横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

『日本書紀』創られた日本 22 -神代 12-

日本書紀』創られた日本 22 神代についての話 12です。

 

 

前回は出雲神話

 前回は、『日本書紀』には無く『古事記』のみ記述されている、出雲神話について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

出雲神話は、ヤマタノオロチ退治の話を除けば、ほぼ大国主に関する3部作ともいえるものであり、大国主の正統性を説明するものという話でした。

その中で、出雲王朝の勢力範囲が大和まで達していたと考えられる事も分かりました。

この後は、『記紀』いずれも「国譲り」の話へと続いていきます。

今回は、この「国譲り」とは何なのかを考えて見ます。

国譲り

 国譲りは、ごく簡単に言うと、大国主とその子孫が造り上げた国を、高天原の神に譲る、という話になります。

その大国主とその子孫が造り上げたの国は、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)にあるという事になっています。

豊葦原中国は、高天原と黄泉の国の中間に有るという意味で中国(なかつくに)であり、我々の住む地上世界だとされています。

地上世界という大きな括りではあるのですが、出雲神話と呼ばれているように、その舞台となっているのはほぼほぼ出雲を中心とする地域なのです。

上でも触れたように、大和も最後に出て来ますが、それも含めて出雲王朝とも呼べる地域の話であり、日本全国ではなく出雲地域を中心とした出雲王朝の勢力範囲を譲られた話と言っていいものになっています。

出雲王朝打倒の話

 本ブログでは、北部九州に有った邪馬台国の一部が東遷し、後の大和政権の礎になったと考えています。

東遷の事績が反映されたのが、神武東征の話なのです。

神武東征については、改めて取り上げますが、先にも書いたように大和の地は出雲王朝の勢力範囲にあり、大和に入るには激しい戦いが有りました。

当然、大和への侵入を許した後も、出雲王朝との争いは続いたはずです。

その時の出来事を基にしたのが、国譲りの話なのでは無いでしょうか。

神の時代の話

 しかし、東遷時の戦いが基になったとすると、時系列的に問題が生じます。

記紀』では、国譲りの後に天孫降臨が有り、その子孫である神武天皇が東征を行うという話になっています。

つまり、時系列的に逆になっているのです。

これには、神武天皇の昔から一貫して日本を治めて来た正統な王朝だと示す、という考え方が反映していると考えます。

記紀』の日本神話の基になった話は、東遷から『日本書紀』の100年程前と考えられる『古事記』の編纂までの間にその原型が創られたと考えています。

創られた時点で、出雲王朝との争いには勝利していたと考えられますが、一貫して治めていたことにするためには、その争ったこと自体をそのまま認めるわけにはいかなかったのです。

また、敗れたとはいえ、出雲王朝の影響もまだ残っていたはずです。

これらを、神の時代に持っていき、さらに国譲りをうけたということにすることにより、東遷後の出雲王朝との戦いを消し、大和王朝の一貫した統治と正統性を示したのです。


 出雲神話まで話が行きませんでした。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 21 -神代 11-

日本書紀』創られた日本 21 神代についての話 11です。

 

 

記紀』で違いが

 前回は、アマテラススサノオによる誓約以降の神話について見てみました。

 

yokositu.hatenablog.com

アマテラスの天岩戸隠れ、アマテラスの追放、ヤマタノオロチ退治と繋がる話は、基本的に『記紀』で違いの無いものでした。

そして、これらの話に続く部分では、『記紀』に違いが出て来ます。

前回の終わりに少し触れましたが、いわゆる「出雲神話」と呼ばれる一連の神話が、『古事記』では語られるのですが、もう一方の『日本書紀』では全く出てこないという事になっています。

今回は、この違いの意味するところを考える前提として、先ず「出雲神話」について見てみます。

出雲神話

 出雲神話は、一般的に「ヤマタノオロチ退治」、「因幡の白兎」、「大国主の神話」、および「大国主の国づくり」に分けられて議論されることが多いと思います。

ここでもそれに沿って考えたいと思います。

上に挙げた話の内、「ヤマタノオロチ退治」については、前回も見たように、『記紀』いずれにも出てくるので、問題ありません。

ということで、残りの3つの話について考えます。

因幡の白兎」

 この3つの話は、大国主3部作とも言うべき内容で、大国主がどのように国を持ち、地上の国づくりをしていったのかを述べたものになっています。

先ず「因幡の白兎」ですが、大国主が多くの兄弟神を差し置いて
結婚が出来たかを語った話という事になります。

白兎は、困っていたところ、兄弟神と共に求婚の途上で通りがかった大国主に助けられ、「他の兄弟神は求婚が上手くいくことは無い」と大国主に予言します。

その言葉の通りに、心優しい大国主は結婚をすることが出来たという話になっています。

大国主の神話」

 次の「大国主の神話」では、大国主の結婚に嫉妬した兄弟神達に迫害を受けるのですが、それから逃れスサノオの基に赴き、スサノオの試練を潜り抜けることで、一目惚れしたスサノオの娘と結婚し、国づくりを始めることになります。

