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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

『日本書紀』創られた日本 27-神代 17-

日本書紀』創られた日本 27 神代についての話 17です。

 

 

組み込まれたスサノオ

 前回は、「高天原」でのスサノオについて見てみました。

 

yokositu.hatenablog.com

アマテラス姉弟の関係とされるスサノオですが、その事も含めて、元々あった倭の神話をベースにした大和政権の建国神話に出雲王朝を取り入れるために、後から組み込まれた人物だと考えました。

スサノオを出雲王朝の祖とすることで、大和と出雲が同根であり、その国を譲られた大和の正統性を主張する、という立て付けになっているわけです。

そのために、「高天原」でのスサノオは、出雲王朝の祖するために、追放ありきで話が語られるという事になっているのです。

結果として、「天岩戸」の事件の責めを受けて追放されるのですが、今回はその「天岩戸」の事件について考えます。

乱暴狼藉のスサノオ

 「天岩戸」の事件については、疑問点が多いのですが、順にみていきたいと思います。

先ず、「誓約」のが終わった後に、スサノオが乱暴狼藉を働くようになります。

「誓約」の結果として冤罪に陥れられたとかでもなく、むしろ良い結果だったのに、いきなりの乱暴狼藉です。

全く意味不明です。

隠れるアマテラス

その狼藉の結果亡くなる者まで出て、アマテラスが怒ってしまいます。

これは当然としても、その結果「天岩戸」に隠れてしまうのですが、これがまたちょっと変です。

「誓約」の前に、スサノオアマテラスに会いに来たのを、攻めて来たと勘違いしたアマテラスは、重武装をしてスサノオの前に立ちはだかっているのです。

そのアマテラスが、スサノオを捕まえるなどするのではなく、「天岩戸」に隠れてしまうというのはいかにも不自然です。

存在感の薄いスサノオ

隠れたことにより世のは闇に包まれてしまい、それに困った神々の策によってアマテラスは「天岩戸」の岩戸から出てくることになり、光が戻ります。

スサノオは、この事件の罪を償うために、高天原から追放されるのです。

最後の疑問点は、この話を通じてスサノオの存在感が薄いという事です。

確かに乱暴狼藉を働いたという話なのですが、スサノオの言葉というのは出てこず、アマテラス側の話ばかりです。

アマテラスが「天岩戸」に隠れて以降の話も、神々は出て来ますがスサノオは出て来ません。
アマテラスの行動に反応して、謝りに来るなり、狼藉を働きに来るなりしてもいいようなものですが、何もありません。

そのアマテラスも、再び出て来た時に、隠れることになった原因のスサノオについて尋ねるようなそぶりも有りません。
「どうしている」とか、「どこに行った」とか聞いてもよさそうなものです。

そして、全てが終わった後にスサノオは、取って付けたように罪に問われ追放されてしまうのです。

取って付けられた話

 そう、正に取って付けたようなのです。

この「天岩戸」の話も、元から倭の神話として存在したものなのではないでしょうか。

理由は分かりませんが、「天岩戸」に隠れてしまったアマテラスが、神々の策により再び外に現れて、光が戻る、という元々の話の前後にスサノオの話を付け加えたのではないでしょうか。

そのために、唐突ともいえる乱暴狼藉の話や、「天岩戸」に隠れて以降全く出てこないスサノオ、という事になってしまったのでしょう。

ところでこの話、スサノオを捕まえて、亡くなる者まで出た乱暴狼藉の罪で追放すれば済んだ話ではないでしょうか。

それをわざわざこういった形にしたという事は、「天岩戸」の話が倭の神話として欠くことの出来ない話だったという事でしょうか。


 それにしても、「誓約」とその後の乱暴狼藉の部分のつなぎは、もう少し何とかならなかったですかね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 26-神代 16-

日本書紀』創られた日本 26 神代についての話 16です。

 

 

「国譲り」と「天孫降臨

 前回は、「天孫降臨」について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

大国主から国を譲り受けたことと、「天孫降臨」で九州の地に降り立ったことのちぐはぐな感じから、スサノオとその子孫たちの出雲神話が、後から組み込まれたものではないかと考えました。

