横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

内匠頭刃傷の理由考

浅野内匠頭が刃傷を起こした理由について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、『仮名手本忠臣蔵』の登場人物の名前について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

実際の事件の当事者の一人吉良上野介が、高家という役職だったことから、先ず敵役として『太平記』にも登場する実在の人物高師直が連想されます。

その『太平記』の中で高師直は、神仏をも畏れぬ悪漢とされ、出雲国守護の塩冶高貞の妻に横恋慕したとされています。

塩冶という名は、大石内蔵助の主君である浅野内匠頭が治める、塩で有名な赤穂藩を想起させることから、刃傷事件を起こすが塩谷判官が決まります。

はっきりしない理由

 ところで、前回の記事でも触れましたが実際の事件(赤穂事件)では、浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由については事件直後から様々な説が唱えられていますが、いまだにはっきりとしたことは分かっていません。

どうも事件後に取り調べがあったかどうかも、正式な記録は無いようです。

そのため『仮名手本忠臣蔵』では、『太平記』の話をそのままとり入れて、塩谷判官の妻に対する横恋慕という筋書きになっています。

やはりいじめか

 理由が分からないことをいいことに、様々な説が出てくることになりますが、我々が『忠臣蔵』としてよく見聞きする話としては、吉良上野介の陰湿ないじめに耐えかねて、というものが一番ポピュラーでしょう。

その中でも有名なのが、増上寺の畳替えの話でしょうか。

京からの勅使の饗応役だった内匠頭ですが、その指導役の上野介から、勅使参詣に際しての畳替えは不要と言われていたが、前日になって必要と分かり、夜を徹して取り換えるという話です。

この時の畳職人と一丸となってやり遂げるところが、見どころとなっています。

この時に上野介が、「あらゆることに、吝嗇では御馳走は勤まらない」と返答した、と言う話もあるようです。

私の記憶に残っているのは、勅使登城の日の服装をわざと間違えて伝えられてあわやという事になったのですが、家臣が正しい衣装も念のため用意していたので事なきを得た、というものです。

否定されている

 これ以外にも幾つかあるのですが、上のものも含めて、そんなせこい事するかなという気がしないではありません。

そういったこととは関係なく、これらの話は、実際にはあり得ないと考えられています。

そのわけは、浅野内匠頭が、この事件の18年前にも饗応役を行っているという事実があるからです。

饗応役の仕事の中で行うようなことに関しては、この18年前の時の記録が事細かに残っていないわけがないのです。

これまで見て来たような、間違ったことを教えられて困ると言うシチュエーションは、基本的にあり得ないという事になります。

一度やったからこそ

 という事で間違っではいないのですが、この一度饗応役を行っていた、という事がやはり刃傷事件の背景にあったのではないかと思うのです。

いじめの理由として、上野介への付け届けが少なかった、または無かったからだというものがあります。

当時、高家が付け届けを受け取ることは、幕府からも黙認されていたようで、当然のことと考えられていたようです。

という事で、さすがに付け届けをしなかったという事は無かったと思いますが、その額はどうだったでしょう。

当然、18年前の記録を参考にしたと思われます。

一方、元禄の当時、貨幣の海中などもあり経済はインフレ傾向にありました。

結果として、付け届けの額が、特に上野介が当然と考えている額よりも少なくなったのかもしれません。

それによって、さすがに嘘を教えるという事は無かったにしても、上野介の内匠頭へのあたりが強くなったのです。


 殿様は知事と違って投げ出すことが出来ないのが、内匠頭の辛いところだったのかもしれません。


ではでは

仮名手本忠臣蔵考

仮名手本忠臣蔵』について考えた話です。

 

 

季節外れですが

 若干というか、かなり季節外れでうだるような暑さの中で、忠臣蔵です。

BSで関連の番組をやっていたので(日本の歴史を時代順に紹介しているといった感じの番組で、今回の順番が偶々そうだったという事のようです。)、それを見ていて思いついた話です。

