エジプト文明と太陽活動について考えた話2です。
前回の記事
前回の記事では、古代エジプトの古王国時代とそれに続く第一中間期と太陽活動の関係について考えました。
それらの時代と、シュメール極大期とピラミッド極大期に関わる太陽活動の変化とが、関係していそうだという話でした。
今回は、それに続く時代について、いつもの図で考えて見ます。
中王国時代から新王国時代まで
第1中間期で分裂していたエジプトを、第11王朝が紀元前2040年頃に再統一をします。
その次の第12王朝と合わせて「中王国時代」と呼んでいます。
中でも第12王朝は、紀元前1991年頃から紀元前1782年頃に終焉を迎えるまで、200年以上に渡って比較的平和な時代が続いたようです。
その後の第13王朝以降再びエジプトは分裂し、第2中間期とよばれる混乱期間を迎えます。
紀元前1782年頃から紀元前1540年頃まで続きました。
紀元前1540年頃に第18王朝がエジプトを統一することに成功します。
それ以降を新王国時代と呼んでいます。
この時代の特徴は対外的に軍事力による積極策を取ったという事です。
「帝国時代」とも呼ばれているようです。
因みに、あのツタンカーメンとその父親も第18王朝のファラオです。
新王国時代は、その後第19、20王朝と紀元前1070頃まで続きます。
この新王国時代に古代エジプトは、空前の版図と繁栄の時代を迎える事になりました。
引用元:山川&二宮ICTライブラリ
太陽活動との関係
以上を太陽活動から考えて見ます。
先ず中王国時代は、ストーンヘンジ極大期への太陽活動の回復期を通じて、平和な時代が続いたのだと考えられそうです。
それに続くストーンヘンジ極大期の頂点からの急激な太陽活動の低下の影響による混乱でエジプトは分裂し、第2中間期を迎えます。
その後、図ではショルダー状の部分として見えている、一時的に低下の緩んだ時期に第18王朝により再統一されます。
そこから太陽活動は、エジプト極小期に向かって低下を始めるのですが、これが「帝国時代」とも呼ばれる、軍事的な対外積極策の原因なのではないでしょうか。
これまで見てきたように太陽活動の低下は、それを原因とする気候変動による農耕への影響から、社会の不安定化と多くの場合分裂による群雄割拠を招きました。
しかし中王国時代の始め場合、再びエジプト極小期に向かって低下を始めた時点では、第18王朝がエジプトの統一を果たして間もなく、まだまだ国力が有ったと考えられます。
そんな中、太陽活動の低下による影響が出始めても、直ぐに混乱状態になる事は無かったでしょう。
それでも、気候不順による社会不安は高まったはずです。
このような場合に、歴史上で支配者側が良く取るのが、外に敵を作る事です。
その結果が、後年「帝国時代」と呼ばれる積極的な対外軍事政策だったと思われます。
このエジプト極小期への活動低下の中で、ツタンカーメンとその父の話が起こりました。
リンク:ツタンカーメンの父と太陽活動
第19、20王朝は、エジプト極小期からの紀元前1000年頃までの太陽活動回復期に当るという事になります。
この中で、エジプトの版図の拡大と繁栄がなされたわけです。
2回に渡って古代エジプトと太陽活動の関係について考えましたが、思ってた以上に良い線行っているように思うのですが。
ではでは