家康の対外政策について考えた話です。
家康は”開国派”?
このブログの記事で、TV番組が基になるのは、ありがちな事なんですが、今回もそのひとつで、NHKBS英雄たちの選択「家康が夢見た“開国”」の回からの話になります。
徳川家康といえば、江戸幕府を開いために、江戸時代の“鎖国”の礎を築いた人物というイメージが強くあります。
それに対して番組では、家康が、最終的にはキリスト禁教令を出すことになるのですが、それまでは、むしろ国際情勢を的確に把握し世界との貿易を推し進めた“開国派”だったと語られます。
果して、本当に”開国派”だったのでしょうか。
軍事的進出
先ず大前提として、国外に軍事的に進出しようとは思っていなかったと考えられます。
なんといっても、秀吉の失敗をつぶさに見ている訳ですから。
もし仮に、そんなことを考えても、他の諸大名、特に豊臣側の大名には、従わせるのは難しかったでしょう。
では、国際情勢を的確に把握しというのはどうなんでしょう。
国際情勢を的確に把握
当時の国際情勢、特にアジアの状況をよく分かっていたとします。
ということは、ヨーロッパ諸国が進出して来て、元々のアジア諸国がどうなったのかも、良く分かっていたという事になります。
その上で、海外との貿易、特にヨーロッパ諸国とのそれに、明るい未来を見たとは考えられないと思うのです。
むしろ、アジアの情勢が分かっていれば、外国勢力の進出を制限する方向に舵を切るのが普通だとも言えそうです。
にもかかわらず、貿易に関しては、確かに積極的に行っていたようなのです。
どういうことなのでしょう。
東西二分策から
徳川幕府成立初期の国内情勢に関して、以前の記事で、実は家康は、東の徳川、西の豊臣という二分策を採ろうとしていたのでは無いかと考えました。
その事を踏まえて、積極的な海外との貿易について考えるとどうなるでしょう。
西の豊臣勢にはキリシタン大名も多く、海外との窓口も多かったと考えられます。
東の徳川としては、これらの活動を制限出来ない以上、対抗して海外と関係を持たざるを得なかったということなのだと思います。
特に、弾丸の材料の鉛や火薬の原料の硝石を始めとして、武器・弾薬の多くを海外に依存しており、これを豊臣側に独占させるわけには行かなかったはずです。
朝廷を押さえた
ここで、関係する事項の年表を見てみましょう。
1600年 58歳 関ヶ原の戦い
1603年 61歳 征夷大将軍を拝命
1605年 63歳 征夷大将軍を辞職
1611年 69歳 政仁親王(家康の意向で擁立)が後水尾天皇として即位
1612年 70歳 鷹司信尚(家康が推挙)が関白に就任
直轄地へのキリスト禁教令
1614年 72歳 大坂冬の陣
禁教令を全国に拡大
1615年 73歳 大坂夏の陣、武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定
1616年 74歳 死去
1611年以降の動きから、後水尾天皇の即位と鷹司信尚の関白への就任によって、朝廷を抑えたと考えた家康が、大阪の陣により豊臣勢力の力を削ごうとしたのだと考えられそうです。
それでも、豊臣家を滅ぼす気は無かったのではないかという話を、以前記事に書きました。
禁教令で圧力を
同時に、1612年からキリスト禁教令を始めています。
布教と貿易を絡めようとしたスペインを排除するという目的もあったでしょうが、その一方でキリシタン大名を始めとする勢力の貿易も含めて、最終的には全国的な貿易を制限する方向に舵を切った訳です。
朝廷を押さえた結果、豊臣勢を抑え込むめどが立ったと思われると同時に開始したことからみても、対豊臣の動きの一環だったと考えられると思います。
それ以上幕府側も、貿易を推進する必要は無くなったという事です。
つまり、幕府側の当初の貿易推進は、開国といった背景を持ったものでは無かったという事です。
結局、現代の我々が考える程、国際情勢とかまで考えてはいなかったんじゃないかと思うんですけど。
ではでは