忠臣蔵と言えば、劇や映画などでよく知られていますが、これはあくまでの実際の事件を基に、虚実織り交ぜて造られた話を指します。

それに対して、話の基となった事件については、学問的には「赤穂事件」と呼ばれています。

番組としては、「赤穂事件」を取り上げたものでしたが、今回の話は忠臣蔵のほう、それも忠臣蔵という呼び方の基となった『仮名手本忠臣蔵』についてです。

仮名手本忠臣蔵

 さて、その『仮名手本忠臣蔵』ですが、よく知られているように歌舞伎や文楽の演目です。

討ち入りの35年後に初演されました。

当時、実際に起こった事件をそのまま本や劇とすることは幕府から禁止されていたため、時代や登場人物を変えて創作することが行われていました。

仮名手本忠臣蔵』では、時代を室町時代に移し、主君の仇討のために打ち入った大石内蔵助を大星由良助、打ち取られた吉良上野介高師直としています。

というような話が、番組の初めに忠臣蔵と赤穂事件の違いとして説明されました。

勿論、その内容自体は全く問題はないのですが、ちょっと引っ掛かったのです。

どうして高師直なのかなと。

大星由良助と高師直

 大星由良助は、名前を変えつつ、大石内蔵助を彷彿とさせる名前と言っていいでしょう。

ところが高師直は、吉良上野介にかすりもしない上に、実在の人物なのです。

しかも室町幕府を開いた足利尊氏の側近で、初代および第三代執事という人物でした。

最初は、当時の幕閣の誰かを暗に批判するものなのかともかんがえましたが、どうもそれらしい人物は見当たりません。

なぜこんな、『太平記』にも出てくるような人物をもって来たのでしょう。

でもよく考えたら、答えはその名前と『太平記』に在ったのです。

高師直高家

 『仮名手本忠臣蔵』は3人の合作とされているようですが、そのうちの一人が、または複数人で話し合っている時に、次のようなことを思いついたのではないかと。

先ず、幕府との関係で、時代と登場人物名を変えることは大前提です。

どの時代にするかという事で、平安、鎌倉、室町と様々考えたと思います。

その中で、吉良上野介が儀式や典礼を司る役職の「高家」であることから、室町時代高師直が連想されたのではないでしょうか。

太平記から

 そうなると後は芋づる式です。

太平記』の中で高師直は、神仏をも畏れぬ悪漢とされ、出雲国守護の塩冶高貞の妻に横恋慕したとされています。

塩冶という名は、大石内蔵助の主君である浅野内匠頭が治める、塩で有名な赤穂藩を想起させます。

これで、事件の発端である刃傷事件を起こした塩谷判官も決定です。

作者は、これはいけると思ったのではないでしょうか。

浅野内匠頭が刃傷に至った理由は、その当時でもよくわかっておらず、様々な説がありました。

そこで、『仮名手本忠臣蔵』では、塩冶高貞の妻に横恋慕という話をそのまま取り入れたのです。

ただ、史実の高師直は仇討されたわけでは無いので、当然都合よく大石内蔵助に相当する人物はおらず、大星由良助といういかにもな名前となったのでしょう。


 当時は現代よりも『太平記』は身近だったはずで、観客は名前ですぐにピンと来て、しゃれが効いていると思ったかも。


ではでは

最古の壁画考

最古の壁画について考えた話です。

 

 

言語能力の指標

 前回の記事では、先史時代の壁画と言語能力について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

先史時代の壁画を、その描かれたと考えられる年代に沿って見てみると、描き方が写実的なものから次第に線画的なものへと変化しているように見えること。

その事と、言語能力による右脳の視覚的記憶能力の抑制という仮説を合わせて考えると、壁画が、それを描いた時代の言語能力の発達程度に対する指標になるのではないかという話でした。

最古の壁画

 従来、先史時代の壁画で最古のものは、前回の記事でも取り上げた、ショーヴェ洞窟を始めとする約4万年前ごろのものと考えられてきました。

そしてこのことは、アフリカから移動して来たホモ・サピエンスであるクロマニヨン人がヨーロッパにやって来た年代とも矛盾せず、これらの壁画はクロマニヨン人が描いたと考えられています。

ところが、研究によりスペインのラパシエガ洞窟、マルトラビエソ洞窟、アルタレス洞窟の壁画が最古のもので、約6万4千年前のものであるとされました。

この時代のヨーロッパはネアンデルタール人が優勢であり、これらの壁画を描いたのは彼らであると考えられています。

壁画を見てみると

 最古のうちの一つ、ラパシエガ洞窟の壁画は次のようなものです。

 

引用元:【解説】世界最古の洞窟壁画、なぜ衝撃的なのか? | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

 

何か描かれているように見えますが、はっきりしないので模写を見てみます。

 

引用元:同上

 

これは確かに描かれたものと言えそうです。

明らかに動物の一部が描かれているように見えます。

写実的なところは全くなく、線画と言って良いでしょう。

言語能力は高かった?

