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壬申の乱背景考・前編

壬申の乱の背景について考えた話・前編です。

 

 

前回の話から

 前回の記事では、壬申の乱の経過とその戦域について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

特に、その戦域が畿内と近江にほぼ限定されていること、加えて多くの地域の存在感がほとんどないことから、九州の勢力を倒す前の大和政権は畿内+近江だったのではないかという話でした。

今回は、壬申の乱の背景、特に畿内と近江以外の多くの地域の存在感がほとんどない理由について考えて見たいと思います。

乙巳の変から始まった

 始まりは、乙巳の変だったと思います。

乙巳の変中大兄皇子天智天皇)は、蘇我氏を滅ぼします。

以前の記事でも書きましたが、蘇我氏は渡来系の人々を背景とした一族だったと考えられています。

大和政権は、その渡来系の人々の知識、能力を使って国づくりをしてきたと考えているので、蘇我氏はその体制の維持を望む勢力だったと思われます。

それを倒した天智天皇は、その当時の状況に満足していない立場だったという事になります。

そのことは、その後の九州勢力白村江の戦いまでの流れを見れば、間違い無さそうです。

白村江の戦いで負けて

 百済が滅ぼされたことをきっかけに、九州の勢力を滅ぼし、それまでの二極体制を打ち破ります。

その後、国内の体制をどこまで変えようとしていたのかは分かりませんが、白村江で負けることは考えていなかったはずです。

残念ながら、実際には大敗を喫してしまうわけです。

そのため、その後の体制は、新羅・唐連合軍の侵攻を想定したものへと一気に舵が切られました。

早急に防衛体制を造り上げる必要性が出た来たわけです。

防衛体制に必要なもの

 防衛のために先ず考えられたのが、防衛拠点の構築でした。

そのために造られたのが、大宰、総領、城です。

さらに、都をより内陸で、いざというときに琵琶湖に逃れることの出来る、近江大津宮に移しました。

このように、箱ものは色々と作っていますが、そうなると問題は、それに対応した兵力の確保という事になります。

そのために作られたのが「庚午年籍」だったのかもしれません。

これで、各地から招集できる兵力を見積もることが出来ます。

これが、壬申の乱の起こった当時の状況だったと思われます。

上のようなことだったとして、それに対する各地の勢力の反応がどうだったのかが、壬申の乱に関係していると考えています。


 というところで、次回に続きます。


ではでは