『日本書紀』についての話38、前回の話の疑問点についての話です。
前回の話の疑問点
前回は、これまで記事にしてきた、神武天皇から応神天皇までの話を纏めて見ました。
その中で、東遷について神武天皇の事績としただけでは、東遷後の混乱などが応神天皇の事績となってしまうため、その受け皿として利用されたのが邪馬台国の系図だと考えました。
投稿してから、改めて考えてみたのですが、そのままでは納まりが悪い気がしてきました。
具体的には、東遷後の混乱の受け皿とするならば、欠史八代に振り分けるほうが自然ではないかと思ったのです。
『日本書紀』の記述を見ても、ほとんど事績は無いわけですから、幾らでも嵌め込むことが出来るように見えます。
なぜそうしなかったのでしょうか。
正統性の確保
古今東西を問わず、権力を奪取した初代はそうでもないかもしれませんが、その後を継いだ政権が何代も経るにしたがい、その正統性を示すために、その出自の歴史を纏めることは少なくありません。
その時に、多くの場合勝者の歴史となることは避けられないようです。
大和政権の場合にも、東遷が行われて何代か経った時に、そういったものを作ることになったとしても不思議ではありません。
大和政権の場合
その時に、大前提として邪馬台国は無かったことにせざるを得なかったと思われます。
なぜなら、邪馬台国の東遷は大陸の混乱から逃げるために行なわれたものであり、逃げずに残った九州王朝もあることから、それを公認するのは問題外だと考えられるからです。
つまり、応神天皇が東遷を行ったことを、そのままにするのはまずかったのです。
東遷前の邪馬台国を避けて通れなくなってしまいますからね。
そこで考え出されたのが、初代神武天皇による東征、その後の邪馬台国の系図を基にした崇神王朝への東遷後の事績の組み込み、全ての終わった後での応神天皇の即位、という流れの話だったのではないでしょう。
神功皇后は、卑弥呼、壱与を想起させ、九州王朝を無かったことにするために広開土王碑に記された倭の侵攻を行い、東遷後の混乱を最終的に治めた人物として、創り出されたのです。
欠史八代の導入
こういった状況の中で、中国の歴史に伍する歴史を持った国だとするという事になったのです。
そこで、中国の周に匹敵する時代にするために、欠史八代の話を組み込んだのです。
その時に東遷後の事績を欠史八代の事績として取り込まなかったのは、前項までで考えた大和政権建国の話が、人口に膾炙していたからだと思われます。
そのため、崇神天皇以下の話に組み込まれていた、東遷後の事績を修正することが出来なかったと考えれば、辻褄が合いそうです。
いきなり東征を行うことになった神武天皇の背景を説明するために組み込まれたのが、天孫降臨神話だったのです。
ではでは