横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

紫式部はいつ源氏物語を書いたか

 「源氏物語」第一部の書かれた時期についての話です。

 

 

藤原道長の不可解な行い

 「紫式部日記」に、次のようなくだりがあります。

 

局に物語の本ども取りにやりて隠しおきたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて、みな内侍の督の殿にたてまつりたまひてけり。

 

引用元:紫式部日記 (渋谷栄一校訂) - Wikisource

 

 

 一般的に、道長紫式部の部屋をこっそり探して、隠しておいた物語を持ち出し、「内侍の督の殿」妍子(道長の二女)に渡した、と解釈されています。

物語は、「源氏物語」と考えられています。

このくだりの少し前に、藤原公任紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた話が出て来ます。

それほど、人口に膾炙した物語を、道長ほどの地位と権力を持った人物が、娘のために手に入れるのは、それほど困難だったとは思われません(というか、私の考えでは、道長が広めたんですけどね)。

ましてや、紫式部の部屋から、こっそりと持ち出す必要は、全く無かったはずです。

道長は、なぜそんなことをしたのでしょうか。

第一部二系統説

 源氏物語」第一部が、現在読まれているような順序ではなく、紫上系と玉鬘系の、二系統からなっているとする説があります。

二系統は次のようになります。

紫上系17帖
桐壺、若紫、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標、絵合、松風、薄雲、朝顔、少女、梅枝、藤裏葉

玉鬘系16帖
帚木、空蝉、夕顔、末摘花、蓬生、関屋、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸藤袴、真木

二系統の関係については、

  • 紫上系の巻だけをつなげても、光源氏が栄華を極めるところで終わる物語として読める。
  • 紫上系の登場人物は、紫上系・玉鬘系のどちらの巻にも登場するのに対して、玉鬘系の登場人物は玉鬘系の巻にしか登場しない。
  • 玉鬘系は、源氏物語全体のストーリーと絡まないという短編的・外伝的性格を持つ。

等のさまざまな理由から、まず紫上系が執筆され、玉鬘系はそのあとに、一括して挿入されたものである、とする説があります。

道長の持ち出したもの

 そうであるならば、道長が、紫式部の部屋からこっそり持ち出したものについて、一つの仮説が浮かび上がります。

先ず、紫式部は、宮中に出仕する前に、紫上系17帖を完成していたと考えます。
元々は、これが「源氏物語」だったのです。
それを、道長が読んで、外戚としての権力を知らしめることに、利用出来ると考えた訳です。

そして、出仕した後に、玉鬘系16帖を書いたのではないでしょうか。
中宮彰子に、新たな光源氏の話を求められたか、ひょっとしたら、懐妊した中宮彰子のために書いたという可能性もあるかもしれません。

いずれにしても、玉鬘系16帖の出来上がったのが、道長が忍び込んだ直前の時期だったと考えれば、色々と符合しそうです。

つまり、道長の持ち出したものは、出来上がったばかりの、玉鬘系16帖だったのです。

持ち出した話のすぐ前の部分で、出産の終わった中宮彰子が、内裏に帰る前に、物語の御冊子を作る様子が出て来ますが、この物語も出来上がったばかりの、玉鬘系16帖だと思われます。


 中宮彰子は、この時の経験があったので、後に、紫式部の娘大弐三位に、第二部、第三部を書かせることを思いついたのかもしれません。


 ではでは

 

大弐三位は誰に頼まれたのか

 「源氏物語」第二部、第三部(以下後編)を書かせたのは誰かという話です。

 

 

もう一つの可能性

 以前の記事で、「源氏物語」後編は、異母兄弟の頼通が摂政になったことに対抗して、その権威を減ずべく、藤原能信大弐三位に依頼したのではないかと考えました。

ここで訂正を一つ。
同記事の中で、「女院彰子を通じて一条院に披露すれば」、と書きましたが、大弐三位が出仕した時には、一条院はすでに亡くなっていますので、これはあり得ませんでした。

 

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その後、説を補強するための情報を求めて、あちこち調べていて、依頼者に関して、もう一つの可能性が有ることに思い至りました。

それは、大弐三位が女房として仕えた、女院彰子です

女院彰子

 女院彰子は、藤原道長の長女です。

藤原道長については、別の記事で、「源氏物語」第一部を、自らの権力を知らしめるために利用したと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その道長の長女である彰子が、父親の権威を貶めるような内容の「源氏物語」後編を、書くことを依頼する可能性はあるのでしょうか。

彰子と道長の関係に、ヒントが有りました

道長と彰子

 彰子は、一条天皇の后となります、その時すでに、一条天皇には、后の定子(道長の兄藤原道隆の娘)がいました。

定子が第一皇子敦康親王(あつやす しんのう)を残して亡くなります。
そのため、彰子が敦康親王を引き取り、養育することになりました。

その後、彰子も、第二皇子敦成親王(あつひらしんのう)、第三皇子敦良親王(あつながしんのう)を生みます。

一条天皇が、三条天皇に譲位すると、敦成親王が皇太子となりました。
彰子からすれば、自分が産んだ子が、皇太子となった訳です。

彰子にとって喜ぶべきことの筈ですが、一条天皇が、第一皇子・敦康親王を推していたことを知っていた上に、同親王を我が子同然に養育したこともあり、敦成親王立太子を後押しした、父道長を怨んだとする話も残っているようです(「権記」)。

