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邪馬台国はどうなってしまったのか

 以前に、邪馬台国は九州に有ったと思われる、という話をしました。 

yokositu.hatenablog.com

今回は、「魏志倭人伝」以降、忽然と歴史の流れの中に消えてしまったかに思える邪馬台国が、その後どうなったのか、という話です。

当時の中国の状況

 本題に入る前に、邪馬台国のその後に大きく関係していると考えている、当時の中国の状況について話したいと思います。

邪馬台国朝貢した、を継いだ王朝が西晋です。
その西晋陳寿が、「魏志倭人伝」を書きました。
西晋も、御多分に漏れず、代を重ねるうちに徳を失い、国力が衰退し滅亡しました。
ただし、王族の一人が中国南部に逃れて東晋を建てています。

西晋が滅亡した後の中国北部は、五胡十六国時代と呼ばれる、多くの勢力が入り乱れる、大動乱時代に突入することになります。

朝鮮半島にも影響が

 当然、西晋の支配地であった朝鮮半島北部地域も、混乱に巻き込まれることになります。

支配者層の中にも、東晋に逃れた者、侵入してきた勢力と手を結ぶ者等、いろいろある中で、交流のあった邪馬台国に亡命してきた者も、いたに違いありません。

 亡命してきた者が、当時の倭人との文化度の違いから重用され、ほどなく、重要な地位を占めることは、あり得る話だと思います。
何といっても、卑弥呼の時代から約500年前に、すでに始皇帝の「キングダム」の時代で、その差には歴然としたものがあった訳ですから。

それでも、心配事が。そして東へ

 そうなってもまだ、彼らには、心配事があったはずです。
大陸の混乱が、海を渡ってこないかという事です。
今のままでは、彼我の軍事力の差から、ひとたまりも無い、と考えたに違いありません。

そして考えたのが、東遷を行うことだったのではないでしょうか。
瀬戸内海を通して、行き来はあったはずで、東に何があるかは把握していたはずです。
そのことから、瀬戸内海の最も遠い東の端の地域に移り、大陸からの脅威に備えようとしたのだと思います。

そして、大和政権となった

 上で触れた、西晋の滅亡による五胡十六国時代の始まりは309年です。
当然、その後に亡命と東遷が起こったことになりますから、一般に言われる、謎の4世紀に、邪馬台国は九州から畿内に東遷したと考えられます。
東遷していて、朝貢どころではなかったために、中国側に記録がなく、謎の4世紀となったのだと思います。

つまり、邪馬台国は無くなったのではなく、畿内に移り、後の大和政権となったのです。


 もっとも、「邪馬台」が「大和」に変化した訳ではなく、もともと倭人が「やまと」と発音していたものを、中国人が「邪馬台」と書いただけで、変わっていないのではないかと思っているのですが。

 
  ではでは

邪馬台国への旅程改ざんの詳細

 以前に、以下の記事で、「魏志倭人伝」における、邪馬台国への旅程の改ざん疑惑について話しました。

yokositu.hatenablog.com

 今回は、その旅程改ざんの内容を、少し具体的に検討した話です。

 

 

邪馬台国への旅程

 まず、検討の対象となる、「魏志倭人伝」に記された、邪馬台国への旅程を、示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

魏志倭人伝」にヒントが

 上記の以前の記事では、旅程の最後の、南、水行、10日、陸行、1月が、いくらなんでも非常識だという事で、作者陳寿による、改ざんだと考えました。

その後、「魏志倭人伝」そのものの中に、もっと明白に、改ざんを窺わせる内容があることに、気が付きました。

それは、旅程の記載に続く部分の冒頭で、以下に原文、訳を示します。
原文
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

女王国より以北は、その戸数、道里の略載が可能だが、その他の旁国は遠く隔(絶)たっており、詳しく得ることができない。

これは、素直に解釈すれば、女王国即ち邪馬台国までは、その戸数と道里を、概数で記載することが可能だということですよね。
であれば、使者が作成した元の報告には、上記の旅程もすべて、道理、すなわち里数で記載されていたに違いない、という事になります。

何処を改ざんしたのか

 という事で、改ざんしたのは、

   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る

の、2つの旅程だと考えられます。

先ず、20日、10日、1月は、全て何らかの里数だったはずです。
方角の南は陳寿に、邪馬台国を南方の大国に見せかけたいとの、目的があった訳なので、改ざんの結果とも言えそうですが、もともと南だった可能性も、排除できません
それに対して、水行、陸行は、特に改ざんする理由もない訳ですので、元のままと考えられます。

という訳で、元の旅程は、

   方角、水行、???里、投馬国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、陸行、???里、邪馬台国に至る

となります。


 現状は、残念ながら、ここまでということで、邪馬台国はここだと、ピンポイントで示すことはできません。
もうチョットなんですけどね。


 ではでは

「魏志倭人伝」の正式名称から分かること

 「魏志倭人伝」の正式名称について考えると、陳寿の改ざん疑惑に対する、状況証拠が見えてくる、という話です。
yokositu.hatenablog.com

 