 ホモ・サピエンスの描いた壁画による言語能力に対する指標を、ネアンデルタール人に適応可能かという問題もありますが、両者の交配も可能だったようなので、それほど違いは無かったと考えることにします。

そうすると、上の壁画からは、線画であるという事で、その時点ですでにネアンデルタール人の言語能力が高かった可能性を示しているという事になります。

その後クロマニヨン人がヨーロッパにやって来るのですが、その時のクロマニヨン人の言語能力は、ショーヴェ洞窟などの壁画によれば、高くなかったという事になります。

つまり、両者が出会った時には、ネアンデルタール人の方が高い言語能力を有していたと考えられるわけです。

勿論、両者の言葉が通じたわけでは無かったでしょうが。


 常にホモ・サピエンスが先頭を走っていたわけでは無さそうです。


ではでは

先史時代の壁画

先史時代の壁画についての話です。

 

 

洞窟壁画と似ている

 ここしばらく考えている言語獲得による左脳優位の話ですが、その元ネタとなった番組「あなたの中に眠る天才脳」では、サヴァン症候群の人の書いた絵と、先史時代の洞窟壁画の類似性についても触れられていました。

具体的には、自閉症の少女が4才の時に描いた馬の絵
 

引用元:Nadia | きらめき星 @ オーストラリア - 楽天ブログ

 

が、フランスのショーヴェ洞窟にある先史時代(約3万2000年前)の壁画
 

引用元:ショーヴェ洞窟 - Wikipedia

 

と比較しての話になります。

見ての通り構図は異なりますが、いずれも写実的である点では、確かに類似性が見られます。

言語能力による抑制

 上の絵を描いた少女は、長じてその才能を失ってしまいます。

次が、彼女が20才の頃に描いた馬の絵です。

 

引用元:Nadia | きらめき星 @ オーストラリア - 楽天ブログ

 

研究者は、この原因を彼女が言葉を学んだことに求めました。

このことから、言語能力により右脳の視覚的記憶の能力が抑制されていると考えられるようになりました。

言語能力の発達が十分でない

 そのことを踏まえると、ショーヴェ洞窟の壁画を描いた時の人類は、あまり言語能力が発達していなかった可能性があったと言えそうです。

少しは話せたのかもしれませんが、右脳の視覚的記憶の能力を抑制するほどには発達していなかったと考えられるのです。

番組としては、言語により視覚的機能の能力が阻害されるのではあるが、そのマイナス面を上回るプラス要素が言語獲得にはあるという纏めでした。

見方を変えると

 ところで、この言語と壁画の関係は、別の見方も出来そうな気がするのです。

ショーヴェ洞窟は、約3万2000年前のものでした。

有名なラスコー洞窟の壁画は、約2万年前と見られています。

 

引用元:ラスコー洞窟 - Wikipedia

 

どうでしょうか、写実的ともいえますし、線画的になりつつあるとも言えそうです。

さらに、紀元前4000年頃と考えられている、タッシリ・ナジェールの壁画はどうでしょう。

 

引用元:タッシリ・ナジェール - Wikipedia

 

写実よりも簡略化された線画的になっているように思います。

地理的な位置が異なるので一概には言えませんが、年代が若くなるに従って、写実から線画へと変化しているように見えます。

これと言語による視覚的機能の能力抑制とを合わせて考えると、壁画の描き方から、それを描いた人々の言語能力がある程度推定出来ないでしょうか。


 文字の無かった時代の言語についてその発達段階が、ある程度推定出来る指標にならないですかね。


ではでは

人間は何を行ってきたのか

人間の行ってきたことについて考えた話です。

 

 

左脳優位と悟り

 前回までの何回かの話で、左脳優位に関係する事柄について考えてきました。

先ず、サヴァン症候群に関する知見から、我々人間は通常左脳が右脳の機能を制限している状態にあり、何らかの理由で右脳優位になると、並外れた能力を示すことが分かってきました。

しかもそのことが、仏教における「悟り」と同じではないかと考えました。

 

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絵を描く能力と言語能力の関係から、言語の獲得が右脳の機能を制限することになった原因だと考えました。

 

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言語能力を修業により制限することが「悟り」に至る方法であり、考えようによっては人間を人間たらしめているものの否定ともいえるという話でした。

その関係で、空海の唐における超人的な活動についても、「悟り」によってその能力を得たのではないかと考えました。

 

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左脳優位と真の世界

 次に、芸術と左脳優位の関係について見ました。

 

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何らかの理由で右脳の機能が完全に制限されておらず、その機能を絵画や音楽とうに発揮させたものが芸術ではないかという話でした。

