『日本書紀』についての話49、聖徳太子について考えた話(遣隋使の派遣)です。
遣隋使は送っていない
今回は、聖徳太子の業績とされる、「冠位十二階」、「十七条憲法」に続く三つ目として、遣隋使の派遣について考えます。
通常、聖徳太子が遣隋使を派遣した主な目的として、中国の進んだ文化や制度、特に、隋の政治システムや律令制度、仏教文化などを積極的に取り入れ、日本の国づくりに役立てるため、といったことが言われてます。
また、あの有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」という国書の一文から、日本と隋が対等な立場での外交を目指していたともされます。
ところで、本ブログでは以前の記事で書いたように、遣隋使は大和政権ではなく九州王朝が派遣したものだと考えています。
という事で、今回は遣隋使が『日本書紀』においてどう取り扱われているかについて見てみます。
遣大唐使派遣
そもそも、『日本書紀』には、聖徳太子と遣隋使の関係を示す直接的な記述は出て来ません。
先ず、派遣をしたのは、聖徳太子ではなく推古天皇となっています。
しかも、派遣先は「隋」ではなく、「大唐国」です。
そして、その派遣に関して聖徳太子が出てこないだけでなく、先の有名な国書に関しても、一切触れられていません。
派遣されたのは、あの有名な小野妹子です。
彼は、大礼だったと書かれていますが、これは冠位十二階の中に有る官位です。
冠位十二階はその実在が疑わしいわけですから、彼についてもそういう事なのではないでしょうか。
ちなみに、『日本書紀』には、小野妹子は中国で蘇因高(ソインコウ)と呼ばれたと書かれていますが、『隋書俀国伝』には使者の名前に関して記録は有りません。
遣大唐使帰朝
さて、小野妹子が大唐国の使者裴世清(『隋書俀国伝』では裴清)を伴って帰朝します。
そのとき判明したのが、これもまた有名な大唐からの返書を百済に盗まれたという話です。
これについては以前の記事で、実際には返書は九州王朝に渡されたわけで、当然大和政権側には返書は無いのですが、それに対しての言い訳だと考えました。
これに関する話も『隋書俀国伝』には全く出て来ません。
結局、聖徳太子は
見てきたように、聖徳太子が遣隋使(遣大唐使)に関わったという記述は存在しないのです。
しいて挙げるならば、大唐からの使者裴世清が推古天皇に謁見した際に、皇子・諸々の王・諸々の臣が同席したと取れる記述があるぐらいでしょうか。
結局の所、聖徳太子が遣隋使に関わったと考える根拠としては、彼が推古天皇の皇太子兼摂政だったという点しかないのです。
普通は、摂政だから関わらなかったはずはないと考えます。
これもまた、『日本書紀』編纂者の思う壺なのではないでしょうか。
ここでも、中国側の記録を完全に肯定はしないが、それらしい事績を挙げる、という手法が踏襲されています。
ではでは