ちなみに、家格(神格?)という事なのか、スサノオの娘が本妻になり、「稲葉の白兎」で結婚した娘は、その本妻を恐れて子を残して実家に帰ってしまいます。

またどうしようもない兄弟神達に対しては、スサノオから授かった太刀と弓矢で、しっかりと「ざまあ」します。

大国主の国づくり」

 その後、協力者も有って、大国主は国づくりを進めるのですが、途中で協力者が去り、その後の国づくりに悩むことになります。

そこに一柱の神がやって来て、条件と共に協力を申し出ます。

その条件というのが、丁寧に祀るというものでした。

その神が祀られているのが、大和の三輪山です。

つまり、大国主が行った国つくりは、大和の三輪山もその範囲に含んでいたという事になります。

大和の地も、出雲王朝の勢力範囲だった事を示しているのではないでしょうか。


 『古事記』の記述では、大国主スサノオの六世の孫のはずなのですが、奥さんは、スサノオの娘さんなんですよね。
所詮、短命な人間如きには、理解出来ない世界なのでしょう。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 20 -神代 10-

日本書紀』創られた日本 20 神代についての話 10です。

 

 

誓約後のスサノオ

 前回は、アマテラスに謀反を疑われたスサノオが、誓約を提案した話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

その結果から、『日本書紀』では男系を正統とする意図が有ったのではと考えました。

さて、その誓約の結果により謀反の心がないことを証明したスサノオですが、その後がいけません。

無実が証明された後に、暴れ回るという暴挙にでるのです。

何を考えているのか、全く意味不明です。

その結果が、岩戸の前で女神が踊るシーンでも有名な、天岩戸の話になります。

アマテラスが天岩戸にお隠れになって、世の中が暗闇になり神々も含めて皆困ってしまうお話ですが、『記紀』で大筋に違いは見られません。

無事、アマテラスが再びお出でになった後、その責を咎められ、スサノオは追放されてしまいます。

追放され、出雲に

追放されたスサノオは出雲の地に降ります。

そこでの話が、天岩戸の話と知名度では優劣が付け難い、ヤマタノオロチ退治の話です。

この話も、『記紀』で大きな違いは有りません。

ヤマタノオロチを退治することで、生贄にされるところだった娘を助けます。
その時にオロチから出て来た剣が、後に天皇家三種の神器として伝わる「草薙の剣」になります。

ちなみに、なぜ「草薙の剣」が天皇家に伝わっているかというと、ヤマタノオロチから出て来たものを、スサノオアマテラスに献上し、それが「天孫降臨」の際に地上にもたらされたのです。

追放したスサノオからのものを、簡単に受け取っていいのかという気もしますが、そういうことになっています。

さて、スサノオは助けた娘と結婚をし、その子孫が大国主命です。

その大国主命から「国譲り」を受け、その後の「天孫降臨」を経て、神武天皇以降へと繋がるという立て付けになっています。

大和政権は、神の時代から続く国を継承した、正統性のある政権だという事です。

古事記』にしかない話

 以上見てきたように、スサノオから始まる「国譲り」までの話は、『記紀』で大筋は似たものになっています。

しかし、『記紀』で大きく異なる部分も存在します。

それは、スサノオの子孫である大国主命に関するもので、「因幡の白兎」、「大国主の神話」、および「大国主の国づくり」の話です。

古事記』の神話およそ三分の一は、「出雲神話」なのですが、
日本書紀』ではほとんど触れられていません。

この違いには何か意味が有るはずです。


 次回は、この「出雲神話」について考えて見ます。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 19 -神代 9-

日本書紀』創られた日本 19 神代についての話 9です。

 

 

スサノオ追放される

 前回は、イザナギイザナミによる神生みについての話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

神生みの最後に、有名なアマテラススサノオが生まれるのですが、その内容が『記紀』で異なり、『日本書紀』の方がより正統性に焦点を合わせた話になっているのではないかと考えました。

実は神生みの最後にはアマテラススサノオいギアにも二柱の神が生まれていたのですが、ここではアマテラススサノオに絞って話を続けます。

生まれた後、アマテラス高天原を治めることになります。

一方のスサノオは、これも『記紀』で話が異なるのですが、最終的に追放を言い渡されてしまいます。

アマテラスに会いに行く

  追放されることになってしまったスサノオは、最後にアマテラスに会おうと高天原に登っていきます。

それに対してアマテラスは、スサノオが攻めてきたと勘違いして、完全武装で足が地面にめり込む程に踏みしめ立ちはだかりスサノオに何をしに来たか問い詰めます(岩戸に隠れてしまったりするので勘違いしてしまいがちですが、意外と武闘派なアマテラスです)。

スサノオは、追放される前に話をしに来ただけで、謀反の心などないと答えます。

アマテラスは、「ならばそれをどうやって証明する」と、無いことの証明という若干無理筋な要求をします。

それに対するスサノオの答えが、「誓約(ウケイ)」をするというものでした。

誓約

 その「誓約」とは何かということなのですが、いまひとつよくわかりません。

スサノオの言葉を借りるなら、「誓約をして子供を生みましょう」といったことになるのですが、やはりよくわかりません。

とにかく2柱で誓約をおこなうことになります。

アマテラススサノオが持っていた剣を受け取り、三つに折り、噛み砕き、吹き出すと、3柱の女神が生まれます。 

次に、スサノオアマテラスの玉飾りを受け取り、噛み砕き、吹き出すと、5柱の男神が生まれます。

するとアマテラスが、5柱の男神は私の玉飾りから生まれたので私の子供、3柱の女神はスサノオの剣から生まれたのでスサノオの子としたのです。

勝ち負け?