左脳が優位なことで、右脳が認識した世界を言語で説明しようとしてしまうことが、芸術音痴だと考えました。

さらに、プラトン哲学における「イデア」と左脳優位にも関係が見られました。

 

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人間の認識の背後にある、完全な真実の世界をイデア界とし、その影が現実に或るもの、というような考え方がイデア論です。

その中の「完全な真実の世界」というのが、左脳の抑制を受けていない右脳で認識されている現実世界のことではないかと考えました。

それを、言語によって説明しようとしたのが「イデア」だったのではないかというわけです。

宗教、芸術、哲学、そして科学

 以上見てきたように、宗教(特に仏教ですが)、芸術、哲学の分野において、言語による左脳優位とそれによる右脳の機能抑制というのが、関係していることが分かりました。

勿論、各分野で行わていることについて、それが全てというわけではありませんが、少なからず影響していることは確かです。

面白いのは、その方向性に2種類あることでしょう。

宗教、芸術は、右脳に認識されている世界を、言語機能を使うことなく認識しようとしていると考えることが出来ます。

それに対して哲学では、言語機能を用いて説明しようとしているように思えます。

サヴァン症候群の研究により解明しようという立場も、科学というある種の言語機能により説明しようとしていると考えることが出来そうです。

我々人間が行って来た活動の少なくない部分は、言語獲得により失ったものを、そう認識しているかどうかは別にして、再び獲得しようとしているものだと、言えるのかもしれません。


 これらのことは、生物としての生命活動に特に必要ではないという面も在ったりします。


ではでは

イデア考

イデアについて考えた話です。

 

 

イデア

 「イデア」と言えば、哲学用語の中で比較的よく知られているものの一つと言ってもいいでしょう。

普通使われる時には、あるもの、例えばリンゴだとして、個々のリンゴについてではなく、全てのリンゴの元になっているリンゴそのものを指して、リンゴの「イデア」というような使い方をします。

分かったような分からないような話ですが、どちらかと言うと、具体的なリンゴではなく、抽象的なリンゴを念頭にしているような感じで使われているような気がします。

プラトン哲学

 元々の「イデア」は、プラトン哲学の中で取り上げられた概念です。

人間の認識の背後にある、完全な真実の世界をイデア界とし、その影が現実に或るもの、というような考え方です。

細かいことを言うと、その背景には魂の輪廻転生という死生観があり、魂が霊界で見ていたものが「イデア」であり、この世に転生する時にそれを忘れ、この世の「イデア」の影たる物体を見て真なる「イデア」を思い出しているというもののようです。

いずれにしても、実際に我々が認識しているのものの背景に、もっと本質的なものがあるはずだと、考えていたことになります。

ここでも左脳と右脳が

 我々が認識しているものとは、違う真実のものがあるというのは、ここ数回に渡って考えて来た、左脳による右脳の機能が制限されているという話と共通点がありそうです。

これまでの話では、通常は左脳の言語機能による抽象化により、右脳の知覚認識機能が抑制されている状態だと考えました。

獲得性サヴァン症候群の例などから、左脳よりも右脳の機能が優位になると、芸術面を始めとして様々な特殊な能力を発揮することが分かってきました。

つまり、我々が認識している物体は、右脳が認識したものを、左脳の言語機能作用した結果であり、右脳が認識したそのものではないのです。

我々が見ていると思っているものは、言語で説明した結果なのです

右脳優位の人の見方から

 プラトンの時代にもサヴァン症候群のような人たちはいたでしょうし、芸術分野の天才のように生まれつき右脳が優位な人たちもいました。

プラトンは、そういった人たちの一部が、我々の見ている物体を異なった姿で認識しているのを知り、自らの認識について改めて考えたのではないでしょうか。

自らの認識している姿が、全てではない可能性に気が付いたのです。

それに魂の輪廻転生という死生観が合わさって、「イデア」という考えが出来上がったと考えられます。


 最初プラトン自身がサヴァンのような能力持ちだったかと思ったのですが、そういったことを示す記録はないようです。


ではでは

空海考

空海について考えた話です。

 

 

生涯

 今回は、空海について考えるわけですが、先ずはその生涯について概略を見てみます。

774年(0才)讃岐国多度郡郡司佐伯田公の子として生まれる。
788年(14才)平城京に上る
792年(18才)大学寮に入る。
793年(19才)大学寮中退。
803年(29才)遣唐使として唐に渡る。
804年(30才)12月長安に入る。
805年(31才)長安青龍寺の恵果和尚に師事。
       3か月で密教奥義を伝授される。
806年(32才)8月明州出航。10月博多着。
816年(42才)高野山金剛峰寺創建
835年(61才)入定