出雲王朝との関係を神話の形で取り込むことで、その統治の正統性を示そうとしたのです。

特に、スサノオ大国主は、そのために神話に取り込まれたのではないかという話でした。

今回は、特に地上に降り立つまでのスサノオについて考えて見ます。

出雲王朝の祖

 元々の神話は、「天地開闢」から始まり、「国生み」、「神生み」を経て、天を司るアマテラスが生まれ、その子孫が「天孫降臨」により地上に降り倭の祖となった。

そして、その正統性を引き継いだ神武天皇が東征を行った、という形で統治の正統性を示すものだったと思うのです。

そこに、出雲王朝と同根であることを示すために持ち込まれたのが、スサノオという存在だったのです。

そのため、先ずアマテラスの末の弟という設定で追加されます。

そして、親に当たるイザナギから追放を言い渡されます。

そのまま神の国に居ては、出雲王朝を興すことは出来ないので、追放されなければならないのです。

その後、アマテラスとの間に、色々とあった後に、最終的に追放されます。

追放後、出雲の地に降り、めでたく出雲王朝の祖となるのです。

誓約

 しかしこのままでは、アマテラスの子孫が「天孫降臨」で地上に降り、アマテラスの創った出雲王朝を引き継いでしまうことになります。

そこで創り出されたのが、「誓約」の話です。

これは、スサノオが、アマテラスに会いに行ったのを襲撃しに来たと勘違いされ、無実を証明するために行なわたものになります。

色々とつっこみどころはあるのですが、結果としてスサノオが生み出した5柱の男神アマテラスが引き取って育てるという事になるのです。

この時の男神の子孫が「天孫降臨」で地上に降ります。

これで、めでたくスサノオの子孫が出雲王朝を引き継ぐ形にすることが出来たことになります。

とにかく追放

 「誓約」によって無実が証明されたのですが、その後でスサノオは、乱暴狼藉を働き出すのです。

そのせいで、あの有名な「天岩戸」の事件が起こり、その罪を問わる形で、スサノオは追放されてしまいます。

これは、以前にも書きましたが、全く訳が分からない話です。

しかし、ここまで見てきたような流れで考えると、分からないことも無い話だと思えて来ました。

結局、追放ありきの話だという事なのでしょう。

とにかく、スサノオは出雲の地に降り立って、出雲王朝の祖とならなければならず、そのための追放であり、そのための理由なき乱暴狼藉という流れで組み込まれたのです。


 出雲の地に降りるまでは、ひたすら不遇なスサノオなのでした。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 25-神代 15-

日本書紀』創られた日本 25 神代についての話 15です。

 

 

最後は天孫降臨だが

 前回で「国譲り」まで見て来ましたが、それに続いて話は、「天孫降臨」となります。

この話で、細かい部分は有りますが、おおむね神話の時代は終わりとなります。

この後、降臨した神の子孫である神武天皇の東征から大和王朝が始まることになるのです。

さて、その「天孫降臨」ですが、要約すると、「国譲り」で譲り受けた国を治めるべく高天原の神が降り立った、という事になるでしょうか。

そのこと自体に問題は無いのですが、問題はその場所です。

「日向の高千穂」という話になっています。

それが実際のどこに当たるのかについては、諸説あるのですが、おおむね九州であることは間違いないと思われます。

なにしろ、この後で子孫の神武天皇が、九州から東征に出発するという事になっていますし、ほぼ間違いはないでしょう。

国譲りを受けたのに

 つまり、前回まで見たように、大国主から国譲りを受けたのに、出雲でなく九州に降り立ったのです。

もっとも前回の話で、国譲りで譲られたのは、畿内ではないかと考えたように、国譲りの話では、譲られた場所は明確にされていないので、九州でも問題は無いと言えば無いのですがのですが。

 

yokositu.hatenablog.com

それにしても、何か釈然としないものが残るのは確かでしょう。

基になったのは

 この話の基になったのは、本ブログが北部九州を中心に存在したと考えている倭人の勢力範囲、すなわちいわゆる倭国に有った神話が基になっていると考えます。

元々倭国には、「天地開闢」から「天孫降臨」までの一連の話の原型となる神話が有ったのです。
ただし、スサノオに関する話と「出雲神話」に相当するものは無かったと思われます。

天の神により倭の地が造られ、そこに降り立った神の子孫が倭の地を治めているという、倭国における統治の正統性を説明するものだったと考えられます。

このことは、以前の記事で書いた、「国生み」の神話が、元々倭人の住む土地がどうやって出来たかを示したものである、という話にもつながります。

 

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神の子孫が東征した

 畿内に来た当初は、その神の子孫が畿内の地に東征して来た、という形で畿内に攻め込んだ大和政権の正統性を示そうとしたものだったのでしょう。

その後、出雲王朝との領地争いに勝利はしたものの、前回考えたように、出雲王朝を滅ぼすまでには至らず、その影響は無視できないものだったのでしょう。

そこで、出雲王朝との関係を神話の形で取り込むことで、その統治の正統性を示そうとしたのです。

その結果、出雲王朝から国譲りを受けたのに、九州に降り立つ、という納まりの悪い流れとなってしまったのです。

スサノオ大国主は、元々出雲の地の存在だったものが、大和政権の神話に組み込まれたものではないでしょうか。

アマテラススサノオは姉と弟ということにされ、出雲王朝と大和政権が同根だとされたわけです。

そして、国譲りでそれを受け継いだという形をつくったのです。


 倭国の神話を基にしたので、九州に関連する場所が実存するという説得力を持つことにもなったのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 24-神代 14-

日本書紀』創られた日本 24 神代についての話 14です。

 

 

国譲りとは

 前回までで国譲りについて、何を意味しているのかを見て来ました。

国譲りは、大国主とその子孫がつくった国を高天原の神が譲り受けたという話ですが、実際には東征後の大和政権と出雲王朝の戦いを神話の時代に組み入れたものだと考えました。