以上の事から、彰子が、意趣返しとまでは言いませんが、父道長を困らせようとして、出仕した大弐三位に頼んだ可能性は考えられると思います。

そうだとすると、大人気ないとも思えますが、実は、敦康親王を引き取ったのが彰子13歳、敦康親王2歳、敦成親王立太子は同23歳、12歳の時のことなんですよね。
判らないではないです。

女院彰子が依頼したとなれば、出来上がった「源氏物語」後編を、宮中に披露するのは、難しくなかったはずです。


  藤原能信女院彰子の二説を比べると、彰子の説に分があるような気がして来ました。


  ではでは

 

 

 

 

 

 

ヴァイオリンのコンクール

 ストラディバリウスについての話です。

 

 

ヴァイオリンのコンクール

 TVでヴァイオリンコンクールのドキュメント番組を見ました。

コンクールと言っても、よくある演奏者のものではなく、新作のヴァイオリンそのもののコンクールでした。

こんなコンクールが有るんだと思いながら見ると、イタリアのクレモナで3年に1回開かれる、A.ストラディバリの名を冠した、世界的弦楽器コンクールの話でした。

そう、あの、クラシックに興味がない人でも、名前だけは知っているであろう、ストラディバリウスの製作者の名を冠したコンクールです。

ちなみに、イタリアのクレモナに、A.ストラディバリの工房があった事にちなんでいるようです。

ストラディバリウスは名器

 チョットややこしいんですが、楽器の名前がストラディバリウスで、製作者の名前がストラディバリだそうです。

それはともかくとして、ストラディバリウスと言えば、ヴァイオリンの名器という事になっています。
トンでもない金額で取引されたとか、手に入れるために、自宅を売ってしまったとか、色々な話が聞こえてきます。
これをもって、弦楽器製造の頂点に達したと考える見方もあるようです。

そうは言われても、音楽的センスの乏しい、へそ曲がりとしては、本当かよと思ってしまうんですよね。

名器と言われている、ストラディバリウスだから、素晴らしいという理由を、色々と考えているんじゃないのと。

客観的な評価

 へそ曲がりをぎゃふんと言わせるためにも、客観的な評価を行うというのはどうでしょうか。

これまでにも、何度か、ストラディバリウスとそれ以外のヴァイオリンを、極力評者には、どれなのか判らないようにして、評価を行うといったことが行われたようです。

しかし、そういった方法では、どれなのか判らないにしても、評者は、ストラディバリウスが有ることが分かっているわけで、どうしてもバイアスを排除しきれない、と思うんですよね。

そこで、この話の始まりとなった、ヴァイオリンのコンクールを利用する方法を考えてみました。

件のコンクールは、新作のヴァイオリンを審査するものですが、そこに、ストラディバリウスを新作と言って出品するのです。

経年変化による古色はある訳ですが、「そのあたりも、完全に再現することを目指しました」、とか言って、売り文句にすれば、怪しまれずに済むんじゃないでしょうか。
まさか、ストラディバリウスが出品されるとは、考えもしないでしょうから。

で、普通にコンクールの審査を受け、結果やいかに、という訳です。

これならば、人間のやることなので、完璧とはいかないまでも、比較的客観的な評価が得られそうですよね。

ストラディバリウスをポンと買える、お金持ちの方、どなたかやってみませんか。


 音楽の授業が一番嫌いだったへそ曲がりが、いちゃもんを付けているだけですので、悪しからず。


 ではでは

 

更級日記を忘れていました

 「更級日記」と、「源氏物語」の書かれた時期についての話です。

 

 

道長の死んだ後では矛盾が

 源氏物語の謎(後編)で、「源氏物語」第二部、第三部の公になったのは、権力者藤原道長の無くなった1028年より後ではないかと書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

が、これは、結論を焦ったチョンボでした。

というのも、それでは、菅原孝標女による「更級日記」に出て来る、「源氏物語」に関する話と矛盾してしまうからです。

更級日記源氏物語

 「更級日記」に、父・菅原孝標に従って、任地の上総より京に帰国した翌年に、源氏の五十余巻を手に入れるくだりが出て来ます。

菅原孝標が帰国したのは、1020年なので、菅原孝標女が源氏の五十余巻を手に入れたのは、1021年のことになります。

つまり、源氏物語」は、1021年の時点で全て出来上がっていたことになる訳です。

ところで、「更級日記」は、いわゆる毎日書いた日記ではなく、菅原孝標女が、後年その人生を振り返って書いたものとされており、手に入れたくだりは、40年以上昔のことなので、その正確性に疑問が無いわけではありません。

しかし、物語を読みたくてしょうがなかった少女時代に、やっと手に入れた源氏の五十余巻に関する記憶は、鮮烈だったと思われ、何年もの単位で間違っているとも思えません。

やはり、道長の亡くなる前に、「源氏物語」は存在していたようです。

大弐三位はいつ書いたのか

 そうなると、「源氏物語」第二部、第三部を、大弐三位が書いたとすると、いつ書いたのでしょう。

実は、道長は、生前の1017年に、嫡男の頼通に摂政を譲っています。

一方、大弐三位は、同じ1017年に、母紫式部の後を継ぎ一条院の女院彰子の女房として出仕しています。

この状況で、異母兄弟の頼通が摂政になったことに対抗して、その権威を減ずべく、藤原能信大弐三位に依頼した可能性が考えられます。

大弐三位は、1017年から1021年の間に書いた事になります。

摂政を退いたとは言え、まだまだ権力を掌中にしていた道長ですが、大弐三位が、書いたものを、女院彰子を通じて一条院に披露すれば、異を唱えることは出来なかったのかもしれません。