2年弱で

 金剛峰寺を創建するなども在りますが、その生涯で特筆されるべきなのは、遣唐使で唐に渡っていた間の事績でしょう。

先ず、その時期に、真言密教の全てを学んだというのが挙げられます。

しかも、その期間がわずか3か月だったというのです。

この期間で、関係する文物を集めただけだとしてもすごい事ですが、実際には恵果和尚に師事をして、密教の全てを伝授されているのです。

それだけではなく、帰国後の満濃池(まんのういけ)の改修などに見られるように、密教のほかにも土木についても習得し、さらには薬学などその他の分野についても学んだとされています。

しかも、そのすべてが804年12月から806年8月の、わずか2年弱の間のことなのです。

これは、にわかには信じられないと言っていいでしょう。

しかし、現実に密教はもたらされていますし、満濃池も現存しています。

空白の10年間

 子供の頃は、聡明だったという話はあるようですが、特筆するような天才というようなエピソードも無いようですし、大学寮に入ったのも18才と、早熟という事でもないようです。

しかし、上で見たように30過ぎてから渡った唐では、超人的な能力を示しています。

そうなると怪しいのは、その足取りがよくわかっていない、l9才から29才の10年という事になりそうです。

一般的に、この期間に出家をして空海となり、厳しい修業の後「悟り」を開いたとされています。

室戸岬で修業中に、口に明星が飛び込み、「悟り」を開いたという話が有名です。

「悟り」により

 その「悟り」により、以前の記事で考えたように、獲得性サヴァン症候群で見られるような、超人的な能力を得たと考えればどうでしょう。

 

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その能力が、ひと目見たら忘れないというような、超人的な記憶能力だったとすれば、短い期間での信じられない学習量というのも納得できそうです。

恵果和尚が空海を初対面でそのレベルに驚き、即座に密教奥義伝授を開始したという逸話も、その記憶能力を見抜いたという事なのかもしれません。

空海ならば、一言一句間違いなく後世に伝えることが出来ると思ったのかもしれません。

空海は、修業により超人的な記憶力を得たのです。


 もっとも、帰国後の各知識の運用状況等を見ると、単なる記憶能力だけではなかった可能性もありそうです。


ではでは

色即是空、空即是色

「色即是空、空即是色」について考えた話です。

 

 

「色即是空、空即是色」

 「色即是空、空即是色」とは、言わずと知れた『般若心経』にある(ほかにもいくつかの経にあるようですが、これが一番有名でしょう)言葉です。

仏教に興味はなくとも、この言葉は聞いたことがあるという人も多いと思います。

もっとも、一部の世代の男子には、同じ『般若心経』の中の「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」の方が馴染みがあるかもしれませんが。

かく言う私もしばらくの間、法事などでお坊さんがこのくだりを唱えると、密かに心の中で「レインボーダッシュセブン!」と叫んでいました。

もちろん、お坊さんも私も、変身は出来ませんでした。
インドの山奥で修業していないからだと思います。

意味としては

 それはそれとして、「色即是空 空即是色」ですが、読み下し(という言い方でいいのかよくわかりませんが)としては「色(しき)すなわち空(くう)なり、空(くう)すなわち色(しき)なり」でしょうか。

色(しき)とは、世界を構成する物質全てを指し、空(くう)は、「空(むな)しい」という言い方があるように、実体とするべきものがないといった概念を表すとされます。

すなわち、

目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。
引用元:色即是空 - Wikipedia

 

 

という仏教の根本教理概念を表しているとされます。

そのため「般若心経」は、異なる宗派において広く用いられています。

 という事で、勿論、全く問題はないのですが、その上で少し違った見方も出来るんじゃないかというのが今回の話になります。

音読みしてみると

 ご存じのように日本には、漢字の読み方として、「音読み」と「訓読み」という二種類があります。

 「音読み」は中国での発音を基にしたもので、「訓読み」は日本の言葉(大和言葉)に漢字をあてはめたものです。

「色」と「空」を「訓読み」にすると、「色即是空、空即是色」は、「色(いろ)すなわち空(そら)なり、空(そら)すなわち色(いろ)なり」と読めます。

どうでしょう、これはこれで意味が通っているように思うのですが。

「空(そら)」と「色(いろ)」

 「空(そら)」は、野外に出ると頭の上に広がっている青いあれです。

確かにそこにあるように思いますが、現実にはこれが「空(そら)」だという実体はありません。

空に昇って、このあたりが「空(そら)」だと思って、何らかの容器の蓋を閉めます。

地上に戻って中を見ても、青い「空(そら)」は、入っていません。

さらに、「空(そら)」は、赤くもなりますし、夜になれば黒くなったりもします。

まさに、「色(いろ)すなわち空(そら)なり、空(そら)すなわち色(いろ)なり」なのです。

「色即是空、空即是色」は、仏教の根本教理概念を表しているとともにそのたとえ話にもなっているという、巧妙な一文なのではないでしょうか。


 こうなると、唐代に翻訳された元のサンスクリット語の文章がどうなっているのか興味深いところです。


ではでは

 