それによって、東征後の争いを無かったものにし、神武以来の一貫した統治という前提を守ったのです。

さらに、『記紀』における出雲神話の有無は、国譲りを受けた側の正統性を、どう説明するかの違いによるものだと考えました。

古事記』では、神話の基が創られた時代の出雲王朝の存在感を無視できずに、出雲王朝そのものの正統性を説明のために出雲神話を採り入れたと考えました。

それに対して、『日本書紀』では、その編纂時に既に影響力の無かった出雲王朝を徳を失った政権とし、そこから禅譲を受けることで正統性を主張したとしました。

今回は、国譲りの内容から、東征後の出雲王朝との関係について考えて見ます。

帰らなかった神々

 国譲りの話は、先ず高天原の神が派遣されるところから始まります。

これは、国譲りをしてもらうためではなく、平定を目的としたもんでした。

この辺りは、畿内に入った大和政権と出雲王朝が、敵対関係に有ったことを示しているのだと思います。

出雲王朝からすれば、いきなり勢力範囲の畿内に攻め込んできたわけですから、当然排除も含めた敵対関係であったという事でしょう。

その結果は、最初の何柱かの神々が、帰ってこなかったり、死んでしまったりという事になります。

これは、両勢力による戦いが激しく、大和政権側でも複数の指揮官クラスが失われる程だったことを反映しているのだと思います。

タケミカヅチ

 その後に派遣されたタケミカヅチが、大国主の子供たちに迫ると、子供たちは去ってしまいまい、それを聞いた大国主が国譲りを決意することになります。

この経過は、大和側の有能な指揮官の出現と、彼による大国主の子息たちの軍勢との決戦を基にしたものかもしれません。

その結果を受けての国譲りの結果として、大国主は姿を消すのですが。

これは明らかに、指導者大国主の命が講和の条件だったことを示しているのだと思います。

こうして、大和政権と出雲政権の争いは、大和政権の勝利で終わります。

その後の出雲政権

 争いは大和政権が勝利したわけですが、その結果として出雲王朝が滅ぼされたという事は無いでしょう。

その事は、出雲に大国主を祀る出雲大社が有ることを見れば明かです。

古事記』には、大国主が国譲りをする条件として、彼を祀る社を建てることを要求します。

日本書紀』には、そういった話は出てこないことから、大和側が建てたという事は無さそうです。

しかし、現実には出雲大社が建っています。

それを建てたのは、争いに負けた後の出雲王朝だったのではないでしょうか。
国のために命を懸けた指導者を祀るために建てたのです。

争いに負けたことにより滅ぼされることは無く、出雲大社を建てることに対して、大和側から横やりを入れられるような力関係にも無かったという事になります。

何を譲ったのか

 出雲王朝が滅亡していないとすると、国譲りで何が譲られたのでしょう。

それは、畿内だったのだと思います。

出雲王朝から大和側への畿内の割譲、それが「国譲り」の正体なのです。

畿内の割譲と大国主の命を条件に、出雲王朝と大和政権の間で手打ちが行われたのです。


 結局、大和側には出雲王朝を滅亡まで追い込むほどの力は無かったのでしょう。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 23 -神代 13-

日本書紀』創られた日本 23 神代についての話 13です。

 

 

国譲り

 前回は、『記紀』いずれの日本神話にもある、「国譲り」について考えました。

 

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国譲りは、大国主とその子孫が造り上げた国を、高天原の神に譲る、という話になります。

基本的には、東征(東遷)後の出雲王朝との覇権争いを反映した話だと考えています。

この戦いを神話の時代の話とし、さらに国譲りを受けたとことにすることにより、東遷後の出雲王朝との戦いを消し、大和王朝の一貫した統治と正統性を示したのが国譲りの神話ではないかという話でした。

今回は、この点を踏まえた上で、『記紀』における「出雲神話」の有無の違いについて考えて見ます。

古事記』の場合

 『古事記』には出雲神話が有るわけですがその内容は、スサノオの子孫である大国主による国づくりの正統性を描いたものでした。

 

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その国を、高天原の神が譲り受け、天孫降臨を経て神武天皇が引き継ぎ、東征により畿内に移り大和政権につながることにより、大和政権の正統性が示されるという、立て付けになっているわけです。

あくまでも、出雲王朝の存在を認めているという点が、ポイントと言えるでしょう。

そのために、出雲に存在した壮大な出雲大社の由来も説明されており、東遷後に出雲王朝を単純に滅ぼしたのではなかったことも想像されるものとなっています。

日本書紀』の場合

 これまでも書いてきたように、『日本書紀』(本文)には出雲王朝の正統性を示す話はありません。

つまり、言外に出雲王朝には正統性が無いとしているわけです。

加えて、その始祖ともいえるアマテラスについても、高天原から追放された後、ヤマタノオロチを退治し、助けた娘と結婚しますが、子をもうけた後に根の国に去ったことが語られます。

下世話な言い方をするならば、行きずりの恋のような扱いにも見えます。

つまり、罪を犯して追放されたアマテラスとその子孫たちの正統性は示されていないのです。

さらに決定的ともいえるのが、葦原中国の平定を命ずる際のアマテラスの発言です。

葦原中国の邪鬼を追い払って、平定したいと思っている」という趣旨のことを言っているのです。

イザナギイザナミから生まれた姉弟ともいえるスサノオの子孫達を「邪鬼」とまで呼んでいることになります。

出雲王朝を、罪をあがなっていないと断じていると言えるでしょう。

このような出雲王朝から国譲りを受けたというのは、「徳の無い王朝から禅譲をされた」と言い換えることも出来るでしょう。

中国の世界観に合わせる形で、大和政権の正統性を示しているのです。


 『日本書紀』が編纂される頃には、出雲王朝の存在を無視出来る状況だったという事になります。


ではでは

 
 

 

 

『日本書紀』創られた日本 22 -神代 12-

日本書紀』創られた日本 22 神代についての話 12です。

 

 

前回は出雲神話

 前回は、『日本書紀』には無く『古事記』のみ記述されている、出雲神話について考えて見ました。

 

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出雲神話は、ヤマタノオロチ退治の話を除けば、ほぼ大国主に関する3部作ともいえるものであり、大国主の正統性を説明するものという話でした。

その中で、出雲王朝の勢力範囲が大和まで達していたと考えられる事も分かりました。

この後は、『記紀』いずれも「国譲り」の話へと続いていきます。

今回は、この「国譲り」とは何なのかを考えて見ます。

国譲り

 国譲りは、ごく簡単に言うと、大国主とその子孫が造り上げた国を、高天原の神に譲る、という話になります。

その大国主とその子孫が造り上げたの国は、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)にあるという事になっています。