 

魏志倭人伝」の正式名称

 「魏志倭人伝」は、正式には魏志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人といいます。

魏の正史である、「魏志」の第30巻の、烏丸鮮卑東夷伝の中の倭人の条(項目といった意味です)を、「魏志倭人伝」と通称している訳です。


烏丸鮮卑東夷伝倭人条とは

 烏丸鮮卑東夷伝倭人条の内、烏丸、鮮卑は、北方の民族名です。
東夷伝は、東方の民族について記述したもので、夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭が含まれます。
その中の倭に関する部分が、倭人条となります。

東夷伝の東夷とは、単に東方を指しているわけではなく、古代中国において、東西南北4方位の異民族を蔑称して、東夷(とうい),西戎(せいじゅう),南蛮(なんばん),北狄(ほくてき)と呼んだことによるものです。

つまり、烏丸鮮卑東夷伝で、魏の北狄、および東夷の国に関して、纏められているという事になります。


西戎,南蛮についての記述は

 では、西戎,南蛮の国に関しては、どのように纏められているのかというと。

なにも無いのです。
西戎伝,南蛮伝といったものは、「魏志」には存在すらしていません

西晋王朝を開いた、司馬氏に徳があることを示すために、陳寿は「魏志」を書きました。
その司馬氏は、前王朝の魏時代に、中国東北部及び朝鮮半島北部を治める立場にありました。
そのため、司馬氏と関係の深かった、北方と東方の国に関する記述のみで、西方と南蛮に関しては、書くことすらしなかったと思われます。


これは、かなり見え見えですよね。
もうちょっと、上手に糊塗しても良かったんじゃないかと、思うんですが。
まあ、正史とはそういうものだ、とも言えるんですけどね。


 ではでは

邪馬台国が7万戸は、いくらなんでも多すぎないか

 以前の記事で、邪馬台国への旅程は、「魏志倭人伝」の作者陳寿が改ざんしたのではないか、という話をしました。

yokositu.hatenablog.com

今回は、それに関連して、戸数に関しても怪しいのではないか、という話です。

 

 

7万戸はいくらなんでも多すぎないか

 「魏志倭人伝」の記述によると、邪馬台国には、7万余戸があったということになっています。
1戸当たり、4人とすると、28万人余り。
さらに、邪馬台国までの旅程の国の戸数も併せて合計すると、15万戸余りとなり、60万人余りとなります。

これが、どのくらいの数字かというと。
平城京の人口は、概ね10万程度だと考えられているようです。
ということは、邪馬台国は、平城京の3倍程度の規模だったことになります。

また、旅程中の、奴国は2万余戸、投馬国が5万戸余で、それぞれ平城京の、1倍と2倍程度の規模となります。

つまり、平城京、またはそれ以上の規模の国が、ゴロゴロしていたことになります。
今まで、発掘されていないのは、あり得ないですよね。

ちなみに、吉野ケ里遺跡の推定人口は、5千人程度です。

さらに、当時の日本の人口については、考古学の成果を踏まえて、様々に推計がされていますが、概ね50~70万人といった数値のようです。
これは、明らかにおかしいですよね。

やはり陳寿が怪しい

 以前の記事で触れたように、陳寿は、西方の大月氏などの大国に匹敵する、東方の大国から朝貢があった事にする必要があった訳です。
そのため、旅程だけではなく、その規模に関しても改ざんしたのだと思います。

改ざんといっても、厳密に数字を合わせる必要もなかったと、考えられます。
私は、単純に各国の戸数を10倍したのではないかと思っています。

そうだとすると、各国合計で約6万人余りと、それなりの数字になるのですが。
それでも、邪馬台国は3万人弱と、どうかなという規模になるんですけどね。


 ではでは

 

「魏志倭人伝」の作者は、なぜ旅程を改ざんしたのか

 今回は、「魏志倭人伝」の作者は、なぜ旅程を改ざんしたのか、についての話です。
これは、以前の話の続きとなります。

yokositu.hatenablog.com

 

 

魏志倭人伝」とは。作者とは。

 改ざんしたと疑われているのは、西晋陳寿という人物です。

西晋は、ご存知三国志の三つの国、魏、蜀、呉のうちの、魏の後を継いだ王朝の名前です。

そうです、魏です。
魏志倭人伝」の魏です。
つまり、陳寿は、一つ前の王朝の歴史書を書いた訳です。

魏志倭人伝」とは
 「魏志倭人伝」は、魏志の中の倭人に関する項目といった意味です。
魏志は、上にもあるように、魏の国の歴史をまとめたものです。
中国で、正史と呼ばれているものの1つです。