ちなみにこの時、大弐三位は18~21歳の時期でした。


 紫式部の生年に関しては諸説あるようですが、一説によると、23歳ごろから、「源氏物語」を書き始めたことになるようです。
全く、遺伝のなせる業なのか、驚くべき親子だという事になります。


  ではでは

 

源氏物語を書いたのは誰か

 源氏物語の作者に関して考えてみた話です。

 

 

与謝野晶子の二部作説

 前の記事で、紫式部は、「源氏物語」の第一部のみを書いた、と考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

すると必然的に、残りの第二部、第三部は誰が書いたのか、という事になります。

これに関して、「源氏物語」の現代語訳を三度試みた与謝野晶子が、「若菜」以降の全巻が、別人の作であるとする、二部作を提唱しています。

前記事で、「源氏物語」が書かれた当時の政治状況と物語の内容から、第一部(前編)と第二部、第三部(後編)の作者が異なる、と考えました。

与謝野晶子は、文学者としての観点で、その内容、筆致の違い等から二部作だと考えたようです。

後編の作者

 さらに、与謝野晶子

前編の作者に拮抗して遜色のないこの後の作者は誰であろうか。一読して婦人の筆であることから、当時の女歌人のなかに物色すると、古人の言ったように、大弐三位が母の文勲を継いだのであろうと想像するほかに、その人を考え得ない。
 引用元:pearlyhailstone: 与謝野晶子「紫式部新考」

と、後編の作者の正体については、紫式部の娘大弐三位だと考えたようです。
ちなみに、「古人の言ったように」、というのは、「宇治十帖」が大弐三位の手によるものでは無いか、と言われていたことによります。

後冷泉天皇東宮時代にしばしば宇治に行啓したのに、御乳母の大弐三位がお供をして行き、宇治をよく知っていたはずだというのも、傍証になると考えたようです。

この大弐三位説は、当時の政治状況から見て、どうなんでしょうか。

当時の政治状況

 「源氏物語」第一部を公にした摂政藤原道長の後を受けて、長男の藤原頼通が摂政となり、その後関白に任ぜられます。
さらにその弟藤原教通も、摂政、関白となります。

まさに、藤原北家による摂関政治の全盛期でした。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」
道長が、詠んだりしました。

それほどの権力は、「一家立三后、未曾有なり」と言われたように、娘を天皇の后とし。皇太子をもうけることにより、外祖父となることに拠っていました。

しかし、道長の子、頼通、教通ともに、娘を后としますが、皇太子をもうけることが出来ずに、次第に力を失う事になります。

対抗勢力

同時期に、頼通、教通の異母兄弟で、母の違いから不遇をかこっていた藤原能信が、尊仁親王(のちの後三条天皇)の後見人になっています。
尊仁親王は、生母が藤原家ではありません。
つまり、能信は、頼通、教通と対立関係にあった訳です。

その後、後三条天皇とその子の白河天皇による親政とその後の院政により、摂関政治は終わることとなります。

以上のような状況の中で、能信が、頼通、教通に対抗する方策の一環として、同じ藤原北家の出である大弐三位に、「源氏物語」第一部への反論としての続編を依頼したという事は、あり得る話だと思います。

大弐三位紫式部の娘という点も、続編を公にし易いと考えたかもしれません。(あの紫式部の娘が書いた続編です、といった感じで。)

また、大弐三位自身にも、与謝野晶子が書いているように、母の文勲を継ぎたい、という思いがあったのかもしれません。


ということで、政治状況から考えても、「源氏物語」の作者は、第一部紫式部、第二部、第三部大弐三位、の可能性が有るという結論になりました。

 


 しかし、紫式部藤原北家の出だという事を考えると、全ては藤原北家の中での話とも言えるわけで、恐るべし藤原北家というところでしょうか。


 ではでは

源氏物語の謎(後編)

 今回は、源氏物語に関する疑問についての話(後編)です。

 

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成立前

 紫式部は、夫の死後、「源氏物語」を書き始め、その文才を認めた藤原道長に召し出されて、一条天皇中宮の彰子に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。

源氏物語」の成立に関しては、諸説はあるが、概ね以上のように考えられているようです。

なお、中宮彰子は藤原道長の娘です。

藤原道長は、ただ単に紫式部の文才を認めて、娘の女房に召し出した訳ではなく、彼女が書いていた「源氏物語」が利用できると考えたのではないかと思います。

第一部のテーマ

 「源氏物語」は、通常以下の3部構成と考えられています(異論も多くあります。)。
  第一部 第一帖 桐壷から、第三十三帖 藤裏葉まで
  第二部 第三十四帖 若菜から、第四十四帖 竹河まで
  第三部 第四十五帖 橋姫から、第五十四帖 夢浮橋まで(いわゆる宇治十帖)

第一部の内容は、光源氏の華麗な女性遍歴をあえて無視すれば、彼が栄華を極める物語という事が出来ると思います。

問題は、その栄華の極め方に有るのです。

光源氏は、桐壷帝(父でもある)の寵愛する女御桐壷と密通をして、不義の子をもうけてしまう。
その子は長じて、冷泉帝となります。
その冷泉帝により(彼は、光源氏が父だという事を知っています。)、光源氏は、准太上天皇位を贈られて、栄華を極めることになるのです。

