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壬申の乱戦場考

壬申の乱の戦場について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事は、壬申の乱の開戦についての話でした。

リンク:壬申の乱開戦考

日本書紀』における壬申の乱が開戦するまでの経緯は、大海人皇子天智天皇からの譲位を辞退し、出家の後吉野に下ったにもかかわらず、天皇側に攻める意図が見られたために、兵を挙げたとなっています。

つまり、大海人皇子側が共有の意を示したのにも関わらず、攻められたのでやむを得ず反撃した、という立て付けになっているわけです。

とはいうものの、天智側の行動に対して、打てば響くような挙兵だったことから、実際には最初から大海人皇子側も、やる気満々だったのは明らかだという話でした。

壬申の乱経過

 そんなことで始まった壬申の乱の経過を、簡単に見てみたと思います。

引用元:壬申の乱|関ケ原町歴史民俗学習館

大海人皇子側は、一部難波方面にも進みますが、主力は吉野から北上して直接近江大津宮を目指すのではなく、伊賀、鈴鹿関を経由して、伊勢、美濃の東方面を目指し、不破関に布陣します。

これにより美濃、伊勢、伊賀、熊野等の勢力の協力を得ます。

ところで、美濃は前回の記事で見たように、天智天皇の墓をつくと称して兵を準備していることが、大海人皇子挙兵の重要な根拠だったはずなのですが。

というようなことはあるのですが、この一連の動きで、大海人皇子側は、東側を抑えることになりました。

その後、不破関から侵攻し琵琶湖に沿うように攻めこみ、最後は大友皇子を自殺に追い込み勝利します。

意外と狭い範囲で

 経過を示した上の図を改めて見ると、その戦いが行われた範囲が意外と狭いように思うのですが、どうでしょう。

戦闘はほぼ畿内と近江でしか行われていませんし、それ以外には伊勢と美濃が出てくるだけです。

前回の記事でも書きましたが、大友皇子については、壬申の乱の起こった時に天皇に即位していた可能性があります。

だとすれば、大海人皇子は兵を起こした時点で、天皇に対して反乱を起こしたことになります。

最終的には大海人皇子が勝利したわけで、これは国を2分する出来事だったはずです。

それにしては、上にあげた地域以外は、ほぼ存在感がありません。

東の地域に関しては、大海人皇子側が不破の関を抑えたので、情報を遮断できたと書かれていますが、それにしても乱後にも特に動きが見られません。

西側に至っては、筑紫の大宰府に応援を依頼したが、断られたという話があるだけで、それ以外の地域は全く存在感がありません。

どうして他の地域が出てこないのか

 なぜ他の地域がこれほどまでに出てこないのか。

先ず考えられるのは、乱自体が短期間に収束したから、というのが考えられます。

大海人皇子が挙兵したのが6月24日で、大友皇子が自殺したのが7月23日でその間約1か月です。

この1か月は、確かに長くはないですが、それでも周辺の地域が動くには十分な期間ともいえます。

それでも、周囲の地域の存在感が全くと言っていいほどないことを考えると、もう一つの可能性が出て来ます。

それは、この乱で戦いの行われた、畿内と近江こそが大和政権の勢力範囲だったのではないかというものです。

勿論この時点では、筑紫大宰府も大和政権の勢力下だったのですが、九州の勢力を倒す前の大和政権は畿内+近江だったのではないかと思うのです。


それにしても、西側は見事なまでになんの動きもないんですよね。


ではでは