大和政権の勢力拡大の要因について考えた話です。
前回までの話
前回まで神武東征について考えてきました。
本ブログでは、神武東征の話は邪馬台国の東遷を基にしていると考えています。
そのことを前提にして考えると神武東征は、吉備に逃れて来た少数の邪馬台国中枢の人々に、熊野の勢力が力を貸すことで可能になったのではないか、というものでした。
東征(東遷)はしたが
東征(東遷)を果たしたわけですが、上に書いたように熊野の勢力の力を借りて達成されたものでした。
その経過も、大阪湾に上陸して攻め込むも一度撃退され、紀ノ川経由で迂回し、搦め手ともいえる宇陀方面から攻略しています。
つまり、圧倒的な力で攻め取ったわけでは無く、むしろようやく勝利したといってもいいかもしれない結果です。
この状況から考えて、その後に周辺に向けて軍事行動を起こして、勢力を拡大するというほどの力は無かったのではないかと考えられそうです。
それ以前に
東遷して来た邪馬台国の人々は少数だったっと考えてきたわけですから、熊野の勢力の助けを借りるとしても、東遷時の短期的な戦いはともかくとして、長期的に国としての形を整えるのも大変だったと考えられます。
圧倒的に、人材が不足していたと考えられるのです。
そこで利用したのが、大陸の人々だったのではないでしょうか。
そもそも東遷の理由が、五胡十六国という大陸の混乱が海を渡ってやってくることを恐れて始まったのでした。
そしてその東遷を推進したのは、邪馬台国の中枢に入り込んだ大陸から亡命して来た人たちだったと考えたわけです。
彼ら以外にも沢山の人間が逃げて来たはずで、それらの人々を取り込んで、国を造り上げていったのではないでしょうか。
大陸の人間を採用したから
その結果が、以前の記事でも取り上げた、この時代のDNAに見みられる、大陸の影響なのでしょう。
この記事の中では、大陸からの亡命者が大和政権の中枢部にいることをみて、大陸から人が渡って来たのではないかとしました。
そういった流れもあったかもしれませんが、今回考えた東遷時の状況からは、より積極的に大和政権が大陸の人材を採用していったのではないかと考えられそうです。
渡って来るのを待つだけではなく、呼び寄せるといったこともあったかもしれません。
しかも、このブログでも何度か取り上げているように、当時の大陸と日本との文化のレベルの差は、かなりのものがあったはずです。
その大陸の人材を登用して国づくりを行ったわけですから、当時のその他の国に対するアドバンテージは小さくなかったと思われます。
このあたりが、少数で東遷したにも関わらず、結果として大和政権が勢力を拡大した要因なのではないでしょうか。
これ、九州にも大陸からの人々がいたわけで、九州の勢力がこの後長く続く要因でもあるかもしれません。
ではでは