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乙巳の変の影響考

乙巳の変の影響について考えた話です。

 

 

乙巳の変もあった

 ここしばらく、白村江の戦いの前後辺りの歴史について考えています。

九州にあった邪馬台国が、大陸の動乱(五胡十六国時代)を避けて、畿内に東遷したグループと九州に残ったグループに分かれたという仮説がベースになっています。

畿内に移ったグループが大和政権となり、九州に残ったグループは、現状の日本史の教科書では出て来ませんが、白村江の戦いの直前まで一定の勢力として存在していたと考えています。

その好太王の碑文にある倭による侵攻、倭の五王、遣隋使、初期の遣唐使、は全て九州の勢力が行ったという事になります。

その九州の勢力を、白村江の戦いの直前に大和政権が攻め滅ぼしますが、その後、唐、新羅に白村江で敗れてしまうわけです。

ところでこの流れだと、日本史の教科書的には、大和政権側の大きな出来事が抜けています。

乙巳の変です。

乙巳の変大化の改新

 乙巳の変は、645年(この年が乙巳の年なのでこう呼ばれていいるようです。)に中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏を滅ぼした事件です。

ところで、私が学生だった時に「乙巳の変」というのを習った記憶はありません。

そのころには、「大化の改新」と習いました。

調べてみると、現在では蘇我入鹿の暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、それ以降に行なわれた政治改革を「大化の改新」と呼び分けているようです。

どうやら最近は、「大化の改新」の実存性が疑われており、「大化の改新」が否定されても、蘇我入鹿の暗殺事件は残るため、その部分だけを「乙巳の変」と呼んでいる、という事のようです。

蘇我氏

 乙巳の変で滅ぼされた蘇我氏ですが、ウィキペディアによると、

王権の職業奴属民としての役割を担っていた氏族の管理や国外との外交に対する権益を持っていたとみられ、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。
引用元:

蘇我氏 - Wikipedia

 

という事で、本ブログで考えている、大和政権が伸長する要因となった大陸からの渡来人を背景にして権力の座についていた氏族のようです。

暗殺された蘇我入鹿の頃に全盛期で、ほぼ一強状態だったとされています。

蘇我氏が滅亡して

 本ブログでは、九州の勢力が一貫して大陸に向かっていたと考えています。

これは見方を変えると、渡来系の勢力の影響力が強かったとも考えられます。

その九州の勢力と、大和政権の外交に対する権益を持ち、かつ渡来系を率いていたと考えられる蘇我氏は、陰に陽に繋がりがあったとしても可笑しくありません。

蘇我氏が滅亡することで、そのパイプが無くなってしまったと考えられます。

そんな状況の中で、百済が、唐・新羅によって滅ぼされてしまいます。

蘇我氏のパイプがなか無くなってしまったことで、その後の唐・新羅・九州の勢力連合の意向を確認することが出来なかったという事なのかもしれません。


 情報不足の疑心暗鬼からの過剰反応が、九州勢力を滅ぼし、その後の白村江の戦いでの敗戦の原因だったのかもしれません。

 
ではでは