天智天皇について考えた話です。
乙巳の変の勝者
前々回は、乙巳の変の影響についての話でした。
乙巳の変で蘇我氏の力が削がれたことが、九州勢力との戦い、ひいては白村江の戦いへと向かう遠因になったのではないかという事でした。
渡来系の勢力との関係が深かったと考えられている蘇我氏は、その関係から、九州の勢力ともパイプをもっていたと考えられます。
それを、乙巳の変で蘇我氏が排除されることにより、失ってしまったことが、九州勢力を脅威と考えることになったのではないかというわけです。
その乙巳の変の勝者と言っていいのか、首謀者が中大兄皇子後の天智天皇です。
蘇我氏は穏健派
ところで、乙巳の変で敗れ去った蘇我氏ですが、上にも書いたように渡来系の勢力と関係が深かかったと考えられています。
本ブログでは、大和政権が渡来系の勢力を国づくりに採り入れるりいれることにより、その優位性を確立したと考えています。
その渡来系の勢力と関係性が深かった蘇我氏は、権力を握った時点では、どちらかと言えば現状肯定的な穏健派であったと思われます。
それまで国を発展させてきた状況に上手く乗って来ているわけで、それを自ら否定するという事は考えにくいですから。
天智天皇は急進派?
その蘇我氏を排除したという事ですから、その首謀者の天智天皇は、現状否定の急進派という事になります。
確かに、その後の出来事を見ていると、そうなのかもと思わせるものはあります。
百済からの要請に基づいて、いきなり九州へ侵攻をしていますし、その後白村江の戦いまで一気に突き進みわけですから。
ここまで見ると、急進的な現状否定のように思えます。
そのために、穏健路線の蘇我氏が邪魔だったから乙巳の変で排除したように見えます。
白村江の戦いで敗れた後は
しかし、白村江の戦いに敗れた後はそうでもなくなります。
各地に大宰や城を造るとともに、都を近江大津宮に移します。
特に近江大津宮については、現在の大津市で琵琶湖の沿岸に位置し、明らかに攻められた時に水上に逃げることを意図していると考えられます。
つまり、唐、新羅の連合軍がせめて来ることへの対応がメインという事になります。
この対応を見ると、とにかく蘇我氏を排除たかっただけで、その後のことはあまり考えていなかったとも言えそうです。
たまたまその直後に百済が滅んでしまったために、白村江の戦いまで突っ走ってしまったのかもしれません。
『日本書紀』の記述なので
こう見てくると、天智天皇は勢いで白村江の戦いに負けてしまっただけの天皇のように見えます。
ただし、これは『日本書紀』の記述によるものだという事を考える必要もあります。
『日本書紀』は、天智天皇のあとを受けた、天武天皇、持統天皇2代の記述で終わりますが、持統天皇から文武天王への禅譲がその最後を飾ります。
明らかに天武系の天皇の正当性を示すのが、編纂された目的の一つだったわけです。
そのため、その天武系の前の天智天皇の取り上げ方が厳しくなったという可能性も排除できません。
天智天皇は徳が無かったが、それを継いだ天武系はこんなに優れているというわけです。
乙巳の変を見ても、ここ一番の決断力はあったと思うのですが。
ではでは