老いと乱雑さについて考えた話です。
老いに寄り添う
世間的には、老人と呼ばれても可笑しくない年齢になって来た事も有って、「老後」とか「老人の生き方」とかいった方面の話を来たり読んだりするようになりました。
その多くのものの内容は、どうしてもどう暮らしていくか、もっと端的に言うと「お金」の話だったりします。
まあ、そちらはいまさら美味しい話があるはずは無いので(あるのならば、人に教えずに自分でやってますよね)、どうでもいいのですが。
そんな中で、「どう老いと折り合いをつけていくか」といった括り方が出来る一群のものもあります。
その内容は、大まかに言って、「老いを受け入れていきましょう」といった感じに纏められるでしょうか。
「日毎に出来ない事が増えていく現実に向き合って、順応していくことが大切」みたいな話です。
生物とは
突然ですが、生物と非生物の違いは何でしょうか。
生きているのが生物で、生きていないのが非生物と言いたいところですが、これでは答えになっていません。
「生きている」と「生きていない」の違いは何かと言い換えただけです。
この問いは古くて新しいもので、様々な回答だとするものが提案されています。
その中の一つに、エントロピーを使ったものが有ります。
エントロピーは、日本語に訳すと「乱雑さ」となります。
現在の理論によると、「エントロピー増大の法則」というものが有り、「この世界のあらゆる現象は、自発的にエントロピーが大きくなる方向に進む」ということになっています。
つまり、ほかっておくと「乱雑さ」が増えていく、もっと簡単に言うと、どんなものでもほかっておくとバラバラになって行くという事です。
この「エントロピー増大の法則」に逆らっているのが生物だというのです。
生物は、生きている限りその形態を保ち、バラバラになる事は有りません。
常に「乱雑さ」を減少させる働きを「生きている」と呼ぶことにするのです。
生き方にも
以上の生物の定義は、構成する分子のような物質的なレベルでの話なのですが、これを生き方のレベルにも拡張するのはどうでしょう。
何かが出来なかった状態から何かが出来る状態になるのは、多少強引ですが、「乱雑さ」が減少したと言えるでしょう。
「日毎に出来ない事が増えていく」のは、「乱雑さ」が増大するという事ですから、「生きている」働きの逆です。
全て無くなると「生物」で無くなる、「死ぬ」という事になるのかもしれません。
であるならば、「日毎に出来ないことが増えていく」事に対抗して「日毎に出来る事を増やしていく」ようにすることが、「生物」としての有り方のような気がするのですが。
唯々諾々と、「日毎に出来ない事が増えていく現実に向き合って、順応していく」のはつまらなそうですよね。
なんだか無理矢理纏めた話になりましたが、要は何とか老いに抗いたいのです。
ではでは