后との不義の子が天皇になって、本当の父親が栄華を極める、という内容の物語を利用する事によって、藤原道長は、天皇の権威の相対化、ひいては外戚としての自らの権威、を知らしめたのだと思います。

第二部、第三部による反論

 第二部と第三部は、上記のような第一部を突き付けられた、天皇側からの反論だったと考えます。

その内容は、ポイントのみ書けば、
 第二部 光源氏の後半生を描く。妻が不義の子 薫を産んでしまう。
 第三部 不義の子 薫の話。愛する者の密通を咎め、失ってしまう。
と、第一部の光源氏の行為の裏返しを思わせるもの、となっています。

つまり、天皇の権威をないがしろにすると、因果応報により、自らのみか子孫までも幸せになる事は出来ない、という事を示している訳です。

成立後

 ということで、紫式部が書いたのは、第一部だけだったと思います。
紫式部日記」にある1008年時点では、第一部だけが完成していたという事になります。

第一部を公にすることが出来るほどの権力が有る(何しろ、天皇の后が不義の子を産んでしまう話、ですから。)、藤原道長の存命中は、その力関係から、天皇側も公然と反論出来なかったと思われます。

そのため、第二部と第三部が公になったのは、藤原道長の亡くなった1028年以降だったと考えられます。
そして、その反論が公になった後に、「浜松中納言物語」、「狭衣物語」、「夜半の寝覚」などが書かれることになります。

当然、このあたりの状況は、「源氏物語」の発表当時の宮中の女性達も理解していた、と考えられます。
同時代の女性達は、「源氏物語」が権力闘争の道具として使われている中で、同じような物語を書くことは出来なかったという事です。

 

 最初に第一部みたいのを書いちゃうという事で、紫式部がすごいことに変わりはないんですけどね。

 

 ではでは

 

 

 


 

 

 

 

 

源氏物語の謎(前編)

 今回は、源氏物語に関する疑問についての話(前編)です。

  

 

源氏物語の評価

 「源氏物語」と言えば、おそらく、誰もがなんとなく内容を知っているけど、ちゃんと読んだことのない本のランキングでは、間違いなく上位にランクされるに違いないですよね。

私も、何度かトライしては、挫折を繰り返し、あらすじだけで読んだ気になっている口です。

その「源氏物語」ですが、現代においては、「世界最古の長篇小説」(異論はあるようですが)の傑作として、翻訳が海外にも紹介され、世界的な評価を受けています。

もちろん、54帖からなる長編が、成立した平安時代から今に至るまで伝わっていることから、書かれた当初から、ある程度の評価を受けていたことは間違いないと思われます。

そのことは、作者とされる紫式部の「紫式部日記」の1008年の記述に、敦成親王後一条天皇)の誕生祝いの宴で、藤原公任紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた、とあることからも裏付けられる、と考えられています。

紫式部に「源氏物語」のヒロインの一人の名前で話しかける程、宮中の人間にも知られていたという訳です。

ちなみに、このことをもって、1008年には「源氏物語」が出来上がっていた、と考えられています。

またその評価が高かったことは、同じ平安時代に「源氏物語絵巻」が作られたことからも明らかでしょう。

当時の宮中

 紫式部が「源氏物語」を書いた当時、宮中には、後宮の后に仕える女房達をはじめとして、中流貴族の娘が出仕することが多かったようです。

彼女たちは、当然教養も高く、結果、当時の宮中には、当代の女流の文学的才能のかなりの部分が集まることになっていた、と考えられます。

例えば、紫式部が、藤原道長の娘の中宮彰子に仕えていた同じ時期に、和泉式部赤染衛門などが、少し前に清少納言が、後宮にはいました。

そういった状況の中で、「源氏物語」が書かれ、評判を取った訳です。

評判が高かったのに

 それに対して、宮中の少なくない数の才能ある女性が、「この手があったか」と考えたに違いないと思うのです。

漢詩でも、和歌でも、そして日記でもない表現方法に出会ったわけです。

それこそ、雨後の竹の子のように、似て非なる作品が生み出されてもおかしくは無いですよね。

それなのに史実では、そのような様子は見られないのです。
なぜ、彼女たちは、物語を書かなかったのでしょう。

源氏物語」の影響を受けたと考えられているものが、全く無い訳ではありません。
「浜松中納言物語」、「狭衣物語」、「夜半の寝覚」などが上げられますが、いずれも11世紀後半以降のものです。
源氏物語」の成立は1008年以前ですので、2世代程の隔たりが有る訳です。


 私は、同時代の女性たちは、書かなかったのではなく、書けなかったのだと考えているのですが、その話は、後編で。


 ではでは

 

クフ王の大ピラミッドに見つかった、謎の空間の正体

 クフ王の大ピラミッドに見つかった、謎の空間の正体についての話です。

 

 

謎の空間

 かなり旧聞に属しますが、2年ほど前に、クフ王の大ピラミッドに謎の空間を見つけたと、名古屋大などの研究グループが、発表しました。

宇宙から降り注ぐミュー粒子を使って、レントゲン写真を撮るように(レントゲン程鮮明ではないみたいですが)、ピラミッドを撮影したところ、大きな空間とみられるものが写っていたというものでした。

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 画像引用元:崩落防ぐ工夫?王のミイラ眠る? ピラミッド、謎の空間

