横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

更級日記を忘れていました

 「更級日記」と、「源氏物語」の書かれた時期についての話です。

 

 

道長の死んだ後では矛盾が

 源氏物語の謎(後編)で、「源氏物語」第二部、第三部の公になったのは、権力者藤原道長の無くなった1028年より後ではないかと書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

が、これは、結論を焦ったチョンボでした。

というのも、それでは、菅原孝標女による「更級日記」に出て来る、「源氏物語」に関する話と矛盾してしまうからです。

更級日記源氏物語

 「更級日記」に、父・菅原孝標に従って、任地の上総より京に帰国した翌年に、源氏の五十余巻を手に入れるくだりが出て来ます。

菅原孝標が帰国したのは、1020年なので、菅原孝標女が源氏の五十余巻を手に入れたのは、1021年のことになります。

つまり、源氏物語」は、1021年の時点で全て出来上がっていたことになる訳です。

ところで、「更級日記」は、いわゆる毎日書いた日記ではなく、菅原孝標女が、後年その人生を振り返って書いたものとされており、手に入れたくだりは、40年以上昔のことなので、その正確性に疑問が無いわけではありません。

しかし、物語を読みたくてしょうがなかった少女時代に、やっと手に入れた源氏の五十余巻に関する記憶は、鮮烈だったと思われ、何年もの単位で間違っているとも思えません。

やはり、道長の亡くなる前に、「源氏物語」は存在していたようです。

大弐三位はいつ書いたのか

 そうなると、「源氏物語」第二部、第三部を、大弐三位が書いたとすると、いつ書いたのでしょう。

実は、道長は、生前の1017年に、嫡男の頼通に摂政を譲っています。

一方、大弐三位は、同じ1017年に、母紫式部の後を継ぎ一条院の女院彰子の女房として出仕しています。

この状況で、異母兄弟の頼通が摂政になったことに対抗して、その権威を減ずべく、藤原能信大弐三位に依頼した可能性が考えられます。

大弐三位は、1017年から1021年の間に書いた事になります。

摂政を退いたとは言え、まだまだ権力を掌中にしていた道長ですが、大弐三位が、書いたものを、女院彰子を通じて一条院に披露すれば、異を唱えることは出来なかったのかもしれません。

ちなみにこの時、大弐三位は18~21歳の時期でした。


 紫式部の生年に関しては諸説あるようですが、一説によると、23歳ごろから、「源氏物語」を書き始めたことになるようです。
全く、遺伝のなせる業なのか、驚くべき親子だという事になります。


  ではでは