黄河文明と太陽活動について考えた話です
看板に偽り
いわゆる四大文明と太陽活動の関係について考えて来ましたが、最後の黄河文明となりました。
その黄河文明ですが、私が学生の頃には、当然のように四大文明の一つとして勉強したのですが、最近はチョット違うようです。
考古学的な研究が進み、黄河流域以外にも遺跡が多く発見され、黄河文明では看板に偽り有りというような状況になっているようです。
特に、黄河と並ぶ大河である長江流域にも、黄河流域に勝るとも劣らない文明が形成されていたことが分かったて来ているようです。
という事で、最近はまとめる形で中国文明とか中華文明と呼ばれているようですね。
基本とも言える文明の名称まで変わってしまうとは。
中国文明
という訳で中国文明ですが、勿論新石器時代から黄河、長江流域を中心として多くの地域で人の営みが確認されています。
残念ながら、まだ文字は無くその盛衰は明確ではありません。
が、黄河、長江両流域共に紀元前2000年頃に、多くの遺跡で衰退が見られるようになります。
その中で、上に挙げた図にも名前が見られる「二里頭」が衰退することなく発展した事が分かっています。
紀元前2100年頃から紀元前1800年頃まで存続したと考えられています。
その年代などから、『史記』に記述が有る「夏王朝」と見られているようです。
その後を、紀元前17世紀頃から「殷」が継ぐ事になります。
更にその「殷」を紀元前1047年に「牧野の戦い」で打ち破った「周」が、その後を継ぐ事になる訳です。
太陽活動との関係
以上を太陽活動との関係で考えてみます。
紀元前2000年頃の黄河、長江流域の遺跡に衰退の傾向が見られたというのは、ピラミッド極大期からの極小期に向けての活動の低下の影響が有ったと考えられそうです。
その混乱を「二里頭」が乗り越えたという事になります。
その「二里頭」に対応すると考えられている「夏王朝」の始祖とされる「禹」について、その治水の功績について強調されているのが、面白いところです。
そして、その後のストーンヘンジ極大期への回復期に、繁栄したという事になります。
その要因として、遺跡から「粟、黍、小麦、大豆、水稲」の5種類の穀物の存在が発見されており、この多様性が気候変動を乗り越えるのに一役買ったのではないかと考えられているようです。
更に、上の中国文明の図で分かるように、「二里頭」の位置が、黄河、長江流域のほぼ中央部に有る事も注目されているようです。
周りから5穀の栽培技術が入って来るという、地理的に有利な点が有ったとのでは無いかという訳です。
次の「殷王朝」は、ストーンヘンジ極大期からの活動低下の局面で、「夏王朝」から覇権を簒奪したことになります。
上述では一行で済ませた「殷王朝」ですが、30代約600年に渡って続いています。
その中で、第22代の「武丁」の時中興がなされ、「高宗」と呼ばれています。
その在位は、前1274年- 前1215年と考えられています。
中興という訳ですから、それまでは衰退していっていたという事になります。
これはエジプト極小期に向かっての低下によるものと考えられそうです。
「武丁」はその極小期からの回復期で中興を果たしたと言えそうです。
『史記』によると、その後の「殷王朝」では暗愚な暴君が滅亡まで続いた、という事になっています。
その後の回復期で、被支配地が力を蓄える事が出来たのも、「周王朝」による簒奪の一因かもしれません。
残念ながら、中国をもってしても「夏王朝」以前は、さすがに文字がないようなんですよね。
ではでは