 誓約は、もともとスサノオに謀反の心が無いことを証明するために行なわれたのでした。
証明されたのでしょうか。

古事記』では、「わたしの心は清らかで明るいものだから、生まれた子はか弱くやさしい女の子だった。私の勝ちだ」、とスサノオが勝ちを宣言します。

これも良く分かりませんし、いきなり勝ち負けの話になって唐突な感じが強いです。

これに対して『日本書紀』では、最初にスサノオが誓約を提案する時に、男の子が生まれたら清い心だと考えるようにするという条件を示します。

従って、男神を生み出したスサノオに謀反の心が無いことが証明されたという形になります。

男系

 スサノオから生まれ、アマテラスに引き取られた5柱の男神の内の「アメノオシホミミ」は、神武天皇の高祖父となります。

つまり、『古事記』では唐突感も有り曖昧となっていたものが、『日本書紀』では男系であることが明確にされたという事が言えそうです。

ここでも、アマテラススサノオの誕生に続いて、正統性に焦点が当てられ、さらにそれが男系であることが示されたということなのではないでしょうか。


 『古事記』の話を見ると、ひょっとしたら古代には女系であることに意味が有った、ということなのかもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 18 -神代 8-

日本書紀』創られた日本 18 神代についての話 8です。

 

 

国生みの次は神生み

 前回までで、多少寄り道はしましたが、天地開闢から国生み(古事記では、それに加えて島生み)までを見て来ました。

記紀』のいずれもこの後は、「神生み」の話になります。

イザナギイザナミが、国生みに続いて数多くの神々を生み出していきます。

古事記』では、「岩」、「砂」、「家の戸口」、「屋根」、「泡」、「水面」、「分水嶺」それぞれの神、といった八百万の神々の住む我が国の基になったかとも思える神々が生み出されています。

その最後の段階で生み出されたのが、よく知られた「アマテラス」と「スサノオ」の二柱の神になります。

古事記』の神生み

 基本的に『記紀』のいずれも、最後の段階で「アマテラス」と「スサノオ」の二柱が生まれてくるという点では違いはないのですが、その内容はかなり違っています。

イザナミが、火の神「カグツチ」を生んだ際の火傷がもとで亡くなってしまいます。

イザナギは、イザナミを取り戻そうと黄泉国へ赴きますが、見るなと言われたイザナミの姿を見てしまい、かないません。

イザナギが黄泉の穢れから身を清めると様々な神が生まれ、最後に「アマテラス」と「スサノオ」達が生まれたのです。

つまり、「アマテラス」と「スサノオ」は、イザナギイザナミの子供という事ではないことになります。

この「死者を取り戻すために冥界に赴く」というモチーフは、世界各地の神話に見られるもののようで、例えばギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケーの話などが有名です。

そういった観点で見ると『古事記』の話は、そんな言い方は適切かどうかはわかりませんが、人々の営みのなかで生まれた「神話らしい神話」という事が言えるのかもしれません。

日本書紀』の神生み

 それに対して、『日本書紀』では、イザナミが亡くなるという事は無く、当然イザナギが黄泉の国に赴くという事も有りません。

両神は、国生みが終わった後に、そのまま神生みを行い、最後に「アマテラス」と「スサノオ」等を生み出すという話になっています。

アマテラス」と「スサノオ」は、イザナギイザナミの子という事になります。

古事記』の神話らしい神話から、正統性というものを強く意識した神話に作り替えられたのです。


 やはり、亡くなった大切な人に会いたいというのは、人類永遠の願いなんでしょうね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 17 -神代 7-

日本書紀』創られた日本 17 神代についての話 7です。

 

 

今少し寄り道

 前回は、『日本書紀』の話から寄り道をして、狗邪韓国について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

結論としては、狗邪韓国は、倭の国ではあるが邪馬台国連合の構成国ではないと考えられるというものでした。

ということなのですが、狗邪韓国について調べている時に気になる情報を、そこかしこで見かけたのです。

今回は、今少し狗邪韓国関連で寄り道をして、その気になる情報について考えたいと思います。

弁辰狗邪国

 その気になる情報というのは、狗邪韓国と弁辰狗邪国が同じものだというものです。

これのどこが気になるのか説明するために、先ず弁辰狗邪国について見てみます。

狗邪韓国の名前が出て来た『魏志倭人伝』は、魏の正史である『魏志』の中の「倭人」について書かれたものという事になります。

その『魏志』には、その他の地域についても書かれていて、その中に「韓」についても記述が有ります(以下『魏志韓伝』)。

それによると、朝鮮半島南部を韓と呼び、馬韓辰韓弁韓の3つからなっていると書かれています。

その中の弁韓は12ヶ国に分かれており、その中の1国が弁辰狗邪国なのです。

という事は、弁韓の弁辰狗邪国と狗邪韓国が同じ国であるならば、狗邪韓国も韓の国という事になってしまいます。

狗邪韓国は、倭ではないのでしょうか。

南は倭と接す

 『魏志韓伝』によれば、韓について、「南は倭と接す」という記述も有ります。

さらに、12ヶ国の内の一つ「弁辰瀆盧国が倭と接する」とも有ります。

ここまでの韓についての記述をもう一度纏めると、

 1.韓は倭と接する
 2.韓の一部弁韓は12ヶ国から成り、その中に弁辰狗邪国、弁辰瀆盧国がある
 3.弁辰瀆盧国は倭と接する

となります。

これらの内容を見ると、明らかに弁辰瀆盧国と接する倭と弁辰狗邪国は別のものとして扱っています。

朝鮮半島南部には、弁辰瀆盧国と接する形での弁辰狗邪国ではない倭の存在が必要なことになります。

それが、沙都島(巨済島)に有ったと考えられる、狗邪韓国だとすれば整合性は有ることになります。

結果として、狗邪韓国と、弁辰狗邪国が同一ではないと言ってよさそうです。


 次回の更新は、正月の不摂生が祟っていなければ、1月4日の予定です。
どうぞ良いお年をお迎えください。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 16 -神代 6-