 

蝦夷の戦闘技術の謎

蝦夷の戦闘力について考えた話です。

 

 

平安武士と蝦夷

 「歴史探偵 平安武士と蝦夷」という番組を観ました。

大和朝廷をその戦闘力で苦しめた、東北地方の蝦夷ですが、坂上田村麻呂に敗れます。

その後大和朝廷支配下にはいりますが、その戦い方の元となる戦闘技術が東国の地で源氏、平氏などの王臣子孫に伝播した結果、武士が生まれたという内容でした。

武士の始まりに関しては、前々回に取り上げたばかりです。
結構こういった偶然が重なることがあるのが、不思議な感じがします。

 

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私の仮説は、軍団廃止後に取り入れられた健児が、後の武士につながるのではというものでした。

それに対して今回の番組は、源氏、平氏といった上からの武士の始まりについての話という事になります。

上からなのか、下からなのかというあたりは、一度考えて見たい話ですが、今日のポイントはそこではありません。

それは、大和朝廷を苦しめ、後に源氏、平氏に取り入れられるような戦闘技術そのものについてです。

蝦夷の戦闘技術

 その蝦夷の戦い方がどんなものかというと、騎射術だというのが番組の主張でした。

読んで字のごとく、騎馬すなわち馬に乗りながら、射すなわち弓を射る術という事になります。

イメージしやすいものとしては、流鏑馬でしょうか。

騎馬で突撃しながら弓を射るという、機動性と高い攻撃力を誇るものと言えるでしょう。

これに対して、当時の朝廷側は歩兵が主たる攻撃力でした。

これが、蝦夷が朝廷を苦しめることになり、後に源氏、平氏が習得することになった、蝦夷の戦い方です。

なぜ東北の地に

 そうであるならば、大きな疑問が生ずるのです。

それは、この時代に東北の地に騎射術が、なぜ存在するのかというものです。

そもそも、『魏志倭人伝』に「牛馬なし」とあるように、古来日本には馬はいませんでした。

その後古墳時代以降に、おそらく大陸から朝鮮半島経由で西日本に持ち込まれ、全国へと広がっていったと考えられます。

そう考えると、その伝播の最終地点ともいえる東北地方に、中央からやって来た高級貴族が持っていないような戦闘技術があるはずがないのです。

にもかかわらず、存在したのはなぜか。

どこからやって来たのか

 その戦闘技術は、騎射術ということで、流鏑馬のようなものかと書きましたが、少し異なる点があります。

それは、使用する弓が長弓の所謂和弓ではなく、短弓だという事です。

 

引用元:原始和弓の起源 2015年『日本考古学』 | 考える野帖

騎馬と短弓という事で有名なのは、モンゴル軍を始めとする大陸の遊牧民でしょう。

蝦夷の戦闘技術は、大陸からもたらされたのか、または蝦夷大和朝廷に対抗するために求めたのかは分かりませんが、大陸から直接導入されたものなのではないでしょうか。

そのため、大和中央にはない技術が存在したのです。

それをもたらしたのは、当時大陸の日本海沿岸にあった国「渤海」だったと思われます。

渤海」と大和朝廷は使者を遣り取りする関係でしたし、日本海経由の航路も開拓されていたようです。

軍団が廃止された時にも、対蝦夷陸奥国出羽国と共に、佐渡島が残されたのは、この当時の日本海経由の往来が活発であったことを物語っています。

その中で、大和朝廷の対抗勢力とも関係を持っておこうという「渤海」の思惑もあったかもしれません。


 蝦夷から短弓の騎射術を導入したにも関わらず、今使われているのは長弓である和弓なんですよね。これも謎です。


ではでは

 

海の民考

海の民について考えた話です。

 

 

