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庚午年籍考

庚午年籍について考えた話です。

 

 

最初の戸籍

 「庚午年籍」は、古代日本で最初に造られた戸籍とされています。

日本書紀』の天智9年(670年)二月に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」との記述があります。

天智9年(670年)が庚午の年であることから、この時造られたものが「庚午年籍」という事のようです。

日本書紀』には上の記述しかないので、天智天皇が「庚午年籍」と呼んだのかどうかは定かではありません。

その後の幾つかの記録の中で、「庚午年籍」という名称が使われている例があるようです。

何が造られたのか

 いずれにしても、戸籍を造ったのは確かなようですが、問題は何の戸籍が造られたかです。

何しろ、二月にいきなり「戸籍を造り」ですよ。

これが全国の戸籍を造ったとするならば、そんなに簡単に出来るのかという疑問が生じます。

これが「作成を命じた」のようなことであれば納得できそうですが、いきなり「造った」というのはどうなんでしょう。

作成を命じても、全国にそれを伝えるだけでも二月が終わりそうです。

しかもその続きが「盗賊と浮浪とを断ず」です。

全国の戸籍を造る目的が、盗賊と浮浪者の取り締まりというのは、ちぐはぐな気もします。

近江大津宮の戸籍?

 という事で、『日本書紀』のこの記述を読んだ時には、これは全国の戸籍などではなく、この三年前に移った近江大津宮の戸籍を造ったのではないかと思ったのです。

であれば、「盗賊と浮浪とを断ず」という記述も、出来たばかりの都の治安を維持するためと考えれば、違和感のないものになります。

最初の戸籍などという大げさなものではないんじゃないかなと、妄想していました。

それなりのものが

 ところが調べてみると、それなりの根拠のあるものでした。

戸籍に関しては、全国的なものがこの後の持統天皇四年(690年)から造られ始めます。

それ以降6年ごとに作成されるようになります。

その造られたものの取り扱いについて、律令の令についての解釈がまとめられた『令義解』に、直近5回分を残すように書かれ、加えて「近江大津宮庚午年籍は廃棄しない」とあるのです。

つまり、「庚午年籍」はその後の全国的な戸籍と同列に扱われ、なおかつ永久保存とされていたという事になります。

近江大津宮だけの戸籍を、永久保存するのは意味がなさそうです。

前回の話と同じ

 実際には、その後の全国的な戸籍と同列に扱われるようなものが造られていたにも関わらず、『日本書紀』での扱いはあまりにもそっけないものと言えるでしょう。

これも、前回の記事で考えた、『日本書紀』を編集した天武系からの天智天皇の不当な取り上げ方の一環なのかもしれません。

 

yokositu.hatenablog.com

 

なぜ永久保存?

 それなりなものが造られたという事のようですが、どうして永久保存なのでしょう。

これについては一般的には、「氏姓を確認する基本資料とされた」ためと考えられています。

始めて纏められたから、最も遡れる基本資料というわけです。

これを、本ブログで採っている、邪馬台国が分裂して大和政権と九州の勢力に分かれたという立場から考えるとどうでしょう。

その九州の勢力を倒したのが天智天皇だと考えています。

という事は、その天智天皇が造った戸籍は、全国的な規模のものだったとすると、初めて旧九州勢力の勢力範囲を網羅したものだったことになります。

これこそが、永久保存とされた理由だったのではないでしょうか。


 とはいいながら、「庚午年籍」は、現在では影も形もなくて確認できないのが残念です。


ではでは