日本書紀』創られた日本 16 神代についての話 6です。

 

 

狗邪韓国

 今回は、直接『日本書紀』の内容には関係がないのですが、「狗邪韓国」について考えて見たいと思います。

その狗邪韓国については、国生み神話でその誕生が語られる大八島の一つ佐渡が、元々は朝鮮半島南部の沙都島、現在の巨済島であり、邪馬台国の時代に狗邪韓国が有ったのではないかとしました。

 

yokositu.hatenablog.com

そして、『魏志倭人伝』の記述から考えて、狗邪韓国も倭人の国だったのではないかとも、考えました。

ところが、狗邪韓国が倭人の国だとは思うのですが、『魏志倭人伝』の記述に少し気になる点が無いわけではないのです。

邪馬台国への旅程は、帯方郡を出発した後、狗邪韓国を経て、対馬壱岐と続いていきます。

その中で、対馬以降の国については、その行政形態、戸数等々様々な情報が記録されていますが、狗邪韓国には全くないのです。

この狗邪韓国に関しての記述に関する疑問について考えて見ます。

魏志倭人伝』に書かれている国

 『魏志倭人伝』に書かれている国の中には、狗邪韓国と同じようにほぼ国名だけという国が他にも出て来ます。

邪馬台国連合ともいうべき国々の内、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国等21ヶ国が、国名だけ記載されているのです。

さらに、邪馬台国の尽きるところである南に位置し、敵対する国として狗奴国が出て来ます。

男王がいて、卑弥呼と対立してしたことが語られますが、それ以上の詳細は有りません。

これらの記述を見ると、どうやら魏からの勅使が直接訪れなかった国に関しては、国名のみ、またはそれに準ずる記述になっていると言ってよさそうです。

しかし、狗邪韓国は旅程の最初に経由しているのです。

ますます謎は深まりました。

勅使の派遣先

 さて、『魏志倭人伝』は、魏から派遣された勅使の報告を基に書かれていると考えられます。

その勅使は、邪馬台国連合の朝貢に応じて、倭の中の勢力の一つである邪馬台国連合へと派遣されました。

結果として、その報告書は、倭の中の邪馬台国連合の位置付けと規模を報告するものになり、邪馬台国連合の中で直接訪れた国について詳細に報告する形になったという事なのではないでしょうか。

という事は、訪れているのにも関わらずほぼ国名しか書かれていない狗邪韓国は、倭の国ではあるが邪馬台国連合の構成国ではないという事になります。


 邪馬台国連合の影響力が朝鮮半島まであった、とは単純に言えないのかもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 15 -神代 5-

日本書紀』創られた日本 15 神代についての話 5です。

 

 

記紀』で違う部分が

 前回までの記事で、いわゆるイザナギイザナミによる国生みで生み出されたとされる大八島について見てきました。

国生み神話は、元々北部九州地域を中心とした倭人の勢力範囲が、どのようにして生み出されのかを示すものでした。

邪馬台国の一部が畿内に東遷した後に、その正統性を示す一環として、大八島の構成を合わせる形で置き換えたものだという話でした。

ここまでの話では、『記紀』で大きな違いは有りませんが、その後で異なる部分が出て来ます。

古事記』の国生み神話でのみ、大八島の後でさらにいくつかの島を生む話、「島生み」が語られるのです。

島生み

 『古事記』で語られる島生みでは、イザナギイザナミの二神は、大八島を生んだ後に続けて、六つの島を生んだとされます。

生まれた島は、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島の6つとなります。

これらの比定地を大八島も含めて地図で見ると、次のようになります。

引用元:イザナキとイザナミの国生み③/二柱の神は最初に生んだ淡道之穂之狭別の嶋(淡路島)を合わせて八つの島を生んだその総称とは?【古事記】 - ラブすぽ

見て分かるように、半分は瀬戸内海、残り半分は九州周辺という感じでしょうか。

これを、国生みの大八島の時と同じように考えるとどうでしょうか。

元々の島生みの6島は、やはり九州周辺に有ったと思われます。

そのうちの3島が、古事記に編纂された話が創られる時に、瀬戸内海の3島に置き換えられたのではないかと、言うことになります。

6島の別名

 島生みの6島には、「亦の名」という事で、以下のような別名が『古事記』に載せられています。

1.吉備児島 建日方別(たけひかたわけ)
2.小豆島  大野手比売(おおぬてひめ)
3.大島   大多麻流別(おおたまるわけ)
4.女島   天一根(あめのひとつね)
5.知訶島  天之忍男(あめのおしお)
6.両児島  天両屋(あめのふたや)

