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神武東征と邪馬台国東遷・後編

神武東征と邪馬台国東遷につい考えた話・後編です。

 

 

疑問と回答

 前編、中編と、邪馬台国東遷を基にしたと考えている『日本書紀』神武東征の疑問点についてみてきました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

疑問点は以下のようなものでした。

前編:少数であったと考えられる神武一行が、最終的に東征に踏み切ったのはなぜか。

中編:わざわざ紀伊半島を回り込んだ上で、熊野から攻め上ったのは不合理ではないか。

この二つの疑問を合わせて考えると、一つの仮説が浮かび上がってきます。

それは、熊野の勢力が力を貸すことで神武東征(邪馬台国の東遷)が可能になったのではないか、というものです。

吉備の時点で

 勿論神武東征の中では、熊野高倉下が剣を献じたとか、八咫烏が道案内をした、といったように熊野の勢力が力を貸したことを示唆する記述があります。

しかし、ここでいう熊野の勢力の協力体制は、吉備に滞在している間に成立していたと考えます。

熊野の勢力が、畿内に攻め込みたいと思っていたのか、畿内からの圧力に危機感を抱いていたのかは分かりませんが、吉備に滞在している磐余彦尊(邪馬台国の中枢部)の一行に接触したのではないでしょうか。

一行の中にいる、大陸から来た人の軍事的な知識に期待したのかもしれません。

熊野の勢力からの協力の話に乗る形で、畿内への侵攻を決意したという事になります。

畿内に攻め込んだ軍勢の主力は、熊野からやって来たものだったのです。

紀伊半島は回らなかった

 畿内へ攻め込むのに最初から熊野の軍勢が参加していたとして、もう一度神武東征の経路を見てみましょう。

引用元:其の百 いざ!「神武東征」の古戦場へ!!(続編) - ryu-chun3 ページ!

 

最初の畿内への侵攻を跳ね返され名草に転進した時には、すでに熊野の軍勢は同行してしたのです。

その先の熊野へ至る航海は必要ないことになります。

その証左ともいえるのが、名草から新宮に至る経路についての記述です。

この紀伊半島をぐるっと回る部分については、全く記述がないのです。

名草を出ると、次は新宮の記述になってしまいます。

やはりこの部分の航海は無かったのではないでしょうか。

実際には、名草から紀ノ川をさかのぼって宇陀へ攻め込んだのでしょう。

熊野を無視は出来なかった

 ではなぜ、本来無かった熊野経由の話を組み入れたのでしょう。

それは、大和政権の建国神話である以上、あくまで磐余彦尊(神武天皇)が主役でなけれなばならなかったからです。

攻め込んだ軍の主力が熊野のものでは困るわけです。

とはいえ、熊野の貢献を無視することも出来ません。

そのためにひねり出されたのが、紀伊半島を回り込んだ上で熊野から攻め上がるという経路だったのだと思います。

攻め手の主力としてではなく、剣の献上や八咫烏(熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)を表すという説もある)による道案内という形にしたわけです。


 というわけで、神武東征(邪馬台国の東遷)は、少数の東征(東遷)組が熊野の勢力の力を借りて行ったものという事になります。


ではでは