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メソポタミア文明と太陽活動

メソポタミア文明と太陽活動の関係について考えた話です。

 

 

太陽活動と歴史

 帰ってきた「太陽活動と歴史」です。

今回から、四大文明と太陽活動について考えて見たいと思います。

先ず、その最初としてメソポタミア文明です。

過去の記事については、まとめてありますのでよろしくお願いします。

 

yokositu.hatenablog.com

という訳でいつもの図です。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

バビロニア

 メソポタミア文明ですが、現在のイラクの一部で発見されました。

チグリス川とユーフラテス川(どちらがどちらというのが定番の試験問題でした。北がチグリス川、南がユーフラテス川ですね。)流域の平野部に発祥したものです。
因みに、この辺りを歴史的に「バビロニア」と呼んでいます。

引用元:メソポタミア | 世界の歴史まっぷ

シュメール極大期

 メソポタミア文明という時には、紀元前3500年頃から始まる、バビロニア南部におけるシュメール人の都市の誕生を、その最初期と考えるようです。

よく聞くウル、ウルクといった名前の都市もこのころに出来ます。

その後紀元前3100年頃までに、バビロニア全域に都市が作られます。

そして紀元前2900年頃になると、これら都市間の抗争が激しくなったようです。

最終的に、ルガルザゲシという王が勝ち残り、シュメール最初の統一王朝を樹立します。

以上の事を、上の太陽活動の図で考えて見ましょう。

図の左端が紀元前3000年ですから、その前後は太陽活動が低下した時期に当たることが分かります。

低下による気候変動の中で、都市間の抗争が激しくなったと考えられそうです。

その後の極大期「シュメール極大期」に向けての気候の回復期の中で、ルガルザゲシがシュメールを統一したという事になります。

そういう意味では、「シュメール極大期」というのはぴったりの名称を付けたという事になるでしょうか。

ピラミッド極大期

 その後歴史的には、バビロニア北部発祥のアッカドの王サルゴンがシュメール王朝を打倒し、バビロニアを統一したアッカド帝国を打ち建てます。
紀元前2350年頃の事です。
この帝国は、その後150年程続きました。

帝国の衰退後には、100年程群雄割拠の時代となったようです。

その後、紀元前2100年頃バビロニア南部には、シュメール人による最後の統一王朝ウル第三王朝が建国されます。
第三王朝は100年程続きますが、紀元前2004年に滅亡します。

以上の出来事も太陽活動の図に照らし合わせてみます。

「シュメール極大期」からの活動低下による混乱期から「ピラミッド極大期」に向かう回復期の中で、シュメール王朝からアッカド帝国へ覇権が移ったと言えそうです。

その後「ピラミッド極大期」の中で150年程続きますが、そこから活動低下が始まり、100年程の混乱期を迎えたと考えられます。

その中で、ウル第三王朝が建国されますが、太陽活動のさらなる低下が続き、100年程で滅亡することになったという事になります。

ストーンヘンジ極大期

ウル第三王朝の滅亡後は、やはり群雄割拠の時代になりました。

最終的に、あの「ハムラビ法典」で有名なハムラビ王率いるバビロン第一王朝によって統一される事になります。
紀元前1759年の事です。

このバビロン第一王朝も、紀元前1595年頃にヒッタイトによって滅ぼされることになります。

同様に活動図で考えて見ます。

紀元前2000年前後の極小期から「ストーンヘンジ極大期」への回復期の中で、バビロン第一王朝が統一を果たしたと言えそうです。

その後の「エジプト極小期」へ向かっての活動量の低下の中で、バビロン第一王朝は衰退し、最終的にヒッタイトによって滅ぼされてしまったという事になりそうです。


 以上、メソポタミア文明における王朝の盛衰を、太陽活動の変化から考えて見ました。
それ程、荒唐無稽でもないと思うのですが。


ではでは