壬申の乱の背景について考えた話・後編です。
前編の話
前編の記事では、壬申の乱の直前までの背景について考えました。
乙巳の変で、渡来系を背景とした旧主派と考えられる蘇我氏を排した後の天智天皇は、当時に状況を変えたいとする立場だったと考えました。
その後、百済が滅ぼされたことをきっかけに、九州の勢力を倒します。
そのまま、百済の復興を図りますが、白村江の戦いで一敗地に塗れることになります。
その敗れた相手の唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて、大宰、総領、城の防衛施設の造営、近江大津宮への遷都などを行います。
それに見合う兵力の確保のために「庚午年籍」を作った、というのが壬申の乱の起こった当時の状況という事になります。
恐怖から
上のような動きに対して、各地の勢力がどのように反応したのかが、壬申の乱に関係しているのではないかと考えています。
先ず「庚午年籍」の作成の背景ついては、各地の勢力も程度差こそあれ分かっていたと思われます。
明らかに大和政権への権力集中を許すことになるので、当然反発もあったと思われます。
しかしながら、それを上回る唐・新羅連合軍の侵攻への恐怖があったのではないでしょうか。
そのため、「庚午年籍」の作成や、防衛施設の造成などにも一定の理解を示して協力したのでしょう。
9年経つ間に
朝鮮半島の白村江で敗れ、そのまま唐・新羅の連合軍が九州から攻め込んでくるのではないかという恐怖から、様々な方策を矢継ぎ早に採り、緊張感をもって待ち受けていたはずです。
その緊張感も、1年経つごとに次第に薄れて来たと考えられます。
そして、「庚午年籍」の完成は、白村江の戦いから7年後の670年です。
その後の『日本書紀』の記述を見る限り、各地から兵力を徴用するというところまではいかなかったようです。
すでに、唐・新羅連合軍の脅威を理由に各地の勢力を動かすことは出来なくなっていたのです。
大和政権への権力集中の試みへの反発も強くなっていったでしょう。
そんな中でその2年後、白村江の戦いから9年後の672年に起きたのが壬申の乱でした。
その流れを見極めた
その各地の勢力の動向を見極めていたのが、大海人皇子中大兄皇子(天武天皇)だったのでしょう。
大友皇子側への援軍は無いと見た上で、乱を起こしたという事になります。
危機感の薄れた各地の勢力の多くは、大和政権内の権力争いに巻き込まれる気は無かったのです。
皮肉にも、恐れていた唐・新羅連合軍の侵攻が無かったために、天智朝は天武朝にとってかわられることになってしまったのです。
ではでは