豊葦原中国は、高天原と黄泉の国の中間に有るという意味で中国(なかつくに)であり、我々の住む地上世界だとされています。

地上世界という大きな括りではあるのですが、出雲神話と呼ばれているように、その舞台となっているのはほぼほぼ出雲を中心とする地域なのです。

上でも触れたように、大和も最後に出て来ますが、それも含めて出雲王朝とも呼べる地域の話であり、日本全国ではなく出雲地域を中心とした出雲王朝の勢力範囲を譲られた話と言っていいものになっています。

出雲王朝打倒の話

 本ブログでは、北部九州に有った邪馬台国の一部が東遷し、後の大和政権の礎になったと考えています。

東遷の事績が反映されたのが、神武東征の話なのです。

神武東征については、改めて取り上げますが、先にも書いたように大和の地は出雲王朝の勢力範囲にあり、大和に入るには激しい戦いが有りました。

当然、大和への侵入を許した後も、出雲王朝との争いは続いたはずです。

その時の出来事を基にしたのが、国譲りの話なのでは無いでしょうか。

神の時代の話

 しかし、東遷時の戦いが基になったとすると、時系列的に問題が生じます。

記紀』では、国譲りの後に天孫降臨が有り、その子孫である神武天皇が東征を行うという話になっています。

つまり、時系列的に逆になっているのです。

これには、神武天皇の昔から一貫して日本を治めて来た正統な王朝だと示す、という考え方が反映していると考えます。

記紀』の日本神話の基になった話は、東遷から『日本書紀』の100年程前と考えられる『古事記』の編纂までの間にその原型が創られたと考えています。

創られた時点で、出雲王朝との争いには勝利していたと考えられますが、一貫して治めていたことにするためには、その争ったこと自体をそのまま認めるわけにはいかなかったのです。

また、敗れたとはいえ、出雲王朝の影響もまだ残っていたはずです。

これらを、神の時代に持っていき、さらに国譲りをうけたということにすることにより、東遷後の出雲王朝との戦いを消し、大和王朝の一貫した統治と正統性を示したのです。


 出雲神話まで話が行きませんでした。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 21 -神代 11-

日本書紀』創られた日本 21 神代についての話 11です。

 

 

記紀』で違いが

 前回は、アマテラススサノオによる誓約以降の神話について見てみました。

 

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アマテラスの天岩戸隠れ、アマテラスの追放、ヤマタノオロチ退治と繋がる話は、基本的に『記紀』で違いの無いものでした。

そして、これらの話に続く部分では、『記紀』に違いが出て来ます。

前回の終わりに少し触れましたが、いわゆる「出雲神話」と呼ばれる一連の神話が、『古事記』では語られるのですが、もう一方の『日本書紀』では全く出てこないという事になっています。

今回は、この違いの意味するところを考える前提として、先ず「出雲神話」について見てみます。

出雲神話

 出雲神話は、一般的に「ヤマタノオロチ退治」、「因幡の白兎」、「大国主の神話」、および「大国主の国づくり」に分けられて議論されることが多いと思います。

ここでもそれに沿って考えたいと思います。

上に挙げた話の内、「ヤマタノオロチ退治」については、前回も見たように、『記紀』いずれにも出てくるので、問題ありません。

ということで、残りの3つの話について考えます。

因幡の白兎」

 この3つの話は、大国主3部作とも言うべき内容で、大国主がどのように国を持ち、地上の国づくりをしていったのかを述べたものになっています。

先ず「因幡の白兎」ですが、大国主が多くの兄弟神を差し置いて
結婚が出来たかを語った話という事になります。

白兎は、困っていたところ、兄弟神と共に求婚の途上で通りがかった大国主に助けられ、「他の兄弟神は求婚が上手くいくことは無い」と大国主に予言します。

その言葉の通りに、心優しい大国主は結婚をすることが出来たという話になっています。

大国主の神話」

 次の「大国主の神話」では、大国主の結婚に嫉妬した兄弟神達に迫害を受けるのですが、それから逃れスサノオの基に赴き、スサノオの試練を潜り抜けることで、一目惚れしたスサノオの娘と結婚し、国づくりを始めることになります。

ちなみに、家格(神格?)という事なのか、スサノオの娘が本妻になり、「稲葉の白兎」で結婚した娘は、その本妻を恐れて子を残して実家に帰ってしまいます。

またどうしようもない兄弟神達に対しては、スサノオから授かった太刀と弓矢で、しっかりと「ざまあ」します。

大国主の国づくり」

 その後、協力者も有って、大国主は国づくりを進めるのですが、途中で協力者が去り、その後の国づくりに悩むことになります。

そこに一柱の神がやって来て、条件と共に協力を申し出ます。

その条件というのが、丁寧に祀るというものでした。

その神が祀られているのが、大和の三輪山です。

つまり、大国主が行った国つくりは、大和の三輪山もその範囲に含んでいたという事になります。

大和の地も、出雲王朝の勢力範囲だった事を示しているのではないでしょうか。


 『古事記』の記述では、大国主スサノオの六世の孫のはずなのですが、奥さんは、スサノオの娘さんなんですよね。
所詮、短命な人間如きには、理解出来ない世界なのでしょう。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 20 -神代 10-

日本書紀』創られた日本 20 神代についての話 10です。

 

 