これを見ると、勿論証明は出来ないのですが、4,5,6の九州周辺にある島の別名は、いずれも「天」から始まっており、元々6つの島全てが「天」で始まっていたのではないかと想像されます。

無視できない島々

 瀬戸内海の3島は、東遷後に置き換えられたわけですから、その当時の大和政権にとって、置き換える必要のあった場所であったはずです。

そこは無視できない島々だったのです。

つまり、大和政権からすると無視できない勢力がいた場所だったという事なのではないでしょうか。

島を神と見立てての名前とされている別名にも、その辺りが反映されていると思われるのです。

例えば、吉備児島の建日方別(たけひかたわけ)は、吉備に「たけひこ」という名を持った人物が多く、そのことと関係が有るのではないかと考えられています。

当時の大和政権は、国生み神話を創る中で、これらの勢力を無視出来ない力関係だったということなのでしょう。

その後、『日本書紀』を編纂する頃には、そんな忖度をする必要が無くなり、「島生み」の神話も無くなったのです。


 瀬戸内海の3島は、いずれも交通の要衝ともいえる場所にあり、興味深いです。


ではでは

 

『日本書紀』創られた日本 14 -神代 4-

日本書紀』創られた日本 14 神代についての話 4です。

 

 

残るは、佐渡

 前回は、前回は、いわゆる国生み神話でイザナギイザナミにより生み出されたとされる大八島の内の隠岐について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 元々、宗像市沖の沖ノ島であったものを、東遷後に畿内中心の大和政権に合わせる形で、隱伎之島と置き換えたという事ではないかという話でした。

今回は、大八島のうち最後に残った「佐渡」について考えて見ます。

佐渡

 その佐渡ですが、ご存じのように新潟の沖合にあること、本州とはバランスが悪すぎること、北部九州を中心とする倭の一部とは考え難いことなどから、隠岐同様に東遷後に置き換えられたと考えられます。

とはいうものの、前回の隠岐に対する沖ノ島のように、直ぐに思い付くような島は見当たりません。

そのため、本州などと同様に、佐渡についても基となる場所は特定出来ないと考えていました。

ところが、次のようなものを見つけたのです。

 

引用元:磐井の乱と朝鮮半島情勢 | 古代の歴史

 

見てもらえば分かりますが、沙都島(巨済島)とあります。

ルビは振られていませんが、「さと」と読めそうです。

大八島の最後の一つは元々は、「沙都島」だったのではないでしょうか。

その読みに合わせて佐渡島を充てたと考えられそうです。

狗邪韓国

 ここまで国生み神話は、元来の倭人の勢力範囲がどのように作られたのかを説明した神話だったという事で、大八島の元々の場所を考えて来たわけです。

という事は、佐渡が沙都島(巨済島)であるならば、沙都島(巨済島)は倭人の勢力範囲だったという事になります。

さらに、上に挙げた地図を見てもらうと、沙都島(巨済島)は対馬の対岸ともいえる場所に位置していることが判ります。

この位置関係から一つの国が思い浮かびます。

魏志倭人伝』に出てくる「狗邪韓国」です。

邪馬台国を訪れるために帯方郡を出た使者が、朝鮮半島を南に東に旅して到着するのが狗邪韓国です。

その場所が、沙都島(巨済島)だとすればどうでしょう

「韓国」と付くので、現代の人間からすると韓人の国と思いがちですが、倭人の国だったのです。

そう考えると、『魏志倭人伝』の「その北岸の狗邪韓国に至る」という記述も納得がいくものになります。

「狗邪韓国」が、沙都島という島にあったわけですから、朝鮮半島本土との間は水面で隔てられており、それを「倭人の領域の北岸」と呼ぶのに違和感はありません。

さらに、その後に「七千余里」と初めて距離に関する表現が出てくるのも、単に朝鮮半島を移動した距離では無く、帯方郡から倭人の勢力範囲が始まる所までの距離を記したと考えることが出来そうです。


 そもそも、『魏志』の中の倭人のことについて書いてある『倭人伝』に出てくる国なので、当然倭人の国という事も言えるかもしれません。


ではでは

 
 

 

 

『日本書紀』創られた日本 13 -神代 3-

日本書紀』創られた日本 13 神代についての話 3です。

 

 

残るは、隠岐佐渡

 前回は、いわゆる国生み神話でイザナギイザナミにより生み出されたとされる大八島について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 『記紀』に語られる神話は、北部九州にあったと考えている邪馬台国が、畿内に東遷して来る時に持ち込まれたものをベースにしており、国生み神話については、元々倭の人々が住んでいた地の創成の話だったと考えました。

その仮説を基に、本州、九州、四国、淡路、壱岐対馬について見ました。

今回は、大八島の内で残る、隠岐佐渡の内の隠岐について考えてみます。

沖ノ島

 隠岐は、島根県の沖にある諸島で、位置的に北部九州を中心とする倭の一部とは考え難いものがあります。

そこで、これもまた東遷後に置き換えられたとすると、元はどこだったのか考えてみたます。

北部九州で、それらしい場所としてすぐに思い浮かぶのは、沖ノ島でしょう。

福岡県宗像市の沖合にある島で、島全体が宗像大社沖津宮御神体となっており、世界文化遺産にもなっています。

発掘調査によれば、縄文時代から人間の活動が見られることが判っており、倭の時代にもそれは変わらなかったと思われます。

また銅矛なども出土しており、古くから祭祀上の重要な地であったことも伺われます。

隱伎之三子島

 ところで、隠岐については『古事記』の中では、「隱伎之三子島」として出て来ます。

これは一般に、「おきのみつごのしま」と読まれているようです。

「おき」は「隠岐」だとすると、「みつご」というのはなんなのでしょうか。

直ぐに思い浮かぶのは、構成する島の数でしょうか。

隠岐隠岐諸島と呼ばれ、大きく「島前」と「島後」に分かれます。
主な島で見ると、「島前」は、「知夫里島、中ノ島、西ノ島」の3島から成り、「島後」は「1島(隠岐の島町)」のみとなっています。

