横穴式石室の伝播と普及について考えた話です。
竪穴式と横穴式
前方後円墳というのは、お墓な訳ですが、その埋葬方式には、勿論細かな違いや例外はありますが、大きく分けて、竪穴式と横穴式の二つの形式があります。
竪穴式は、後円部の頂上部に埋葬を行うもので、再利用は出来ません。
それに対して、横穴式は、棺を納める玄室まで、文字通り横から通路を作る形式のもので、構造から分かるように、後から別の棺を入れること、すなわち追葬が可能という事になります。
これら二つの形式は、先ず土着的な竪穴式から始まって、そののち横穴式が広まったと考えられています。
その横穴式は、中国から、朝鮮半島を経由して、日本に伝播したとされ、地理的にも近い九州北部で、4世紀後半から作り始められたとされています。
埋葬方式は葬送儀式の一部
一般的には、北九州の豪族が、朝鮮半島で行われているのを、取り入れて始まったと考えられています。
それに対しては、チョット疑問があります。
先にも書いたように、そもそも葬送儀式の一部である、埋葬の形式を、交流があるからと言って、そんなに簡単に取り入れるとは思えないんですよね。
大体、葬送儀式の形式は、その社会の世界観、死生観、そして宗教観を色濃く反映しているものの筈で、いくら近隣の先進地域で行われているからといって、自分の親を葬る時に、祖父母とは違う形式のもので行おうとはならないと思うんですよね。
では、4世紀後半の北九州で何があったのでしょうか。
横穴式石室の伝播
以前の記事で、中国での動乱から逃れてきた朝鮮半島からの亡命者の影響で、邪馬台国が畿内に東遷したのでは無いかと考えました。
この朝鮮半島からの亡命者が、葬られるときに、彼らの習慣に従って横穴式を取り入れたと考えれば、納得がいきます。
中国での動乱、すなわち西晋の滅亡による五胡十六国時代の始まりは309年です。
当然、その後に亡命が起こった訳で、亡命後に古墳に葬られるほどの地位になった後に亡くなったと考えられるので、それなりの年月があったと考えられます。
そうすると、九州北部で4世紀後半から作られ始めたという事実に合う事になります。
横穴式石室の普及
その後、邪馬台国の東遷に従って、それに同道した亡命者の一族を中心に、横穴式が東にも広がっていったという事ではないでしょうか。
という事で、初めの頃にみられる横穴式の古墳は、亡命者関連の権力者の墓で有り、支配者の墓では無かったという事になります。
初めて天皇で横穴式の墓に葬られたのは、継体天皇だそうです。
継体天皇が亡くなったのは、531年となっているので、大和政権の支配者層が取り入れるほど社会的に受け入れられるのに、約二百年程かかった事になります。
以上、横穴式石室の伝播と普及を、邪馬台国東遷論で説明してみた話でした。
ではでは