 発表以来、クフ王の玄室でミイラが眠っている、を始めとして様々な説が考えられています。

私も、仮説を思いつきました。

建築家の考えた大回廊の正体

 上の画像に、王の間と、重量軽減の間というのが有るかと思いますが、ここを構成している石材は、重いもので60トンと言われています。

これ程大きな石を、どうやって運び上げたのかは、一つの謎です。
ちなみに、ピラミッドに積み上げられている石の平均的な重さは2.5トンと言われています。

フランス人の建築家、ジャン・ピエール・ウーダンは、これに大回廊が使われたと考えました。

現代のエレベーターのように、釣合いおもりを使って60トンの物を持ち上げたのではないか。
そして、そのおもりが、大回廊の中を上下していたのではないかと考えたのです。

模式図を挙げます

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画像引用元:ピラミッドの建造方法|古代文明の謎

 大回廊自体も、何のためのものか、議論のあるものですが、建築家らしい説で、なかなか説得力のある案だと思います。

謎の空間の正体

 なかなかの案ではあるのですが、問題もあります。
上の図でもわかるように、王の間、その上の重力軽減の間と、大回廊の位置関係を見ると、王の間はともかく、重力軽減の間の石材を運び上げるには、無理があるように思えます。

今回発見された謎の空間は、最初の図を見ると、赤くはっきりと書いてありますが、実際に分かっていることは、
  長さは最低でも30メートル
  水平か斜めかは不明
  位置は大回廊の上
  断面形状は分からないが、面積としては大回廊と同程度
とのこと。

これは、素直に考えると、大回廊の上にもう一つ大回廊が有ると、言っているように思えますよね。

という事で、私の仮説は、謎の空間は、もう一つの大回廊であり、重力軽減の間の石材を運び上げるために使われた、というものです。

現在発見されている大回廊の長さは、47.84メートルです。
謎の空間の長さは、30メートル以上と、少し短いように思えますが、これは、使い終わった釣り合いおもりを、そのまま最下部に残したために、短く写ったのだと考えれば、符合しそうです。


 残念ながら、謎の空間には、埋葬品も、王のミイラも無いことになります。


 ではでは

 



 

邪馬台国東遷説と日本書紀(後編)

 邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで解釈をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(後編)です。

邪馬台国東遷説、ついては、下の記事を、ご覧ください。

 

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豊臣秀吉朝鮮出兵と広開土王碑における倭

 豊臣秀吉朝鮮出兵は、1592年から1598年に行われました。現代から見ると、約400年前の出来事になります。

 以前の記事で、東遷後に、亡命者の意を汲み、朝鮮半島北部の覇権回復を目的に、半島に進出した事が、広開土王碑に記録されていると考えました。

 

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それが、391年から404年のことです。
これは、「日本書紀」の完成した720年から見れば、約300年前の出来事という事になります。

つまり、当時の人々にとって、400年前後の半島進出は、現代の我々が、豊臣秀吉朝鮮出兵に関して知っているのと少なくとも同程度に、当時の国の規模を考えれば、それ以上に知られていた出来事だったはずです。

神宮皇后と三韓征伐

 という訳で、最終的には高句麗に負けた訳ですが、半島進出に関して、「日本書紀」から外す訳にはいかなかったのだと思います。

そこで、作られたのが、神功皇后三韓征伐の話だったと考えられます。

三韓征伐と言われていますが、実際に攻めたのは新羅のみです。
これは、百済とはほぼ戦っていない、広開土王碑の記述に比較的符合します。

ただ、さすがに高句麗に負けたとは書けずに、高句麗朝貢を約したと、都合のいい表現になっています。

しかし、なぜ、例えば夫の仲哀天皇の事績ではなく、神功皇后なのでしょうか。

卑弥呼神功皇后

 前編で、邪馬台国卑弥呼が出てこない経緯を、考えましたが、

 

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日本書紀」の編者にとって、魏志倭人伝もまた、無視出来ないものだったと考えられます。
それは、その内容が、魏志以降の多くの歴史書に引用されているからです。

そこで、三韓征伐を女性の神功皇后の事績とするとともに、時代を魏志倭人伝に合わせ、さらにその治世の記事中に魏志を引用することで、神功皇后卑弥呼の関係を匂わすという、アクロバティックな方法を取ったのです。

一例をWikipediaから引用します

神功皇后摂政39年(239年)
魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」
(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)

 引用元:神功皇后 - Wikipedia

 

見てお分かりのように、倭の女王となっており、邪馬台国卑弥呼も出てきません。
出てこないけれども、卑弥呼に相当する女性、神功皇后はいましたよ、と苦しい言い訳ともいえる形に成っている訳です。

いわゆる、玉虫色の決着を図った訳です。

倭の五王

 倭の五王に関しては、「日本書記」に記述はありません

これは、その遣使の内容が、中国の権威を借りることが目的であった事と、魏志倭人伝ほど歴史書に引用されていないことから、無かったことにされたのだと思います。

ただ、応神天皇以降の事績に、呉国とのやり取りが何回か出てきます。

三韓征伐より後の年代ということと、呉国が中国南部を指すと考えられることから、これが、倭の五王に対応するのかもしれません。

ただし、朝貢した事にはなっていません。

  
 神功皇后の話は、よくぞここまで無理くり考えたといった感がありますが、書紀講筵ではどのように説明されたんでしょうね。


 ではでは

 
中編はこちらになります。

 

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邪馬台国東遷説と日本書紀(中編)

 邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで解釈をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(中編)です。

邪馬台国東遷説、ついては、下の記事を、ご覧ください。

 

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国造り、国譲りって、変?