 

引用元:史跡と伝説・絶景の隠岐諸島4島めぐり | 添乗員ツアーレポート|西遊旅行

「島前」と「島後」ならば「二子」でしょうし、個々の島で見れば「四子」で、どちらにしても「三子」にはなりそうも有りません。

宗像三女神の島

 先にも書いたように、現在の沖ノ島は島全体が宗像大社沖津宮御神体となっているのですが、その宗像大社沖津宮には、宗像三女神田心姫神(たごりひめのかみ)がまつられています。

三女神の一人がまつられているという事で、沖之「三子」島というのが元々の場所名だったのでしょう。

それを東遷後に畿内中心の大和政権に合わせる形で、「隱伎之三子島」と置き換えたという事なのではないでしょうか。

 

 「三子」については女神が関係してものなので外せなかった、というようなことでもあったのでしょうか。

 

ではでは

『日本書紀』創られた日本 12 -神代 2-

日本書紀』創られた日本 12 神代についての話 2です。

 

 

国生み

 前回見た天地開闢では、様々な神々が生まれて来ます。

その中のイザナギイザナミの二神が、日本の国土を創成します。

いわゆる、国生み神話です。

天地開闢と同じく国生みに関しても、『記紀』で本質的な違いは有りません。

その方法は少し異なりますが、イザナギイザナミにより「「大八島/大八洲(おおやしま)」と呼ばれる八つの島々からなる国土が創られた、という話になっています。

その八つの島は、良書により呼び名が様々ですが、次の八つであるとされています。

淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐対馬佐渡島、本州

壱岐対馬

 この八つですが、パッと見て分かるようにバランスが良いとは言えません。

淡路島、隠岐島などの島と聞いて普通に思い浮かぶレベルのものから、四国、九州と来て、極めつけは本州ですから。

そのなかでここでは、壱岐対馬について考えます。

私のように、邪馬台国とその周辺について日々考えている人間にすると、壱岐対馬というのはよく見る名前なので、それほど違和感はないのですが、よく考えると不自然なことに気が付きます。

何しろ九州を一気に創っているのです。

島という事であれば、天草とか五島列島とか、壱岐対馬と比べても無視されるのは可笑しいと思える島がたくさんあるではないですか。

それにもかかわらず、わざわざ壱岐対馬が入っているのは、奇妙と言えば奇妙ではないでしょうか。

東遷と共に

 本ブログでは、元々九州にあった邪馬台国の一部が畿内に東遷して、大和政権の基となったと考えています。

それに伴い、『記紀』に記載の神話の基となる話も九州から持ち込まれた、邪馬台国連合すなわち、倭の勢力範囲で語り継がれていた話がベースになっていると考えていいのではないでしょうか。

つまり、元々の話は、倭の勢力範囲の創成神話であった可能性が高いのです。

それを、東遷後古事記が編纂されるまでの間に、大和政権の地の創世神話として作り替えられたのです。

その中で、大八島も創り替えられたのです。

倭の土地

 倭の人々が、自分たちの住む地がどう創られたか説明するための話が、大八島の創成神話だったのでしょう。

その話には、『魏志倭人伝』を見ても分かるように、邪馬台国つまり倭へと至る経路上の主要な地点である、壱岐対馬は当然含まれていたはずです。

そのほかの地がどこであったかは、はっきりとはしないわけですが、東遷後に、九州、四国、本州といったものを組み込んで、畿内の大和政権の地の創世神話として体裁を整えたのではないでしょうか。


 淡路島も組み込まれたというのは、その当時に無視できない勢力が居たという事を示しているのかもしれません。


ではでは 

『日本書紀』創られた日本 11 -神代 1-

日本書紀』創られた日本 11 神代についての話 1です。

 

 

神話

 30巻からなる『日本書紀』は、巻1,2の「神代上、下」から始まります。

「神代」すなわち神話の時代の話になります。

神話という事なので、ぶっちゃけその内容に関していえば、なんでもありなんですよね。

本来、正しいとか、間違っているとかいう次元の話ではないわけなんですが、前回の記事で見たように、『古事記』も含めて考えると少し状況が違ってくると思うのです。

 

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前回までで見て来たように、『古事記』は、普通言われているような天武天皇により編纂されたものではなく、物部氏により『日本書紀』より約100年前に形にされたものだと考えています。

そうであるならば、『古事記』に書かれた100年前に流布していたと考えられる神話と『日本書紀』に書かれたそれを比較することにより、大和政権の思惑が見えて来るのではないでしょうか。

