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邪馬台国から大和へ 97 -『日本書紀』41 仁徳王朝-

日本書紀』についての話41、仁徳王朝について考えた話です。

 

 

王朝交替

 前回の話しは、継体天皇と五代の孫についてでした。

 

yokositu.hatenablog.com

仁徳天皇から武烈天皇まで続いた皇統(以下仁徳王朝)から継体天皇以下の皇統への王朝交替が有ったと考えます。

その上で、大和政権の始祖とも言える応神天皇の血統であるとすることで、継体から続く王朝は邪馬台国からの血を継ぐものであると主張しているのではないか、という話でした。

今回は、その事を前提として仁徳天皇から武烈天皇までの仁徳王朝について考えて見ます。

聖帝の治世

 最初の仁徳天皇については、その治世が仁政とされ、聖帝の治世とも呼ばれています。

その諡号「仁徳」もそこから来ていると考えていいでしょう。

仁政を行った、徳のある天皇という事でしょう。

最も有名なのが、「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。の間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」という逸話でしょうか。

もっとも最近の研究では、仁徳天皇の時代に竈はまだ普及しておらず、後世の作り話だろうという事のようですが。

こういった話を作りこんでまで、とにかく徳のある人物だったとしたかったのです。

悪逆非道の治世

 有徳の仁徳天皇に対して仁徳王朝最後の天皇となった武烈天皇に関しては、「日本書紀」に残虐とも言える行為が書き連ねられています。

1.二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
2.三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
3.四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
4.五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
5.七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
6.八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

引用元:武烈天皇 - Wikipedia

 

 

これらの記述の後に、後嗣を定めずに亡くなったため、継体天皇が探し出された話になります。

王朝交替のフォーマット

 これは明らかに、中国の正史に見られる王朝交替のフォーマットそのものでないでしょうか。

有徳の初代から始まるも末期に徳を失い、それを有徳により改めて天命を受けた現王朝の初代が禅譲により引き継ぐ、というあれです。

もちろん、中国でもそうであったように、現実には禅譲であった訳はなく、河内で即位したのち大和に入るまで19年かかったという記述も、反対勢力との間に色々とあった事を伺わせます。

伺わせますが全体の形としては、応神天皇の後を継いだ有徳の仁徳天皇から始まった仁徳王朝が徳を失った武烈天皇で終わり、応神天皇の五代の孫継体天皇への禅譲により続いていくことになったという事になります。


 これで継体天皇以下の皇統が、邪馬台国から続く正統性のあるものになりました。


ではでは