 前編で、神話自体は、全くの創作という訳ではなく、元々九州にあった天孫降臨神話をベースにしたと思う、と書きました。

 

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その中で、国造り、国譲りの話はちょっと変だなと思うんですよね。

国造り、国譲りの話は、ざっくり言うと、大国主(おおくにのぬし、「日本書紀」では大己貴命(おおあなむち))が葦原中国(あしはらなかくに、地上世界)の国造りを完成させ、天照大神(あまてらすおおかみ)などがいる高天原の神が譲りうけたという話です。
国譲りは、葦原中国平定とも言われます。

その後、譲りうけた葦原中国に、天孫降臨することになります。

天孫降臨なのに、降臨する前に、その地を平定するなんておかしいと思いません?
降臨する前に、降臨して平定しているわけですよね。

国造り、国譲りって、何?

 大国主は国造りを行い、出雲まで至った後、残りの国造りを協力しようと申し出た神がいた、それが大三輪(おおみわ)の神です。

大三輪の神が鎮座したのは、三諸山(三輪山でした。
三輪山と言えば、その北西麓に有るのが纏向遺跡です。

これは、出雲地方の王朝が、宗教を含め、大和地方にも勢力を伸ばしたことを示していると思います。
そして、その中心が纏向遺跡の地だった。

纏向遺跡の地に関しては、以前の記事で、東遷した邪馬台国に征服されたと考えました。

 

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つまり、国造り、国譲りは、纏向遺跡の地の征服に関連した事を示しているのだと考えられます。

国造り、国譲りって、禅譲

 とするならば、なぜ神武東征の事績として書かれていないのでしょうか。

出雲は、纏向側が助けを求めたでしようから、当然参戦したはずです。

日本書紀」にも、平定のために派遣した神が、一人目は3年、二人目は8年たっても戻らなかったとの話があるので、長期の争いがあったと考えられます。

この争いで、出雲を完全に征服したのでないことは、大国主が今でも出雲大社に祀られていることから明らかで、何らかの形で停戦協定が結ばれたと考えられます。

また、「出雲風土記」に国譲りの話がないことから考えても、国譲りの実態は、東遷した邪馬台国による纏向遺跡の地の征服だったと考えられます。

纏向遺跡の地の征服と、出雲との停戦協定を、出雲王朝から大和王朝への禅譲だとするために、国造り、国譲りの話を、天孫降臨の前に入れ込んだのだと思います。

それにより、禅譲により国を譲られた後に、子孫の神武天皇が現在の王朝の始祖になったという筋立てにすることが出来、革命による禅譲を世界観とする中国に、正当性を示すことが出来ると考えたのでしょう。


 もっとも、正史の本家である中国には、「ああ禅譲ですね、なるほどね」と、違った意味で了解されたと思うんですけどね。


 ではでは


 

 

邪馬台国東遷説と日本書紀(前編)

 邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで話をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(前編)です。

邪馬台国東遷説については、下の記事を、ご覧ください。

yokositu.hatenablog.com

 

 

紀元2600年

 1940年( 昭和15年)に神武天皇即位紀元2600年を祝って記念行事が行われました。
これは、「日本書紀」の各天皇の即位年を順に遡ることにより、初代神武天皇の即位が、西暦紀元前660年となり、そこから2600年経ったことを記念したものです。

西暦紀元前660年は、中国ではの時代です。
つまり、日本は中国の周と同時代から続く正当な王朝で有ることを示して、朝貢ではなく、対等な関係になることを目指すことが、「日本書紀」が書かれた一つの理由だったと考えられます。

そのため、「日本書紀」は漢文で書かれているのでしょう。

なぜ邪馬台国も、卑弥呼も出てこないのか

 邪馬台国が東遷して大和政権になったと考えたときに、その正史たる日本書紀」に、なぜ邪馬台国も、卑弥呼も出てこないのかが、最大の問題点と言えるでしょう。

それには、上記の「日本書紀」が作られた意図が関係していると、考えています。

中国と対等な関係を目指す意図で作られた歴史書に、五胡十六国の混乱を避けるために、亡命者と共に東遷した国と、その初代女王の話は入れる訳にはいかなかった訳です。

天孫降臨神話

 とは言っても、当時の人々は、大和王朝が九州からやって来たことを、多かれ少なかれ知っている訳です。

一方で、「日本書紀」は国内に向けての、政権としての公式見解でもあった訳です。
その公式見解を作るにあたって、東遷の事実を、無かったことには出来なかったと思われます。

そのために導入されたのが、天孫降臨神話だと考えられます。

九州時代を全て神話とした上で、その神々の子孫である神武天皇が東征して、今の王朝を開いたことにした訳です。

神話自体は、全くの創作という訳ではなく、元々九州にあった天孫降臨神話をベースにしたと思います。
その方が、九州には、高千穂などの伝承地がある訳で、それなりの説得力を付与することが出来、好都合だったのだと考えられます。


 天照大神卑弥呼だというのは、考えすぎではないかと思います。

 

 ではでは

 

 

纏向遺跡は邪馬台国か

 纏向遺跡邪馬台国の関係を考えてみた話です。

 