 正史は、時の王朝が、一つ前の王朝の歴史についてまとめたものになります。
なぜ、一つ前の王朝の歴史をまとめるのか。
これには、中国の世界観が関係しています。

正史をまとめる背景

 中国では、天に居る天帝が、全てを治めていると考えます。
その天帝が、人間の中からのある人物を選び、地上を治めるように命じます。これを、天命といいます。
天命を受けたものが、その正当性を持って、王朝を開き統治します。

最初の代は、天命を受けるほど徳があっても、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉もあるように、代を経るにつれ徳を失っていきます。
すると、天帝は、再び徳のある人物を選び直し、あらためて(革めて)命を下します。
これを、革命といいます。
この革命により、王朝が交代すると考えます。

正史は、いかに前王朝が徳をなくし、新たに命を受けた現王朝が取って代わったかを、その歴史を通して示し、それにより、現王朝の正当性を知らしめるために、書かれます。

なぜ改ざんしたのか

 という訳で、現王朝西晋の正当性を示すために、陳寿魏志を書きました。

ところで、西晋を開いた司馬氏は、前王朝の魏時代に、中国東北部及び朝鮮半島北部を治める立場にありました。
そのため、陳寿は、司馬氏の徳あることを示すために、司馬氏が治める地域に隣接する、倭人邪馬台国朝貢を行ってきたことを、魏志の中に、倭人伝として記述したのです。

さらに、邪馬台国が、西方の大月氏等の朝貢国と同等の、中国東方の国だと見せかけるために、旅程を改ざんし、実際よりも南に存在するようにしたのだと思います。
これは、もちろん、司馬氏の徳が、それほどの国を朝貢に来させるほど、高いと見せるためです。


 以上が、「魏志倭人伝」における、邪馬台国への最後の旅程、南に水行10日、陸行1月が、改ざんされていると考える理由です。

 

 ではでは。

 

邪馬台国の場所は、〇〇の何処かだ

 邪馬台国に関する最大の問題は、何と言ってもその場所が特定できないということだと思います。
そこで、色々と見聞きしてきたものの中で、私が納得できた説を基にした、ここじゃないかなあ、という話です。

 

なぜ場所が特定できないのか

 先ず、話の前提として、なぜ場所が特定できないのかを、簡単に説明させてもらいます。

邪馬台国は、3世紀に日本にあった国です。
中国の歴史書魏志倭人伝」に、その朝貢の事実、至るまでの旅程、風俗等が記載されています。
ならば、場所もすぐにわかりそうなものなのですが、その「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国までの旅程に問題があるのです。

中国からの使者の報告の記録を基にしたと思われる、その旅程によると。
先ず、朝鮮半島から、壱岐対馬を経由して、福岡周辺の北部九州に上陸します。
いくつかの国を経由して、最後に邪馬台国に到着する訳ですが。
問題は、その最後の行程が、南に水行10日、陸行1月となっているということなのです。

これ、素直に考えれば、九州を縦断して、さらに南方の洋上に、邪馬台国があることになってしまうわけです。

どこだと考えられているのか

  現状、場所にかんしては、九州説と畿内説が二大勢力と言っていいでしょう。

主に、旅程中の距離などを色々と考察して九州内に収まるとするのが、九州説。

最後の行程の南にというのが、東の書き間違いだとして、瀬戸内海を通って大阪付近に至ると考える、畿内説。

ちなみに、南方洋上を素直に考えて、邪馬台国は、琉球や台湾、はてはフィリピンにあったという説もあるみたいです。

南に水行10日、陸行1月は変

 以上の話のなかで、私が問題にしたいのは、最後の行程が、南に水行10日、陸行1月となっているという点です。
これ、変だと思いませんか。

魏志倭人伝」によれば、多くの国の間での争い(倭国大乱)を収めるために、卑弥呼邪馬台国の女王として共立したとなっています。
その国が、往復で3か月近くもかかる場所に有るというのは、おかしいと思いません?

まあ、百歩譲って、遠くに有ったとしましょう。
そうすると今度は、邪馬台国までの間のことが何も触れられていないのは、変じゃないですか。
荒野と海しか無かったとは考えにくいですよね。

邪馬台国の場所は

 最後の行程の部分は、「魏志倭人伝」を書いた人物が、改ざんしたんじゃないですかね。

基になった記録には、最寄りの国からの、方角とそれなりの距離が書いてあったと思います。
それを、「魏志倭人伝」を書くときに、南に水行10日、陸行1月と改ざんした。
それによって、邪馬台国の場所が南方洋上という変なことになってしまった。

実際には最寄りの国の周辺に有ったと考えられるので、邪馬台国の場所は、九州の何処か、概ね北部か中部じゃないかと思うんですが、どうでしょうか。

 

 まあ、唐突に、作者が改ざんと言われても、都合よすぎて、にわかには納得できないとは思いますが。
魏志倭人伝」の作者が、なぜ改ざんしたのか、については長くなるので、また今度ということで。


 ではでは。