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源氏物語の謎(前編)

 今回は、源氏物語に関する疑問についての話(前編)です。

  

 

源氏物語の評価

 「源氏物語」と言えば、おそらく、誰もがなんとなく内容を知っているけど、ちゃんと読んだことのない本のランキングでは、間違いなく上位にランクされるに違いないですよね。

私も、何度かトライしては、挫折を繰り返し、あらすじだけで読んだ気になっている口です。

その「源氏物語」ですが、現代においては、「世界最古の長篇小説」(異論はあるようですが)の傑作として、翻訳が海外にも紹介され、世界的な評価を受けています。

もちろん、54帖からなる長編が、成立した平安時代から今に至るまで伝わっていることから、書かれた当初から、ある程度の評価を受けていたことは間違いないと思われます。

そのことは、作者とされる紫式部の「紫式部日記」の1008年の記述に、敦成親王後一条天皇)の誕生祝いの宴で、藤原公任紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた、とあることからも裏付けられる、と考えられています。

紫式部に「源氏物語」のヒロインの一人の名前で話しかける程、宮中の人間にも知られていたという訳です。

ちなみに、このことをもって、1008年には「源氏物語」が出来上がっていた、と考えられています。

またその評価が高かったことは、同じ平安時代に「源氏物語絵巻」が作られたことからも明らかでしょう。

当時の宮中

 紫式部が「源氏物語」を書いた当時、宮中には、後宮の后に仕える女房達をはじめとして、中流貴族の娘が出仕することが多かったようです。

彼女たちは、当然教養も高く、結果、当時の宮中には、当代の女流の文学的才能のかなりの部分が集まることになっていた、と考えられます。

例えば、紫式部が、藤原道長の娘の中宮彰子に仕えていた同じ時期に、和泉式部赤染衛門などが、少し前に清少納言が、後宮にはいました。

そういった状況の中で、「源氏物語」が書かれ、評判を取った訳です。

評判が高かったのに

 それに対して、宮中の少なくない数の才能ある女性が、「この手があったか」と考えたに違いないと思うのです。

漢詩でも、和歌でも、そして日記でもない表現方法に出会ったわけです。

それこそ、雨後の竹の子のように、似て非なる作品が生み出されてもおかしくは無いですよね。

それなのに史実では、そのような様子は見られないのです。
なぜ、彼女たちは、物語を書かなかったのでしょう。

源氏物語」の影響を受けたと考えられているものが、全く無い訳ではありません。
「浜松中納言物語」、「狭衣物語」、「夜半の寝覚」などが上げられますが、いずれも11世紀後半以降のものです。
源氏物語」の成立は1008年以前ですので、2世代程の隔たりが有る訳です。


 私は、同時代の女性たちは、書かなかったのではなく、書けなかったのだと考えているのですが、その話は、後編で。


 ではでは