誓約後のスサノオ

 前回は、アマテラスに謀反を疑われたスサノオが、誓約を提案した話でした。

 

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その結果から、『日本書紀』では男系を正統とする意図が有ったのではと考えました。

さて、その誓約の結果により謀反の心がないことを証明したスサノオですが、その後がいけません。

無実が証明された後に、暴れ回るという暴挙にでるのです。

何を考えているのか、全く意味不明です。

その結果が、岩戸の前で女神が踊るシーンでも有名な、天岩戸の話になります。

アマテラスが天岩戸にお隠れになって、世の中が暗闇になり神々も含めて皆困ってしまうお話ですが、『記紀』で大筋に違いは見られません。

無事、アマテラスが再びお出でになった後、その責を咎められ、スサノオは追放されてしまいます。

追放され、出雲に

追放されたスサノオは出雲の地に降ります。

そこでの話が、天岩戸の話と知名度では優劣が付け難い、ヤマタノオロチ退治の話です。

この話も、『記紀』で大きな違いは有りません。

ヤマタノオロチを退治することで、生贄にされるところだった娘を助けます。
その時にオロチから出て来た剣が、後に天皇家三種の神器として伝わる「草薙の剣」になります。

ちなみに、なぜ「草薙の剣」が天皇家に伝わっているかというと、ヤマタノオロチから出て来たものを、スサノオアマテラスに献上し、それが「天孫降臨」の際に地上にもたらされたのです。

追放したスサノオからのものを、簡単に受け取っていいのかという気もしますが、そういうことになっています。

さて、スサノオは助けた娘と結婚をし、その子孫が大国主命です。

その大国主命から「国譲り」を受け、その後の「天孫降臨」を経て、神武天皇以降へと繋がるという立て付けになっています。

大和政権は、神の時代から続く国を継承した、正統性のある政権だという事です。

古事記』にしかない話

 以上見てきたように、スサノオから始まる「国譲り」までの話は、『記紀』で大筋は似たものになっています。

しかし、『記紀』で大きく異なる部分も存在します。

それは、スサノオの子孫である大国主命に関するもので、「因幡の白兎」、「大国主の神話」、および「大国主の国づくり」の話です。

古事記』の神話およそ三分の一は、「出雲神話」なのですが、
日本書紀』ではほとんど触れられていません。

この違いには何か意味が有るはずです。


 次回は、この「出雲神話」について考えて見ます。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 19 -神代 9-

日本書紀』創られた日本 19 神代についての話 9です。

 

 

スサノオ追放される

 前回は、イザナギイザナミによる神生みについての話でした。

 

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神生みの最後に、有名なアマテラススサノオが生まれるのですが、その内容が『記紀』で異なり、『日本書紀』の方がより正統性に焦点を合わせた話になっているのではないかと考えました。

実は神生みの最後にはアマテラススサノオいギアにも二柱の神が生まれていたのですが、ここではアマテラススサノオに絞って話を続けます。

生まれた後、アマテラス高天原を治めることになります。

一方のスサノオは、これも『記紀』で話が異なるのですが、最終的に追放を言い渡されてしまいます。

アマテラスに会いに行く

  追放されることになってしまったスサノオは、最後にアマテラスに会おうと高天原に登っていきます。

それに対してアマテラスは、スサノオが攻めてきたと勘違いして、完全武装で足が地面にめり込む程に踏みしめ立ちはだかりスサノオに何をしに来たか問い詰めます(岩戸に隠れてしまったりするので勘違いしてしまいがちですが、意外と武闘派なアマテラスです)。

スサノオは、追放される前に話をしに来ただけで、謀反の心などないと答えます。

アマテラスは、「ならばそれをどうやって証明する」と、無いことの証明という若干無理筋な要求をします。

それに対するスサノオの答えが、「誓約(ウケイ)」をするというものでした。

誓約

 その「誓約」とは何かということなのですが、いまひとつよくわかりません。

スサノオの言葉を借りるなら、「誓約をして子供を生みましょう」といったことになるのですが、やはりよくわかりません。

とにかく2柱で誓約をおこなうことになります。

アマテラススサノオが持っていた剣を受け取り、三つに折り、噛み砕き、吹き出すと、3柱の女神が生まれます。 

次に、スサノオアマテラスの玉飾りを受け取り、噛み砕き、吹き出すと、5柱の男神が生まれます。

するとアマテラスが、5柱の男神は私の玉飾りから生まれたので私の子供、3柱の女神はスサノオの剣から生まれたのでスサノオの子としたのです。

勝ち負け?

 誓約は、もともとスサノオに謀反の心が無いことを証明するために行なわれたのでした。
証明されたのでしょうか。

古事記』では、「わたしの心は清らかで明るいものだから、生まれた子はか弱くやさしい女の子だった。私の勝ちだ」、とスサノオが勝ちを宣言します。

これも良く分かりませんし、いきなり勝ち負けの話になって唐突な感じが強いです。

これに対して『日本書紀』では、最初にスサノオが誓約を提案する時に、男の子が生まれたら清い心だと考えるようにするという条件を示します。

従って、男神を生み出したスサノオに謀反の心が無いことが証明されたという形になります。

男系

 スサノオから生まれ、アマテラスに引き取られた5柱の男神の内の「アメノオシホミミ」は、神武天皇の高祖父となります。

つまり、『古事記』では唐突感も有り曖昧となっていたものが、『日本書紀』では男系であることが明確にされたという事が言えそうです。

ここでも、アマテラススサノオの誕生に続いて、正統性に焦点が当てられ、さらにそれが男系であることが示されたということなのではないでしょうか。


 『古事記』の話を見ると、ひょっとしたら古代には女系であることに意味が有った、ということなのかもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 18 -神代 8-