海の民

 「古代文明 同時崩壊のミステリー」というTV番組を観ました。

紀元前1200年ごろに東地中海周辺で大規模な社会変動が発生し、ミケーネ文明、ヒッタイトなどの幾つかの古代文明が崩壊した原因を考えるというものでした。

一般的にこの出来事は、「前1200年のカタストロフ」と呼ばれています。

その原因のポイントとして取り上げられたのが「海の民」です。

この時期に「海の民」と呼ばれる集団が、東地中海地域を荒らし回ったことが古代文明崩壊の一因だったというわけです。

謎の海の民

 ところで、この「海の民」がどこからやって来たのか、どんな集団だったのかは、実のところよくわかっていないのです。

それ以前に、実のところ当時「海の民」という呼び方もされていませんでした。

1881年にガストン・マスペロというフランスの考古学者が、この当時各地に出没した集団を「海の民」と呼んだのが始まりということです。

しかしながら、エジプトには海から船に乗って攻めて来た集団と、当時のファラオのラムセス3世が戦った記録があり、海からやってくる戦闘集団がいたことは確かなようです。

海の民の正体

 その「海の民」の正体ついては、研究により当時の該当地域の気候が乾燥していたことが分かったという事から、それにより生活基盤を失った者たちの一部が船を使った武将集団化したというのが、番組の主張でした。

つまり、「海の民」はどこかの地域からやって来た特定の集団ではなく、様々な地域から逃れて来た寄せ集めだったのです。

確かにそう考えれば、当時の記録に明確な言及の無いのも当然という事になります。

「海の民」とう名称は、かなり的を得ていたという事になりそうです。

部分的には正しいが

 確かに「海の民」によって、東地中海地域の各地が襲撃されたのは確かだと思われます。

だからと言って、それだけで多くの文明、都市が壊滅したというのはどうなんでしょうか。

本ブログでは、太陽活動と多くの歴史的事象には関係があると考えています。

「前1200年のカタストロフ」についても、古代ギリシャとの関係を考える中で取り上げています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

具体的には、次の図で分かるように、エジプト極小期と呼ばれる太陽活動の極小期で各文明の崩壊が発生したと考えています。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

つまり、単に東地中海地域の乾燥という問題ではなく、地球的な規模の気候変動により、広範囲の社会基盤が影響を受けていたのです。

その中の一部の者たちが、地中海で武装勢力として活動したのが「海の民」であり、当然陸上で活動した集団もあったはずです。

さらに、それら集団の襲撃を受けた側も、気候変動の影響を受けていたでしょう。

これらの複合的な要因により、いくつかの国、都市が滅ぶことになったのだと考えられます。

「海の民」は、その要因の一つだったのです。

統一するような中枢の無かった「海の民」は、その後の太陽活動の上昇に伴う社会システムの再生の中で、吸収されていったのでしょう。


 「海の民」は烏合の集で、残念ながらカリスマ的なリーダーはいなかったという事でしょうか。


ではでは

健児と武士

健児と武士について考えた話です。

 

 

軍団は廃止したが

 律令制と共に導入された軍事組織である軍団制ですが、桓武天皇により廃止されることになります。

その理由については、それまでの天武系の行って来た施策の否定を目的としていたのですが、その背景に律令制の導入が終わり軍団が必要なくなって来たこともあったと考えています。

 

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とは言っても、それまで存在していた軍事力がいきなり無くなると、その地域の情勢を不安定化させる恐れがあるのは、十分に考えられるところです。

そういったこともあったのか桓武天皇は、天武系の施策である軍団を廃止しつつも、その代わりに「健児」という軍事力を造ったのです。

軍団と健児

 軍団の代わりに導入された健児ですが、両者の最大の違いは、その対象者に在りました。

軍団に徴兵されるのは、正丁(21歳以上60歳以下の健康な成年男子)三人につき一人が自動的に挑発され、その能力等には関係が無かった。

それに対して健児は、郡司の子弟と百姓のうち武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた20歳以上40歳以下の者を対象としていた。

さらに、このようにして選ばれた健児については、租庸調のうちの庸調が免除されていました。

つまり、土地持ちの武力を提供することを主とする人の集団が誕生したことになります。

これが、武士の起源の一部を形成していたのではないかというのが、今日の話のポイントです。

武士の起源

 私がまだ学校に通っていたころには、武士の起源については、在地領主から発生したとする説で、概ね次のようなものだったと思います。

武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された下級貴族・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、清和源氏桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身の下級貴族が、武士団の上位にある武家の棟梁となった。
引用元:武士 - Wikipedia

