継体天皇の出自に関して考えた話です
継体天皇の番組
BSプレミアの番組「英雄たちの選択」で継体天皇の話をやっていました。
概ね、以下のような内容だったと思います。
- 武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、越前にいた応神天皇の5世の孫、男大迹王(をほどのおおきみ)を招いて、継体天皇として擁立した。
- 男大迹王は、越前を治め、近江、尾張とも関係が深い、有力な豪族だった。朝鮮半島との関係も深かった。
- 河内で即位したのち、大和に入るまで20年近くかかったのは、地方豪族の即位に反対した勢力がいたから。ただし、反対勢力に対抗できるようになるため、わざと入らなかったとも考えられる。
- 大和に入った後、すぐに磐井を叩いたのは、もう一度大和政権への求心力を高めるため。
- 継体天皇が、天皇として初めて横穴式石室に葬られ、その棺は、九州で産出する阿蘇ピンク石で作られていた。始めて、大陸で行われている、国際的スタンダードを取り入れた天皇だった。
まとめると、地方からスカウトされて大和政権を立て直した、開明な天皇という事でしょうか。
継体天皇の記事
継体天皇に関しては、実際にはそこで王朝の交代があったのではないかと言う話を、以前書きました。
武烈天皇から継体天皇への継承の話が、中国の正史にみられる、王朝交代のフォーマットによく当てはまることから、単なる代替わりではなく、実質的に王朝が交代したのではないかと考えました。
また、古事記の奇妙な記述内容も、継体王朝への交代が有ったと考えると、説明出来るとも書きました。
継体天皇の出自
ただし、継体天皇本人に関しては、応神天皇5世の孫というのは、いかにも怪しいということ以外は、その出自に関して、特にこれといった考えは有りませんでした。
まあ、漠然と、番組で紹介された上記のようなものだったのだろうと、考えていました。
しかし、今回の番組を見ていて、継体天皇の出自に関して、邪馬台国東遷説との関係で、違った解釈も出来ることに気が付きました。
それは、継体天皇は九州からやって来たのではないかというものです。
加えて、応神天皇5代の孫というのも、あながち出鱈目では無いかもしれないというおまけつきです。
その詳細を、さっそく説明したいところですが、そのためには、先ず、応神天皇に関して、東遷説との関係を説明する必要があるので、稿を改めたいと思います。
本日はこれまで。
出来の悪い講談のような終わり方になってしまいましたが、実は、元々、最近になって応神天皇と東遷説の関係を考えていたのですが、タイミング良く、継体天皇の番組が放送され、今回のような記事になりました。
という訳で、次回は、邪馬台国東遷説と応神天皇の関係についてです。
ではでは