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源氏物語を書いたのは誰か

 源氏物語の作者に関して考えてみた話です。

 

 

与謝野晶子の二部作説

 前の記事で、紫式部は、「源氏物語」の第一部のみを書いた、と考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

すると必然的に、残りの第二部、第三部は誰が書いたのか、という事になります。

これに関して、「源氏物語」の現代語訳を三度試みた与謝野晶子が、「若菜」以降の全巻が、別人の作であるとする、二部作を提唱しています。

前記事で、「源氏物語」が書かれた当時の政治状況と物語の内容から、第一部(前編)と第二部、第三部(後編)の作者が異なる、と考えました。

与謝野晶子は、文学者としての観点で、その内容、筆致の違い等から二部作だと考えたようです。

後編の作者

 さらに、与謝野晶子

前編の作者に拮抗して遜色のないこの後の作者は誰であろうか。一読して婦人の筆であることから、当時の女歌人のなかに物色すると、古人の言ったように、大弐三位が母の文勲を継いだのであろうと想像するほかに、その人を考え得ない。
 引用元:pearlyhailstone: 与謝野晶子「紫式部新考」

と、後編の作者の正体については、紫式部の娘大弐三位だと考えたようです。
ちなみに、「古人の言ったように」、というのは、「宇治十帖」が大弐三位の手によるものでは無いか、と言われていたことによります。

後冷泉天皇東宮時代にしばしば宇治に行啓したのに、御乳母の大弐三位がお供をして行き、宇治をよく知っていたはずだというのも、傍証になると考えたようです。

この大弐三位説は、当時の政治状況から見て、どうなんでしょうか。

当時の政治状況

 「源氏物語」第一部を公にした摂政藤原道長の後を受けて、長男の藤原頼通が摂政となり、その後関白に任ぜられます。
さらにその弟藤原教通も、摂政、関白となります。

まさに、藤原北家による摂関政治の全盛期でした。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」
道長が、詠んだりしました。

それほどの権力は、「一家立三后、未曾有なり」と言われたように、娘を天皇の后とし。皇太子をもうけることにより、外祖父となることに拠っていました。

しかし、道長の子、頼通、教通ともに、娘を后としますが、皇太子をもうけることが出来ずに、次第に力を失う事になります。

対抗勢力

同時期に、頼通、教通の異母兄弟で、母の違いから不遇をかこっていた藤原能信が、尊仁親王(のちの後三条天皇)の後見人になっています。
尊仁親王は、生母が藤原家ではありません。
つまり、能信は、頼通、教通と対立関係にあった訳です。

その後、後三条天皇とその子の白河天皇による親政とその後の院政により、摂関政治は終わることとなります。

以上のような状況の中で、能信が、頼通、教通に対抗する方策の一環として、同じ藤原北家の出である大弐三位に、「源氏物語」第一部への反論としての続編を依頼したという事は、あり得る話だと思います。

大弐三位紫式部の娘という点も、続編を公にし易いと考えたかもしれません。(あの紫式部の娘が書いた続編です、といった感じで。)

また、大弐三位自身にも、与謝野晶子が書いているように、母の文勲を継ぎたい、という思いがあったのかもしれません。


ということで、政治状況から考えても、「源氏物語」の作者は、第一部紫式部、第二部、第三部大弐三位、の可能性が有るという結論になりました。

 


 しかし、紫式部藤原北家の出だという事を考えると、全ては藤原北家の中での話とも言えるわけで、恐るべし藤原北家というところでしょうか。


 ではでは