日本書紀』創られた日本 18 神代についての話 8です。

 

 

国生みの次は神生み

 前回までで、多少寄り道はしましたが、天地開闢から国生み(古事記では、それに加えて島生み)までを見て来ました。

記紀』のいずれもこの後は、「神生み」の話になります。

イザナギイザナミが、国生みに続いて数多くの神々を生み出していきます。

古事記』では、「岩」、「砂」、「家の戸口」、「屋根」、「泡」、「水面」、「分水嶺」それぞれの神、といった八百万の神々の住む我が国の基になったかとも思える神々が生み出されています。

その最後の段階で生み出されたのが、よく知られた「アマテラス」と「スサノオ」の二柱の神になります。

古事記』の神生み

 基本的に『記紀』のいずれも、最後の段階で「アマテラス」と「スサノオ」の二柱が生まれてくるという点では違いはないのですが、その内容はかなり違っています。

イザナミが、火の神「カグツチ」を生んだ際の火傷がもとで亡くなってしまいます。

イザナギは、イザナミを取り戻そうと黄泉国へ赴きますが、見るなと言われたイザナミの姿を見てしまい、かないません。

イザナギが黄泉の穢れから身を清めると様々な神が生まれ、最後に「アマテラス」と「スサノオ」達が生まれたのです。

つまり、「アマテラス」と「スサノオ」は、イザナギイザナミの子供という事ではないことになります。

この「死者を取り戻すために冥界に赴く」というモチーフは、世界各地の神話に見られるもののようで、例えばギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケーの話などが有名です。

そういった観点で見ると『古事記』の話は、そんな言い方は適切かどうかはわかりませんが、人々の営みのなかで生まれた「神話らしい神話」という事が言えるのかもしれません。

日本書紀』の神生み

 それに対して、『日本書紀』では、イザナミが亡くなるという事は無く、当然イザナギが黄泉の国に赴くという事も有りません。

両神は、国生みが終わった後に、そのまま神生みを行い、最後に「アマテラス」と「スサノオ」等を生み出すという話になっています。

アマテラス」と「スサノオ」は、イザナギイザナミの子という事になります。

古事記』の神話らしい神話から、正統性というものを強く意識した神話に作り替えられたのです。


 やはり、亡くなった大切な人に会いたいというのは、人類永遠の願いなんでしょうね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 17 -神代 7-

日本書紀』創られた日本 17 神代についての話 7です。

 

 

今少し寄り道

 前回は、『日本書紀』の話から寄り道をして、狗邪韓国について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

結論としては、狗邪韓国は、倭の国ではあるが邪馬台国連合の構成国ではないと考えられるというものでした。

ということなのですが、狗邪韓国について調べている時に気になる情報を、そこかしこで見かけたのです。

今回は、今少し狗邪韓国関連で寄り道をして、その気になる情報について考えたいと思います。

弁辰狗邪国

 その気になる情報というのは、狗邪韓国と弁辰狗邪国が同じものだというものです。

これのどこが気になるのか説明するために、先ず弁辰狗邪国について見てみます。

狗邪韓国の名前が出て来た『魏志倭人伝』は、魏の正史である『魏志』の中の「倭人」について書かれたものという事になります。

その『魏志』には、その他の地域についても書かれていて、その中に「韓」についても記述が有ります(以下『魏志韓伝』)。

それによると、朝鮮半島南部を韓と呼び、馬韓辰韓弁韓の3つからなっていると書かれています。

その中の弁韓は12ヶ国に分かれており、その中の1国が弁辰狗邪国なのです。

という事は、弁韓の弁辰狗邪国と狗邪韓国が同じ国であるならば、狗邪韓国も韓の国という事になってしまいます。

狗邪韓国は、倭ではないのでしょうか。

南は倭と接す

 『魏志韓伝』によれば、韓について、「南は倭と接す」という記述も有ります。

さらに、12ヶ国の内の一つ「弁辰瀆盧国が倭と接する」とも有ります。

ここまでの韓についての記述をもう一度纏めると、

 1.韓は倭と接する
 2.韓の一部弁韓は12ヶ国から成り、その中に弁辰狗邪国、弁辰瀆盧国がある
 3.弁辰瀆盧国は倭と接する

となります。

これらの内容を見ると、明らかに弁辰瀆盧国と接する倭と弁辰狗邪国は別のものとして扱っています。

朝鮮半島南部には、弁辰瀆盧国と接する形での弁辰狗邪国ではない倭の存在が必要なことになります。

それが、沙都島(巨済島)に有ったと考えられる、狗邪韓国だとすれば整合性は有ることになります。

結果として、狗邪韓国と、弁辰狗邪国が同一ではないと言ってよさそうです。


 次回の更新は、正月の不摂生が祟っていなければ、1月4日の予定です。
どうぞ良いお年をお迎えください。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 16 -神代 6-

日本書紀』創られた日本 16 神代についての話 6です。

 

 

狗邪韓国

 今回は、直接『日本書紀』の内容には関係がないのですが、「狗邪韓国」について考えて見たいと思います。

その狗邪韓国については、国生み神話でその誕生が語られる大八島の一つ佐渡が、元々は朝鮮半島南部の沙都島、現在の巨済島であり、邪馬台国の時代に狗邪韓国が有ったのではないかとしました。

