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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

大弐三位は誰に頼まれたのか

 「源氏物語」第二部、第三部(以下後編)を書かせたのは誰かという話です。

 

 

もう一つの可能性

 以前の記事で、「源氏物語」後編は、異母兄弟の頼通が摂政になったことに対抗して、その権威を減ずべく、藤原能信大弐三位に依頼したのではないかと考えました。

ここで訂正を一つ。
同記事の中で、「女院彰子を通じて一条院に披露すれば」、と書きましたが、大弐三位が出仕した時には、一条院はすでに亡くなっていますので、これはあり得ませんでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後、説を補強するための情報を求めて、あちこち調べていて、依頼者に関して、もう一つの可能性が有ることに思い至りました。

それは、大弐三位が女房として仕えた、女院彰子です

女院彰子

 女院彰子は、藤原道長の長女です。

藤原道長については、別の記事で、「源氏物語」第一部を、自らの権力を知らしめるために利用したと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その道長の長女である彰子が、父親の権威を貶めるような内容の「源氏物語」後編を、書くことを依頼する可能性はあるのでしょうか。

彰子と道長の関係に、ヒントが有りました

道長と彰子

 彰子は、一条天皇の后となります、その時すでに、一条天皇には、后の定子(道長の兄藤原道隆の娘)がいました。

定子が第一皇子敦康親王(あつやす しんのう)を残して亡くなります。
そのため、彰子が敦康親王を引き取り、養育することになりました。

その後、彰子も、第二皇子敦成親王(あつひらしんのう)、第三皇子敦良親王(あつながしんのう)を生みます。

一条天皇が、三条天皇に譲位すると、敦成親王が皇太子となりました。
彰子からすれば、自分が産んだ子が、皇太子となった訳です。

彰子にとって喜ぶべきことの筈ですが、一条天皇が、第一皇子・敦康親王を推していたことを知っていた上に、同親王を我が子同然に養育したこともあり、敦成親王立太子を後押しした、父道長を怨んだとする話も残っているようです(「権記」)。

以上の事から、彰子が、意趣返しとまでは言いませんが、父道長を困らせようとして、出仕した大弐三位に頼んだ可能性は考えられると思います。

そうだとすると、大人気ないとも思えますが、実は、敦康親王を引き取ったのが彰子13歳、敦康親王2歳、敦成親王立太子は同23歳、12歳の時のことなんですよね。
判らないではないです。

女院彰子が依頼したとなれば、出来上がった「源氏物語」後編を、宮中に披露するのは、難しくなかったはずです。


  藤原能信女院彰子の二説を比べると、彰子の説に分があるような気がして来ました。


  ではでは