古事記』にあって、『日本書紀』に無い話は、大和政権にとって都合の悪い話かもしれません。

古事記』に無くて、『日本書紀』に有る話は、大和政権にとって都合の良い話を付け加えたのかもしれません。

という感じで、『日本書紀』の神代について考えて見たいと思います。

天地開闢

 どちらかに有る無いというだけではなく、大和政権の思惑が透けて見える時も有ります。

日本書紀』も『古事記』も、神話の始めは「天地開闢」から始まっています。

その内容も、大まかには天地が分かれて神々がうまれてくるというものなのですが、その冒頭の部分が少し異なっているのです。

先ず『古事記』では、天地初めて發けし時」と、天と地が分かれたところから始まります。

一方、『日本書紀』本文ではその始まりは、「古天地未剖、陰陽不分」(昔まだ天と地が分かれておらず、陰と陽が分かれておらず )と、天と地が分かれる前から始まっています。

この後の部分ですぐに天と地に分かれる話になるので、それがどうしたという感じですが、実はこの冒頭の部分は、中国前漢の時代に編纂された『淮南子』巻二 俶真訓 に「天地未剖、陰陽未判」(天地未だ剖れず、陰陽未だ判れず)とあるのが典拠になっていると考えられているのです。

つまり、元々の天地開闢の話を、中国の話に寄せる形で創り直しているとも考えられるのです。

このあたりにも、中国に匹敵する歴史のある国として正統性を示したい大和政権の思惑が透けているのではないでしょうか。

中国と世界観を共通している歴史ある国だというわけです。


 若干、重箱の隅をつついている感が無いわけでは無いですが、真実は細部に宿るとも言いますから。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 10 -『古事記』3-

日本書紀』創られた日本 10 『古事記』についての話 3です。

 

 

古事記』は国内向け?

 前回までの記事で、『古事記』に推古天皇までの記述しか無い事などを手掛かりとして、『古事記』は、推古天皇の次代舒明天皇の時期に、物部氏によって書かれたのではないかと考えました。

 

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34代舒明天皇の在位は、629年から641年と考えられていますので、『日本書紀』に比べて、『古事記』の成立が80から90年古いという事になります。
当然、『古事記』に在位:697年-707年の42代天武天皇の意志が反映するはずもなく、天武天皇は『古事記』の編纂とは無関係だったという事になります。

これまでの記事で、『日本書紀』に関しても、天武天皇とは関係が無かったことを見て来ました。

天武天皇が『記紀』のいずれも編纂させたという前提が無くなったわけですから、『日本書紀』が国外向け、『古事記』が国内向けというのは、あり得ないことになります。

ただ、『古事記』が、上記の記事でも書いたように、物部氏によって、舒明天皇側に売り込むためのものだったとすれば、国内向けに作られたように見えるのは、当然と言えば、当然と言う事なのかもしれません。

古事記』の記述は信用できない?

 以上のような背景があるとすると、物部氏が私的に作ったとも言える『古事記』の内容は、偽書とまでは言えないものの、正史である『日本書紀』のそれに対して、信頼性の劣るものと言えるのかもしれません。

しかしながら、物部氏の都合のいいように、好きなことを書けたかと言えば、そうとも言えないと思うのです。

なぜならば、舒明天皇側に売り込むことを前提としているのですから、天皇家側の正当性を疑うようなことは書けなかったと思われるからです。

という訳で、たとえ物部氏側にはそれなりの異なった話が伝わっていたとしても、『古事記』には、それが作られた当時の一般に流布していて、天皇家側から見ても問題の無いと思われる話が書かれていると考えていいのではないでしょうか。

古事記』は、『日本書紀』のような正史ではないものの、『日本書紀』より100年近くに前に一般に流布していた話を基にした、私的な歴史書だという事になります。

 


とすると、『古事記』と『日本書紀』を比較することにより、政権側が『日本書紀』を編纂するにあたって、削除、改変、追加した内容について考えることが出来そうです。

 

 

ではでは

『日本書紀』創られた日本 9 -『古事記』2-

日本書紀』創られた日本 9 『古事記』についての話 2です。

 

 

事績が記されていない天皇

 欠史八代というのが有ります。
記紀』の記述の中で、系譜が記述されているが、その事績が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことを指します。

事績が記されていないことから、実在しないのではないかと考えられています。

古事記』の内容を見ていくと、欠史八代と同じように、系譜が記述されているが、その事績が記されない天皇が、ほかにも存在しています。
第27代安閑天皇から第33代推古天皇までです。

勿論、実在しないわけでは無く、『日本書紀』にはその事績が記されています。

しかも、この七代は、『古事記』の最後の部分であり、作者から見て、最も近い時代の天皇達と言うことになります。

ひょっとしたら、稗田阿礼が、ど忘れしてしまったのかもしれません。
そうであったとしても、作者がそれらの天皇について知らなかったとは考えられません。

明らかに、故意に事績を記述しなかったと思わざるを得ません。

第26代は継体天皇

 ところで、第27代安閑天皇の前は、第26代継体天皇です。

継体天皇に関しては、『日本書紀』によると、武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、有力豪族が協議し、越前にいた応神天皇の5世の孫を招いて即位したとされます。

5代前の先祖から分かれた親戚と言われても、ほぼほぼ他人と言ってもいいでしょう。

つまり、継体天皇から新たな血統の王朝となったのではないかと考えられるのです。

その継体天皇に関しても、『古事記』では、応神天皇の5世孫と言うこと以外には、ほとんど事績が書かれておらず、唯一、九州で起こった磐井の乱についてのみとなっています。

