大和政権の勢力拡大と古墳の関係について考えた話です。
謎の四世紀だから
前回の記事では、大和政権がどのように全国に勢力範囲を拡大したのか考えてみました。
大和政権の勢力拡大には、軍事的なものによるのではなく、大陸の先進的な知識、文化による優位性によって冊封体制のようなものが形成されたことによるものではないかという話でした。
一応話としては、致命的な破綻は無いと思うのですが、何しろ対象となる時代がおおむね「謎の四世紀」で、ほぼ文献的な裏付けもなく、妄想全開です。
さすがに妄想のままではと思うので、今回は現物の存在する古墳との関係から考えて見たいと思います。
古墳時代
古墳と言えば、三世紀中頃から七世紀末に盛んに造られ、この時代を古墳時代と呼んでいます。
さらに古墳の形状から言えば、全てではありませんが、前方後円墳が広く造られるようになる過程と言ってもいいでしょう。
前方後円墳については、以前卑弥呼の墓へのオマージュとして造られ始めたという記事を書きました。
当然、邪馬台国が東遷した畿内でも、最初期から造られていたはずです。
その前方後円墳が、先進的な知識、文化を象徴するものの一つとして捉えられたという事なのではないでしょうか。
副葬品から
古墳時代は、一般に四世紀頃の前期、五世紀頃の中期、六世紀頃以降の後期の3つの時期に分けられます。
前回までの記事で考えて来た大和政権の勢力拡大は、おおむね「謎の四世紀」の出来事ですから、ほぼ古墳時代前期の話と考えられます。
この前期の古墳の特徴の一つとして、その副葬品が呪術的と考えられているな鏡・玉・剣・石製品のほか、鉄製農耕具が見られるという事が挙げられます。
冊封体制のようなものという事で、各地の豪族のような権力者が大和政権へ使者を送り帰属を表明し、それに対して上記のようなものが贈られたのではないかと考えらえます。
さらに、遣隋使や遣唐使にもみられるように、畿内に先進的な知識を学ぶために送られた者もいたはずです。
彼らが、前方後円墳も含めてそれ等の技術を持ち帰ることで、全国に広まっていったのでしょう。
大和政権が、支配被支配の関係の中で強制したものではなかったと考えられます。
そうするだけの軍事力は無かったと思われるからです。
そのことが、副葬品に武器以外のものが多いことに反映されているのです。
中期になると
その古墳の副葬品は、古墳時代の中期になると馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなります。
このことは、大和政権が次第に富国だけでなく強兵へと舵を切ったことを反映していると考えます。
それに伴い、大和政権から下賜されるものが軍事的なものになっていきます。
さらに、大和政権の軍事力増強を見て、各地域も同じように増強を図ったと考えられます。
その結果が、副葬品の軍事品化という事なのだと思います。
軍事力強化の現れが、継体天皇の御代の磐井の乱の話という事なのではないでしょうか。
ではでは