邪馬台国の位置
邪馬台国に位置に関しては、以前の記事で、大分県宇佐市辺りに有ると考えました。
ただ、上記の記事では、分かり易いランドマークとして宇佐神宮を使って、邪馬台国までの行程を考察したのですが、具体的にどこが邪馬台国なのかまでは特定出来ていませんでした。
それにしても、宇佐市辺りと言っても、いささか広いわけでして、近くには耶馬渓というそれらしい名前の所も有ったりしますしね、もう少し絞れないかなと思っていました。
卑弥呼の墓の位置
前回の記事で、宇佐神宮辺りの赤色地形図を使って、卑弥呼の墓の位置について考えました。
その結果は、やはり宇佐神宮が卑弥呼の墓だという結論になりました。
その後で、宇佐神宮が卑弥呼の墓で有るとすると、宇佐神宮周辺の地形を考えることで、邪馬台国の位置を絞れることに気が付きました。
墓は見下ろす位置に
前回の記事で書いたように、卑弥呼の墓は、標高約30メートルの地点に作られたと考えられます。
宇佐神宮付近の地形図を見てみましょう(青色、緑色の線は私が追加)。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
宇佐神宮=卑弥呼の墓(緑色の線)の北西側には、南宇佐と表記されている青色の線で囲った地域が広がっているのが分かると思います。
一般的に前期古墳時代までは、墓の立地は低地を見下ろすような地形が多く、首長クラスでは、治めていた場所を見渡すような場所に作られていると考えられています。
卑弥呼の墓の場合も同様に考えられるとすれば、南宇佐と記されている辺りが邪馬台国だったという事になります。
広さから考えると
発見された時に「すわ、邪馬台国か!」と言われた吉野ケ里遺跡は、これもまた有名な「環濠」に囲まれていますが、二重になっている外側の濠は総延長約2.5キロで、その内側の面積は約40ヘクタールだそうです。
で、南宇佐の外周と面積を、「地理院地図」の計測ツールで(相変わらず色々と凄い地図サイトです)調べてみると、周囲約3キロ、面積約50ヘクタールとなりました。
吉野ケ里遺跡と比較しても遜色は無く、一つの国として考えても問題の無いレベルの広さだという事になります。
最も、南宇佐の辺りだけに住んでいたとも考え難いので、あくまでも、そのあたりが中心だったのかなというのは有りますが。
という事で、「邪馬台国は、宇佐市南宇佐の辺りが中心だった」が今のところの結論になります。
ではでは