 

纏向遺跡とは

 纏向遺跡は、奈良県桜井市にある遺跡で、

  弥生時代末期から古墳時代前期にかけてのものである。
  東西約2キロ、南北約1.5キロという、当該時期では類をみない規模である。
  遺跡内に箸墓古墳があり、卑弥呼の墓の可能性がある。
  祭祀用具が多く出土。
  他地域で作られた土器が多く出土する。
  軸線と方位を揃えた3棟の掘立柱建物を代表とする、多数の建物群。

等から、邪馬台国ではないかと考えられています。

東遷した邪馬台国なのか

 邪馬台国東遷説を踏まえて、纏向遺跡邪馬台国なのか、考えてみました。

先ず前提として、東遷は、卑弥呼の死後4世紀に起こったと考えており、卑弥呼の墓が畿内に有ることは考えられませんので、箸墓古墳卑弥呼の墓ではありえないことになります。

その上で最初は、東遷した邪馬台国が、畿内に作った国の跡が、纏向遺跡だと考えました。

しかし、良く調べると、それには次のような矛盾が有ることが分かってきました。

纏向遺跡が存続した、弥生時代末期から古墳時代前期というのが、より正確には、3世紀初めから4世紀中頃までのことであり、4世紀と考えている東遷以前から存在し、東遷中に無くなったことになります。

つまり、纏向遺跡は東遷した邪馬台国ではあり得ません

無関係なのか

 しかし、纏向は、その規模、建物群、広範囲な地域からの土器、多くの祭祀道具などから、当時の畿内における、宗教的色彩の強い中心的存在だと考えられ、東遷するにあたって無視はできなかったでしょう。

それどころか、ここを押さえることが重要だと考えたと思います。

ということで、纏向遺跡は、4世紀に入り、東遷してきた邪馬台国に征服されたと考えます。

東遷してきた邪馬台国はどこに

では、4世紀中頃以降に、使用された痕跡が見られないことを、どう考えるかということですが。
他宗教の中心的存在であったところを使用することを、避けたという事ではないでしょうか。

そうは言っても、纏向周辺は、その当時の畿内において中心となる地域であったと考えられる訳で、新たな都を築くに都合のいい場所でもあるはずです。

といったことを考えながら、それらしいところは無いかと探してみたところ、ありました。
日本書紀に、東征を行った天皇として記されている神武天皇の、宮(畝傍橿原宮)があったとされる橿原神宮です。
纏向遺跡から南西に10キロ弱の位置です。
橿原神宮のあたりが、東遷した邪馬台国だったと思います。


 纏向遺跡から近い橿原神宮周辺が、神武天皇の宮の伝承地であった事は、決して偶然ではないと思います。


 ではでは

広開土王碑における倭と、倭の五王の事績

 邪馬台国東遷説から見て、広開土王碑における倭と、倭の五王の事績を解釈してみた話です。

 

 

東遷が完了して

 以前の記事で、いわゆる謎の4世紀に、邪馬台国が九州から畿内に東遷したと考えられると書きました。

yokositu.hatenablog.com

東遷が終わり、大陸からの脅威に対する備えが出来た時点で、政権中枢部は、次のように考えたのだと思います。

朝鮮半島北部における覇権を、奪還すべきだと。

これに、朝鮮半島北部からの亡命者の思いが深く関与していたことは、想像に難くありません。

広開土王碑における倭

 それ以降の行動についての記録が、高句麗の広開土王碑に有る、倭に関する記述になると考えます。

解釈に諸説ある部分は出来るだけ避けて、記述に沿って記します。(年号から始まる太字の部分が、広開土王碑の内容です)

391年 倭が来る
朝鮮半島北部における覇権を、奪うにしても、直接攻めては、周辺国から挟撃される恐れもあることから、先ず朝鮮半島南部に橋頭堡を築いたと考えられます。
小国家群からなる加羅に上陸し、築いたのが任那だと思います。

399年 百済は、倭と和通した
    新羅から、倭人の襲撃に対して、高句麗に救援の要請あり。
400年 高句麗5万の兵で新羅を救援し、倭を任那加羅まで追撃する。
    そのすきに、安羅軍が新羅の都を占領する。
任那を足掛りに、百済新羅を勢力範囲に収めたということでしょう。
安羅は、加羅の一国と考えられています。

404年 倭が帯方地方に侵入するも、撃退。
後背の憂いを無くした上で、満を持して朝鮮半島北部に進行するも、あえなく敗退の憂き目を見たという事でしょうか。

倭の五王の事績

 朝鮮半島北部の奪還に失敗した後で、高句麗組み難しと見たのか、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に、方針転換をしたのだと思われます。

そのことを示しているのが、中国の歴史書宋書にある、倭の五王による朝貢の記事だと考えます。

先ず、ここでいう宋は、魏、西晋東晋と続いてきた王朝を継承した国となります。
この宋に朝貢することにより、魏に朝貢した卑弥呼から連なる政権ということでの、正当性を確立することが出来ます。

一人目の王の最初の朝貢は421年(413年という説も)です。

次に、朝鮮半島南部での権益を守る件に関しては、2人目の朝貢時に、自ら「使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称して、正式の任命を求めたことに、端的に表れていると思います。

なお、この件に関しては、最後の王に対して、「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王と任命されたことに見られるように、一定の成果は上げましたが、最後まで百済に関しては認められなかったのは、面白いところです。


