共に距離を曖昧にします。

その上で、邪馬台国までの距離は一万二千里だという一文を入れ込みます。

勿論、1里の距離が違うなんてことは、おくびにも出しません。
実際の距離ではなく、一万二千里離れた場所に有るという事が大切なのです。

これでめでたく邪馬台国は、大月氏に比肩する距離にある東方の国になった訳です。

という訳で、一万二千里の所に邪馬台国を探すことに意味は無かったのです。


 そして、後世の我々は、まんまと騙されて右往左往することになってしまったのです。


ではでは