壬申の乱の開戦について考えた話です。
前回の話
前回は、壬申の乱前夜の大海人皇子の行動の疑問点についての記事でした。
『日本書紀』によれば、天智天皇から後継の打診を固辞し、出家した上で吉野に下ったという事になっています。
東宮すなわち皇太子であったとされる大海人皇子が、天皇位を辞退するという謎の行動をとったことになります。
これは、天智天皇かなの話は、実際には大友皇子への後継指名であり、自らの身の危険を感じた大海人皇子が吉野に逃れたのだと考えました。
それを、さも天智天皇からの禅譲を固辞したという、天武系から見ればいい話にしているわけです。
開戦理由
出家して吉野に下った大海人皇子ですが、翌年には反旗を掲げ壬申の乱を起こすことになります。
その発端について『日本書紀』によると、朝廷が美濃・尾張の二つの国司に、天智天皇の墓を作るための人夫集めさせていたのを、兵を集めているようだと知らせたものがいた、という話になっています。
それを聞いた大海人皇子が、調べさせた結果、どうも本当のようだという事で、挙兵することを決めます。
反応が過敏ではないか
この話、よく考えると大海人皇子側の反応が、いささか過敏ではないかと思えます。
美濃・尾張で墓造りのために集められている人たちが、兵隊のようだというだけで、別に吉野に向かって進軍してきているわけでも何でもないのです。
上の話の続きとして、知らせた人物の、「これは大事が起こるに違いない」、という意見のようなものがありますが、それにしてもです。
それで様子を見るならともかく、いきなり挙兵するというのは、条件反射にすぎるような気がするのですが。
影法師に驚く
これは、宮本武蔵と宝蔵院流の日観の話に似ているような気がします。
宮本武蔵が、日韓が畑仕事をしている横を通りかかった時に、畑仕事の鎌が自分に向かってくるように感じて、思わず九尺(3メートル弱)あまりも飛んで通り抜けたのです。
それを日観は、「あの殺気は影法師じゃよ。つまり、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたことになる。」と看破します。
大海人皇子も、やる気満々だったから、美濃、尾張の集団が自らを攻める兵に見えてしまったのです。
やはり美談ではなかった
やはり、大海人皇子の天皇位禅譲の固辞と吉野下野は、美談でも何でもなく、『日本書紀』編纂のシナリオに沿った話だったのです。
身の危険を感じ吉野に逃げたものの、折あらばと虎視眈々と狙っていたところに、美濃、尾張の話が飛び込んで来ます。
それに対して、打てば響くように挙兵をしたという事なのでしょう。
禅譲を蹴って出家した翌年に反乱の挙兵という話は、無理筋ですよね。
ではでは