 

yokositu.hatenablog.com

そして、『魏志倭人伝』の記述から考えて、狗邪韓国も倭人の国だったのではないかとも、考えました。

ところが、狗邪韓国が倭人の国だとは思うのですが、『魏志倭人伝』の記述に少し気になる点が無いわけではないのです。

邪馬台国への旅程は、帯方郡を出発した後、狗邪韓国を経て、対馬壱岐と続いていきます。

その中で、対馬以降の国については、その行政形態、戸数等々様々な情報が記録されていますが、狗邪韓国には全くないのです。

この狗邪韓国に関しての記述に関する疑問について考えて見ます。

魏志倭人伝』に書かれている国

 『魏志倭人伝』に書かれている国の中には、狗邪韓国と同じようにほぼ国名だけという国が他にも出て来ます。

邪馬台国連合ともいうべき国々の内、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国等21ヶ国が、国名だけ記載されているのです。

さらに、邪馬台国の尽きるところである南に位置し、敵対する国として狗奴国が出て来ます。

男王がいて、卑弥呼と対立してしたことが語られますが、それ以上の詳細は有りません。

これらの記述を見ると、どうやら魏からの勅使が直接訪れなかった国に関しては、国名のみ、またはそれに準ずる記述になっていると言ってよさそうです。

しかし、狗邪韓国は旅程の最初に経由しているのです。

ますます謎は深まりました。

勅使の派遣先

 さて、『魏志倭人伝』は、魏から派遣された勅使の報告を基に書かれていると考えられます。

その勅使は、邪馬台国連合の朝貢に応じて、倭の中の勢力の一つである邪馬台国連合へと派遣されました。

結果として、その報告書は、倭の中の邪馬台国連合の位置付けと規模を報告するものになり、邪馬台国連合の中で直接訪れた国について詳細に報告する形になったという事なのではないでしょうか。

という事は、訪れているのにも関わらずほぼ国名しか書かれていない狗邪韓国は、倭の国ではあるが邪馬台国連合の構成国ではないという事になります。


 邪馬台国連合の影響力が朝鮮半島まであった、とは単純に言えないのかもしれません。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 15 -神代 5-

日本書紀』創られた日本 15 神代についての話 5です。

 

 

記紀』で違う部分が

 前回までの記事で、いわゆるイザナギイザナミによる国生みで生み出されたとされる大八島について見てきました。

国生み神話は、元々北部九州地域を中心とした倭人の勢力範囲が、どのようにして生み出されのかを示すものでした。

邪馬台国の一部が畿内に東遷した後に、その正統性を示す一環として、大八島の構成を合わせる形で置き換えたものだという話でした。

ここまでの話では、『記紀』で大きな違いは有りませんが、その後で異なる部分が出て来ます。

古事記』の国生み神話でのみ、大八島の後でさらにいくつかの島を生む話、「島生み」が語られるのです。

島生み

 『古事記』で語られる島生みでは、イザナギイザナミの二神は、大八島を生んだ後に続けて、六つの島を生んだとされます。

生まれた島は、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島の6つとなります。

これらの比定地を大八島も含めて地図で見ると、次のようになります。

引用元:イザナキとイザナミの国生み③/二柱の神は最初に生んだ淡道之穂之狭別の嶋(淡路島)を合わせて八つの島を生んだその総称とは?【古事記】 - ラブすぽ

見て分かるように、半分は瀬戸内海、残り半分は九州周辺という感じでしょうか。

これを、国生みの大八島の時と同じように考えるとどうでしょうか。

元々の島生みの6島は、やはり九州周辺に有ったと思われます。

そのうちの3島が、古事記に編纂された話が創られる時に、瀬戸内海の3島に置き換えられたのではないかと、言うことになります。

6島の別名

 島生みの6島には、「亦の名」という事で、以下のような別名が『古事記』に載せられています。

1.吉備児島 建日方別(たけひかたわけ)
2.小豆島  大野手比売(おおぬてひめ)
3.大島   大多麻流別(おおたまるわけ)
4.女島   天一根(あめのひとつね)
5.知訶島  天之忍男(あめのおしお)
6.両児島  天両屋(あめのふたや)

これを見ると、勿論証明は出来ないのですが、4,5,6の九州周辺にある島の別名は、いずれも「天」から始まっており、元々6つの島全てが「天」で始まっていたのではないかと想像されます。

無視できない島々

 瀬戸内海の3島は、東遷後に置き換えられたわけですから、その当時の大和政権にとって、置き換える必要のあった場所であったはずです。

そこは無視できない島々だったのです。

つまり、大和政権からすると無視できない勢力がいた場所だったという事なのではないでしょうか。

島を神と見立てての名前とされている別名にも、その辺りが反映されていると思われるのです。

例えば、吉備児島の建日方別(たけひかたわけ)は、吉備に「たけひこ」という名を持った人物が多く、そのことと関係が有るのではないかと考えられています。

当時の大和政権は、国生み神話を創る中で、これらの勢力を無視出来ない力関係だったということなのでしょう。

その後、『日本書紀』を編纂する頃には、そんな忖度をする必要が無くなり、「島生み」の神話も無くなったのです。


 瀬戸内海の3島は、いずれも交通の要衝ともいえる場所にあり、興味深いです。


ではでは

 

『日本書紀』創られた日本 14 -神代 4-

日本書紀』創られた日本 14 神代についての話 4です。

 

 

