昔の人は健脚だったという話です。
伊能忠敬
伊能忠敬と言えば、江戸時代に日本地図を作った人物として有名です。
その地図というのが、現代の地図と比べても遜色のないものなのですが、それを全国を実際に測る事で作成したと知って、二度ビックリしたりする訳です。
その伊能忠敬ですが、最初は地図が作りたかったわけでは無く、地球の大きさを計算するために、蝦夷までの距離が知りたかった様です。
そのために、実際に蝦夷まで測りに行ったわけなので、普通の人では無かったのですが。
青森まで21日
その蝦夷までの測量の旅なのですが、そのスピードに驚かされます。
江戸を発って、青森の津軽半島最北端の三厩まで行くのに21日しか掛かっていないのです。
現代の地図で、東京から三厩までの距離を調べてみると、直線距離で約650キロです。
単純計算で一日30キロ強という事になりますが、直線で行けるわけは無く、実際には一日約40キロのスピードで移動したようです。
毎日40キロを3週間休みなしという事になります。
とどめは、それがゴールという訳では無く。その後北海道の測量をしているという事実です。
伊能忠敬が特別ではない
以上のような驚くべき測量旅行は、伊能忠敬が一人で行ったのではないという点も忘れてはいけません。
実際には、3人の内弟子と2人の用人が同道したようです。
当然この人たちも、上のようなスピードについていったという事になります。
特に健脚の人間を選んだという話も無いようですし、蝦夷から戻ってきた時に、彼らの健脚ぶりが話題になったという事もないようですので、彼らが特別では無かったという事になりそうです。
更に、これだけの事を行った時、伊能忠敬は55歳でした。
やはり、当時の人々と現代の我々の間には、歩行能力で大きな差が有るようです。
やはりあれは無かった
本ブログでは、豊臣秀吉のいわゆる「中国大返し」は、後世の人による秀逸なキャッチフレーズに過ぎず、実際には普通の行軍だったという立場を採っています。
その根拠の一つとして、「中国大返し」の行軍スピードは、当時の人から見て驚くほどのものでは無かったと考えています。
リンク:中国大返し
この記事では、江戸時代に東海道を江戸から京都まで歩く日数から、一日当たり40キロ強を歩いていたと考えられることを根拠としています。
今回の伊能忠敬の話では、40キロを21日間という移動が実際に可能であったことが示されました。
しかも、ただ歩くだけでなく、歩測(プロゴルファーがやるやつです)で距離を測りながらです。
更に加えるならば、夜には天体観測もしていました。
当時は、それがごく普通だったのです。
やはり、「中国大返し」と特筆されるほどの行軍は無かったのです。
それにしても、これ程の歩行能力の差というのは、何が違うのか気になるところです。
ではでは