 以上は、朝鮮半島に進出を始めた391年から、王が任命を受けた478年の間の出来事になります。


  ではでは


 

 

卑弥呼の墓はここだ

 今回は、邪馬台国の位置と並んで議論の的となる、女王卑弥呼の墓についての話です。

 

 邪馬台国は宇佐にあったので

 以前の記事で、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だったのではないか、邪馬台国はその宇佐にあったのではないか、という話をしました。

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であるならば、その卑弥呼が亡くなった場合、宇佐の地に葬られた、と考えるのが普通かと思われます。

つまり、卑弥呼の墓は宇佐に有る、という事だと思います。

宇佐のどこなのか

 上記記事で書いたように、道鏡事件において、天皇後継問題にまで影響力があった、宇佐神宮に関係がある場所と考えられます、
逆に、卑弥呼の墓と関りがあったから、影響力があったと言えるかもしれません。

実は、関係どころでは無く、宇佐神宮の本殿は小高い亀山山頂にあるのですが、この亀山の山頂部分が古墳だと言われているようです。

山頂部の径百余歩に相当する部分を造成して墓としたと考えれば、「魏志倭人伝」の記述とも矛盾しません。

つまり、卑弥呼の墓は、宇佐神宮に有る、という事だと思います。

宇佐神宮卑弥呼

 現在、亀山山頂には、宇佐神宮の上宮があり、次の三神が祀られています。

 一之御殿:応神天皇 (おうじんてんのう)  725年造営
 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ)   729年造営
 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)   823年造営

応神天皇神功皇后は、日本書紀に記載がある人物です。
比売大神は、現在、宗像三女神とされていますが、その正体についてはよく分かっておらず、祀られている地域によっても違いがあるようです。

この比売大神が、卑弥呼だと考えます。
卑弥呼が亡くなってから、約500年の間に、比売大神として信仰されるようになったのだと思います。

さらに日本書紀によれば、神功皇后は、熊襲征伐の後、朝鮮半島に赴き、帰国後、九州の地で、応神天皇を生みます。
つまり、いずれも九州に関係のある人物です。

これらの事と、日本書紀の成立が720年である事、さらに3御殿の造営時期を合わせて考えると、宇佐神宮は、比売大神の信仰を基に、日本書紀の内容を合わせる形で、現在の形に成ったと思われます。

つまり、大和政権の始祖とも言うべき卑弥呼が祀られていることにより、道鏡事件で見られたような、影響力があったという事です。


 改修工事の時に石棺を見た、という話もあるようなので、中から金印でも出てくると面白いんですけどね。


  ではでは

 

邪馬台国はここに建てられた

 以前の記事で、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だった、という話をしました。

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 今回は、その中で予告した、邪馬台国の位置に関する話です。

卑弥呼共立の条件と同じ

 前出の記事のなかで、卑弥呼共立の条件として、
「争いを収めるために共立するのに、武力や政治力を基準にしても、到底納得が得られる訳がありません。
宗教的中心を背景とした人物であれば、表向き中立性もあり、賛同が得られやすかったと、考えられます。」
という話をしました。
 
これは、邪馬台国の建てられた位置にも、当てはまると思うのです。
何処に建てても、アブハチ取らずで、下手をすれば再び紛争の種になりかねないと思うんですよね。

そこで、賛同の得られやすいという事で、宗教的中心に近いところに建てたのではないでしょうか。
つまり、邪馬台国は宇佐に有ったという事になります。

魏志倭人伝の記述

 さて、建立の状況から、場所を宇佐とした訳ですが、「魏志倭人伝」の記述と整合性がなければ、単なる一人相撲になってしまうので、検討してみました。

以下に、「魏志倭人伝」に書かれた、邪馬台国までの旅程を示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、投馬国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、陸行、???里、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

ただし、投馬国と邪馬台国に至る旅程は、下記の記事で考察した、修正を採用しています。
また、「方角」「???」は、この部分に方角、数字がそれぞれ入るが、具体的に決められないという意味です。 

yokositu.hatenablog.com

 地図上で考えると

先ず、狗邪韓国は朝鮮半島南部の対馬対岸対馬国対馬一大国は壱岐と考えれば、末廬国で九州に上陸という事になります。

残りの旅程を、地図と見比べた結果、壱岐から東に海を渡り現在の宗像市付近に上陸したと考えると、うまく当てはまりそうだと気が付きました。
実際に、地図に当てはめた結果がこれです。

グーグルマップのルート検索の機能を使っているので、指定し易いランドマークを繋いだものになっています。
以下の話では、大体そのあたりかな、ぐらいで考えてください。

先ず、末廬国から不弥国までは、全て陸行で、

宗像大社(末廬国)→東南→小竹駅(伊都国)→東南→香春駅(奴国)→東→新田原駅(不弥国)

と、旅程に沿っています。

その後の、投馬国経由邪馬台国の旅程は、水行→水行→陸行(方角は不明)ですが、地図上はルート検索のため陸上となっている柳ヶ浦駅までを、周防灘の沿岸沿いを水行したと考えれば、

新田原駅(不弥国)→水行→中津駅(投馬国)→水行→柳ヶ浦駅→陸行→宇佐神宮邪馬台国

と、符合します。

距離に関しても、桁違いにずれている、という事は無いと思います。


以上、邪馬台国宇佐市で、大きな破綻は無いかなと思っているんですが。


  ではでは