大海人皇子の行動について考えた話です。
後継争い
その大海人皇子は、天智天皇の亡き後に、その皇子の大友皇子を壬申の乱で倒し、天武天皇となります。
こう書くと、ありがちな後継争いという感じがします。
しかし、『日本書紀』でのその記述をみると、奇妙な点もみられます。
今回は、そのあたりを考えて見たいと思います。
後継指名を蹴った
『日本書紀』の天武天皇紀によると、天智天皇が病床に大海人皇子を呼び、鴻業(天皇の仕事)を託そうとします。
これは実質的に後継指名の意思を示したと取ってもいいでしょう。
それに対して大海人皇子は固辞し、皇后への譲位と大友皇子を皇太子にすることを進言し、自らは出家して功徳を修めると答えました。
天智天皇はそれを聞き入れ、大海人皇子は即日に出家をし吉野に下ります。
皇太子なのに
このような経緯で大海人皇子は、出家して吉野に下ることになるのですが、この話には奇妙な点があります。
天智天皇の病床に呼ばれた時点で、大海人皇子は東宮と書かれています。
東宮というのは皇太子のことです。
という事は、大海人皇子は皇太子でありながら天皇位を蹴ったことになります。
その内容は、自らその任にあらずと考えて身を引いたとも取れる記述となっています。
しかし、現実には、その翌年に壬申の乱を起こしているのです。
そのまま天皇になっても良かったのではないでしょうか。
大友皇子が後継だった
天智天皇の病床での話は、実際には、後継を大友皇子にするからよろしく頼むという話ではなかったかと思います。
それを聞いて大海人皇子は、身の危険を感じたのでしょう。
このあたりのことが、蘇賀臣安麻侶に「発言に気をつけろ」と密かに伝えられた、という記述に反映されているのかもしれません。
その場で出家することを申し出ることで、身の安全を図ったのだと思います。
そして吉野へ下り、機会をうかがったという事になります。
出家して功徳を修める気など無かったのです。
これも『日本書記』だからか
これも、やはり徳のない天智系から有徳の天武系への継承というシナリオで造られたものなのではないでしょうか。
大海人皇子は皇太子であったにもかかわらず、大友皇子に後継の地位を奪われることになり、野に下って壬申の乱を起こします。
天智天皇崩御後に、記録はありませんが実際には大友皇子が即位していたのかもしれません(明治時代に弘文天皇を贈られています)。
そうなると、壬申の乱は、単なる後継争いではなく、天皇に対して反旗を翻したものと言うことになります。
大海人皇子は、簒奪者ということになります。
それを、さも天智天皇からの禅譲を固辞したという、天武系から見ればいい話にしているわけです。
血族が争うと、なかなかに血生臭いですよね。
ではでは