残るは、佐渡

 前回は、前回は、いわゆる国生み神話でイザナギイザナミにより生み出されたとされる大八島の内の隠岐について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 元々、宗像市沖の沖ノ島であったものを、東遷後に畿内中心の大和政権に合わせる形で、隱伎之島と置き換えたという事ではないかという話でした。

今回は、大八島のうち最後に残った「佐渡」について考えて見ます。

佐渡

 その佐渡ですが、ご存じのように新潟の沖合にあること、本州とはバランスが悪すぎること、北部九州を中心とする倭の一部とは考え難いことなどから、隠岐同様に東遷後に置き換えられたと考えられます。

とはいうものの、前回の隠岐に対する沖ノ島のように、直ぐに思い付くような島は見当たりません。

そのため、本州などと同様に、佐渡についても基となる場所は特定出来ないと考えていました。

ところが、次のようなものを見つけたのです。

 

引用元:磐井の乱と朝鮮半島情勢 | 古代の歴史

 

見てもらえば分かりますが、沙都島(巨済島)とあります。

ルビは振られていませんが、「さと」と読めそうです。

大八島の最後の一つは元々は、「沙都島」だったのではないでしょうか。

その読みに合わせて佐渡島を充てたと考えられそうです。

狗邪韓国

 ここまで国生み神話は、元来の倭人の勢力範囲がどのように作られたのかを説明した神話だったという事で、大八島の元々の場所を考えて来たわけです。

という事は、佐渡が沙都島(巨済島)であるならば、沙都島(巨済島)は倭人の勢力範囲だったという事になります。

さらに、上に挙げた地図を見てもらうと、沙都島(巨済島)は対馬の対岸ともいえる場所に位置していることが判ります。

この位置関係から一つの国が思い浮かびます。

魏志倭人伝』に出てくる「狗邪韓国」です。

邪馬台国を訪れるために帯方郡を出た使者が、朝鮮半島を南に東に旅して到着するのが狗邪韓国です。

その場所が、沙都島(巨済島)だとすればどうでしょう

「韓国」と付くので、現代の人間からすると韓人の国と思いがちですが、倭人の国だったのです。

そう考えると、『魏志倭人伝』の「その北岸の狗邪韓国に至る」という記述も納得がいくものになります。

「狗邪韓国」が、沙都島という島にあったわけですから、朝鮮半島本土との間は水面で隔てられており、それを「倭人の領域の北岸」と呼ぶのに違和感はありません。

さらに、その後に「七千余里」と初めて距離に関する表現が出てくるのも、単に朝鮮半島を移動した距離では無く、帯方郡から倭人の勢力範囲が始まる所までの距離を記したと考えることが出来そうです。


 そもそも、『魏志』の中の倭人のことについて書いてある『倭人伝』に出てくる国なので、当然倭人の国という事も言えるかもしれません。


ではでは

 
 

 

 

『日本書紀』創られた日本 13 -神代 3-

日本書紀』創られた日本 13 神代についての話 3です。

 

 

残るは、隠岐佐渡

 前回は、いわゆる国生み神話でイザナギイザナミにより生み出されたとされる大八島について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 『記紀』に語られる神話は、北部九州にあったと考えている邪馬台国が、畿内に東遷して来る時に持ち込まれたものをベースにしており、国生み神話については、元々倭の人々が住んでいた地の創成の話だったと考えました。

その仮説を基に、本州、九州、四国、淡路、壱岐対馬について見ました。

今回は、大八島の内で残る、隠岐佐渡の内の隠岐について考えてみます。

沖ノ島

 隠岐は、島根県の沖にある諸島で、位置的に北部九州を中心とする倭の一部とは考え難いものがあります。

そこで、これもまた東遷後に置き換えられたとすると、元はどこだったのか考えてみたます。

北部九州で、それらしい場所としてすぐに思い浮かぶのは、沖ノ島でしょう。

福岡県宗像市の沖合にある島で、島全体が宗像大社沖津宮御神体となっており、世界文化遺産にもなっています。

発掘調査によれば、縄文時代から人間の活動が見られることが判っており、倭の時代にもそれは変わらなかったと思われます。

また銅矛なども出土しており、古くから祭祀上の重要な地であったことも伺われます。

隱伎之三子島

 ところで、隠岐については『古事記』の中では、「隱伎之三子島」として出て来ます。

これは一般に、「おきのみつごのしま」と読まれているようです。

「おき」は「隠岐」だとすると、「みつご」というのはなんなのでしょうか。

直ぐに思い浮かぶのは、構成する島の数でしょうか。

隠岐隠岐諸島と呼ばれ、大きく「島前」と「島後」に分かれます。
主な島で見ると、「島前」は、「知夫里島、中ノ島、西ノ島」の3島から成り、「島後」は「1島(隠岐の島町)」のみとなっています。

 

引用元:史跡と伝説・絶景の隠岐諸島4島めぐり | 添乗員ツアーレポート|西遊旅行

「島前」と「島後」ならば「二子」でしょうし、個々の島で見れば「四子」で、どちらにしても「三子」にはなりそうも有りません。

宗像三女神の島

 先にも書いたように、現在の沖ノ島は島全体が宗像大社沖津宮御神体となっているのですが、その宗像大社沖津宮には、宗像三女神田心姫神(たごりひめのかみ)がまつられています。

三女神の一人がまつられているという事で、沖之「三子」島というのが元々の場所名だったのでしょう。

それを東遷後に畿内中心の大和政権に合わせる形で、「隱伎之三子島」と置き換えたという事なのではないでしょうか。

 

 「三子」については女神が関係してものなので外せなかった、というようなことでもあったのでしょうか。

 

ではでは