狗邪韓国の位置について考えた話(中編)です
『韓伝』の記述との関係
前編では、狗邪韓国の位置について考えました。
その根拠の一つとして考えたのが、同じ『魏志』にある『韓伝』の中に、狗邪韓国が書かれていないという点でした。
書かれていないという事は、韓人の国では無いという事なので、『魏志倭人伝』の記述と合わせて考えると倭人の国となり、その他の条件も考慮すると、その位置は現在の巨済島だと考えられるという内容でした。
ところが、一応理屈が通っているかに見えるこの説も、前編の最後でも触れたように、『韓伝』の記述と矛盾してしまう部分があるのです。
今回は、そのあたりを見てみたいと思います。
矛盾の内容
矛盾の内容を確認するために、先ずは『韓伝』の対応する部分を、前編で引用した部分も含めて見てみたいと思います。
「韓は帯方郡の南にあり、東方と西方は海によって区切られ、南方で倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある。」
引用元:狗邪韓国 - Wikipedia
帯方郡は、概ね現在のソウル付近にあったと考えられているようですから、「帯方郡の南にあり」とあるので、朝鮮半島の南半分ぐらいの部分の話という事になります。
従って次の「東方と西方が海に区切られ」は、日本海と黄海に面しているのを表していると考えることが出来ます。
問題はその次の、「南方で倭と接し」の部分です。
素直に読むと、朝鮮半島の南端の部分は倭の領域だと言っているように見えます。
つまり、『韓伝』では、次の図のように朝鮮半島南部の情勢を記述しているという事になります。
明らかに、前編の仮説とは矛盾しています。
巨済島だと考えると
それでも前編で考えたように、狗邪韓国が巨済島だと考える事は出来ないでしょうか。
「南方で倭と接し」は、陸上で接しているのではなく、狭い海を挟んで相対しているのを「接し」と表現しているとも考えられそうです。
それであれば、巨済島でも成り立ちそうです。
しかしそうであるならば、南方は海に面しているはずで、「東方と西方が海に区切られ」と同様に南方も海に区切られているのを意味する記述になるはずです。
実際の記述がそうなっていない以上、「南方で倭と接し」は、やはり陸上で接しているという事のようです。
これは、なかなか厄介な問題です。
という感じで、昔からよく分からないと思っていたのですが、この矛盾を解消出来そうな仮説を思い付きました。
後編に続く。
ではでは