大和政権の勢力拡大の実際について考えた話です。
前回の話
前回の記事は、大和政権が最終的に全国に勢力範囲を拡大した要因についてでした。
熊野の勢力の応援があったとはいえ、比較的小さな集団で畿内に拠点を構えた大和政権は、その国造りのために大陸から人々を積極的に取り込んだのではないかと考えました。
これにより人的な数の面だけでなく、大陸の先進的な知識、文化なども導入することになります。
これによるその他の国々に対する優位性こそが、大和政権の勢力拡大の要因だったのではないかという話でした。
武力によるものだったのか
大陸の先進的な知識という事ですぐに思いつくのは、軍事的な知識でしょうか。
同時代的に大陸は五胡十六国の動乱期ですし、少し前には諸葛孔明の活躍した三国志の時代もあったりと、大陸の軍事的な先進性は疑うべくもないでしょう。
その先進的な軍事知識でもって九州を除く全国を勢力範囲に収めていったのかというと、そうでもないのではないかと思うのです。
神武東征での一旦撃退される話から明らかなように、熊野からの軍勢を含めても、畿内の勢力を一蹴するほどの力も無かったという事になります。
勿論、畿内の近隣地域との間の争いもあったとは思います。
しかし、そのまま全国に侵攻して、覇を唱えるのは考え難いと思われます。
やはり、知識だけではなく、それを実行に移すだけの人員も含めた物量という絶対的な軍事力が必要だという事なのでしょう。
これは、大陸からの人々を取り込んだとしても、短期間で解決できる問題では無かったはずです。
それに代わるものは
それに代わるものが、大陸からの人々によりもたらされた、軍事的なものも含めた知識、文化そのものだったのではないかと思うのです。
先にも書いたように、それらのものを取り込んで国づくりを行っていった結果、大和王朝は、他の地域に比べて先進的な国になります。
それを見て他の地域の国々は、それを取り入れたいと思ったはずです。
または、取り入れないと将来的に攻め滅ぼされると、危機感を持った国もあったかもしれません。
その結果、中国と周辺国に在った冊封体制のようなものが形成されたのではないでしょうか。
大和王朝から地域の支配者として承認され、先進的な知識、文化を提供されるのです。
これは、直接攻められていない日本から中国に朝貢したことからも分かるように、武力による侵攻がなくても成立するシステムです。
提供された、または取り入れたかったものの中に前方後円墳もあり、全国に広まったという事になります。
ではでは