つまり、『古事記』の作者は、継体王朝の天皇に関しては、ほぼ事績を書いていない訳です。

なぜ事績を書かなかったのか

 前回の記事で、『古事記』は、山背大兄王を支持していた勢力の一部が、舒明天皇側に売り込むための資料として作られたと考えました。

 

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売り込むためには、継体王朝に対する功績を強調する必要がある訳ですが、作者は、事績を書き込むことが出来ない状況にあったのではないでしょうか。

それは、作者が、物部氏の一族だったためだと考えます。

唯一書かれた事績である、磐井の乱で功績のあった者は、乱を収めた物部荒甲大連と大伴金村連になります。

その後、物部氏は、仏教をめぐって、蘇我氏と対立をします。

さらに、第31代用明天皇の後継を巡っても、蘇我氏と対立した挙句、大連の物部守屋が戦死することになり、物部氏は政治の中枢から外れることになってしまいます。

事績を書き込むことにすると、これらの事も書かざるを得なくなってしまう訳です。

加えて、山背大兄王の祖母は物部氏と伝えられており、蘇我氏に対抗して、山背大兄王物部氏が支持し、再び敗れたとも考えられます。

以上のような状況のもと、継体天皇の代における、磐井の乱以外の事績を全て省くことにしたのだと思います。
継体王朝の開祖である、継体天皇との関係のみにすることで、正当性を示すことにしたのでしょう。


 継体恩顧の忠臣という訳ですが、残念ながら蘇我氏の力は強く『古事記』の効果はなく、乙巳の変蘇我氏を滅ぼした天武天皇の御代に、物部氏から改めた石上氏が復権するのを待たなければならなかったのでしょう。


 ではでは

『日本書紀』創られた日本 8 -『古事記』1-

日本書紀』創られた日本 8 『古事記』についての話 1です。

 

 

二大歴史書

 前回までの話で考えてきた編纂の目的と指針を基に『日本書紀』の内容について考える前に、『記紀』とも呼ばれる古代日本に関する歴史書の双璧のもう一方の雄『古事記』について考えておきたいと思います。

日本書紀』と『古事記』、一般的には『古事記』が国内向け、『日本書紀』が国外向けに、それぞれ作られたものだと説明がされることが多いです。

こういった考え方がされる理由として様々な主張がされてきましたが、その中でも最大とも言える要因が有ります。

それは、何れの書も、天武天皇によって作られたものだと考えられているという事です。

同じ人物が作らせたという事で、自ずと二つの書の存在理由を考える事になっているわけです。

しかし、ここまでの話で『日本書紀』について、天武天皇ではなく、藤原不比等によってその権力の正統性を示すために編纂されたものだと考えて来ました。

それでは残る『古事記』はどうなのか、というのが今回の話になります。

何時書かれたのか

 『古事記』に関しては、以前から気になっていたことが有ります。
それは、その記述が、なぜ推古天皇までなのかという事です。

 『古事記』は、その序文の記述によれば、天武天皇の命により、稗田阿礼帝紀旧辞を覚え、それを元明天皇の命を受けた太安万侶が編纂したものとなっています。

帝紀は、通常歴代の天皇あるいは皇室の系譜類と考えられています。
とすれば、天武天皇稗田阿礼に命じたときには、少なくともその先代の第39代弘文天皇までは記録されていたはずです。

それを稗田阿礼が覚えて、編纂したのならば、弘文天皇までなければおかしいことになります。
なにしろ、序文によれば、稗田阿礼は一度見れば覚えることが出来、忘れることが無かったのですから。

それが、推古天皇までしかないという事は、『古事記』本文は、推古天皇の代から程なく書かれた可能性が高いことを表しているのではないでしょうか。

この事は、『日本書紀』ではすでに消失している仮名遣いが、『古事記』本文に見られることとも符合します。(推古天皇は『日本書紀』より100年程前の時代の天皇となります)
なお、序文には、同仮名遣いは全く使われていません。

つまり、天武、元明天皇に命を受けたという事は有り得ず、『古事記』の序文は、後に付け加えられたものと言う事になります。
後世に、何らかの理由で『古事記』本文を利用しようとして、権威付けのために、天皇からの命を受けたように装ったものではないでしょうか。

何のために書かれたのか

 ここまでで、『日本書紀』同様に『古事記』も、天武天皇によるもので無いと推定されることが判りました。

では、『古事記』本文は、なんのために書かれたのでしょうか。

ここで、推古天皇までしか纏められていないというのが、ヒントになると考えます。

推古天皇の次を決めるにあたり、推古天皇が継嗣を定めていなかったため、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子=舒明天皇    )と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄王)による皇位継承争いが起きたとする説が有ります。(下図参照)

  

引用元:舒明天皇 - Wikipedia

 

結果、田村皇子が第34代舒明天皇になる訳ですが、そうなると山背大兄王を支持していた勢力は不遇を託つことになります。

そういった中で、山背大兄王を支持していた勢力の一部が、舒明天皇側に売り込むための資料として作られたのが、『古事記』本文だったのではないでしょうか。

推古天皇時代までの記録の中で、自らの功績と正当性を示すことに拠り、復権の一助としたのだと思います。


 その後、本居宣長に見いだされるまで、ほとんど表舞台に現れなかったことを考えると、残念ながら、あまり役には立たなかったという事なのかもしれません。


ではでは