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源氏物語の謎(後編)

 今回は、源氏物語に関する疑問についての話(後編)です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

 

成立前

 紫式部は、夫の死後、「源氏物語」を書き始め、その文才を認めた藤原道長に召し出されて、一条天皇中宮の彰子に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。

源氏物語」の成立に関しては、諸説はあるが、概ね以上のように考えられているようです。

なお、中宮彰子は藤原道長の娘です。

藤原道長は、ただ単に紫式部の文才を認めて、娘の女房に召し出した訳ではなく、彼女が書いていた「源氏物語」が利用できると考えたのではないかと思います。

第一部のテーマ

 「源氏物語」は、通常以下の3部構成と考えられています(異論も多くあります。)。
  第一部 第一帖 桐壷から、第三十三帖 藤裏葉まで
  第二部 第三十四帖 若菜から、第四十四帖 竹河まで
  第三部 第四十五帖 橋姫から、第五十四帖 夢浮橋まで(いわゆる宇治十帖)

第一部の内容は、光源氏の華麗な女性遍歴をあえて無視すれば、彼が栄華を極める物語という事が出来ると思います。

問題は、その栄華の極め方に有るのです。

光源氏は、桐壷帝(父でもある)の寵愛する女御桐壷と密通をして、不義の子をもうけてしまう。
その子は長じて、冷泉帝となります。
その冷泉帝により(彼は、光源氏が父だという事を知っています。)、光源氏は、准太上天皇位を贈られて、栄華を極めることになるのです。

后との不義の子が天皇になって、本当の父親が栄華を極める、という内容の物語を利用する事によって、藤原道長は、天皇の権威の相対化、ひいては外戚としての自らの権威、を知らしめたのだと思います。

第二部、第三部による反論

 第二部と第三部は、上記のような第一部を突き付けられた、天皇側からの反論だったと考えます。

その内容は、ポイントのみ書けば、
 第二部 光源氏の後半生を描く。妻が不義の子 薫を産んでしまう。
 第三部 不義の子 薫の話。愛する者の密通を咎め、失ってしまう。
と、第一部の光源氏の行為の裏返しを思わせるもの、となっています。

つまり、天皇の権威をないがしろにすると、因果応報により、自らのみか子孫までも幸せになる事は出来ない、という事を示している訳です。

成立後

 ということで、紫式部が書いたのは、第一部だけだったと思います。
紫式部日記」にある1008年時点では、第一部だけが完成していたという事になります。

第一部を公にすることが出来るほどの権力が有る(何しろ、天皇の后が不義の子を産んでしまう話、ですから。)、藤原道長の存命中は、その力関係から、天皇側も公然と反論出来なかったと思われます。

そのため、第二部と第三部が公になったのは、藤原道長の亡くなった1028年以降だったと考えられます。
そして、その反論が公になった後に、「浜松中納言物語」、「狭衣物語」、「夜半の寝覚」などが書かれることになります。

当然、このあたりの状況は、「源氏物語」の発表当時の宮中の女性達も理解していた、と考えられます。
同時代の女性達は、「源氏物語」が権力闘争の道具として使われている中で、同じような物語を書くことは出来なかったという事です。

 

 最初に第一部みたいのを書いちゃうという事で、紫式部がすごいことに変わりはないんですけどね。

 

 ではでは