しかし現在では、この説の特に「在地領主が自衛のために武装した」というあたりについては否定的に捉えられているようである。

吉野ヶ里遺跡を見ても分かるように、そもそも古代からの損は自衛のための武装をしているものなので、こ時代の在地領主だけが突然武装したわけでは無いのです。

つまり、源氏、平氏のような上部構造は問題ないとしても、それを支える在地の専門職としての武士の起源がよくわからないという事になります。

健児が起源だったのでは

 この在地の武士の起源として、健児が当てはまるのではないかというのが、今回の仮説です。

上にも書いたように健児は、「土地持ちの弓馬に秀でた武力を提供することを主とする人の集団」でした。

これは、そのまま武士と呼んでも、それほど違和感はありません。

しかも、庸調が免除されていいたわけですから、子弟に継承させようとするインセンティブも働いていたことになります。

これらが組織されたものが、在地の武士団だったのではないでしょうか。


在地の武士は、その起源からして自らの土地を守る「一所懸命」を、その根底に持っていたという事になります。


ではでは

藤原氏の強み

藤原氏の強みについて考えた話です。

 

 

藤原の四家

 藤原氏の強みを考えるにあたって、先ず奈良時代から平安時代にかけての、藤原氏と権力についてを極簡単に見てみます。

藤原不比等が権力の座に就くことから始まります。

その死後その息子達の藤原四兄弟がそれを継承します。

四兄弟は、それぞれ一家を成し、南家、北家、式家、京家の藤原四家と呼ばれるようになります。

四兄弟は、同時期に国政を担う地位を占め権力を握ります(藤原四子政権)。

その藤原四子政権は、天然痘の流行(天平の疫病大流行)により4兄弟が相次いで病死してしまい、終焉を迎えることになります。

その後の四家

 その後台頭したのが、南家の藤原仲麻呂です。

権力を握った仲麻呂でしたが、孝謙太上天皇道鏡と対立し、藤原仲麻呂の乱で敗死します。

これによりいったん権力の座を追われた藤原氏ですが、式家の藤原百川や北家・藤原永手により盛り返します。

百川や永手は、桓武天皇の父で天智天皇嫡流光仁天皇を推したとみられます。

天武系から天智系への切り替わりに藤原氏が関係していたのです。

その後、平安時代になると式家、南家は衰退し、北家が反映することになります。

その最盛期が藤原道長という事になります。

争う四家

 藤原四家は、その本当のところは分かりませんが、藤原四子政権では方向性を一にしているように見えます。

そのまま、各親の後を継承していく形で政権が続いていくような形になればよかったのかもしれませんが、天然痘により四家共に当主を失ってしまいます。

その結果、四家が権力争いを行うことになってしまいます。

そのため、彼らの中では四家のどこが権力を掌握するのかが最も重要なことになったと考えられます。

そのことは、仲麻呂の時代まで連綿と続いてきた天武系の天皇との関係を、光仁天皇を担ぐことであっさりと覆したことを見ても明らかです。

天皇家よりも、式家、北家のことの方が重要だったのです。

このことが背景にあるからこそ、前回の記事で見たような、桓武天皇による天武系の歴代天皇の行ってきたことの否定、またはそれ以上の結果を残すことで、天智系の正当性を担保するという施策を行うことが出来たのだと考えられます。

 

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藤原氏の強みとしての四家

 以上見て来た藤原四家の互いに権力争いを行うという在り方こそが、藤原氏が長きに渡って権力中枢で繁栄した理由ではないかと思うのです。

各家の繁栄こそが重要であるからこそ、天武系から天智系への乗り換えに見られるように、それまでの行いを否定することも出来る。

この四家あることによる柔軟性こそが、藤原氏の強みだったのではないでしょうか。


 天然痘による藤原四兄弟の死が無ければ、これほどの長期に渡る繁栄は無かったのかもしれません。


ではでは

平安時代の始まり

平安時代の始まりについて考えた話です。

 

 

軍団の廃止

 前回の記事は、奈良時代の終わりに行なわれた、軍団の廃止についてでした。

 

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軍団は、律令制を全国的に導入するための軍事的な圧力を加えるために設置されたと考えています。

その軍団が、一部の軍事的脅威の残る地域を除いて廃止されたという事は、とりもなおさず設置の目的であった律令制による中央集権的な体制が、出来上がったことを示すのでは無いかという話でした。

廃止しなくても

 確かに、廃止されたという事から考えると、当初の目的が達成されたという推論が成り立つことにはなります。

然は然り乍ら、廃止までする必要が無かったともいえるわけです。

一般に、一度持った軍事力を放棄するというのはあまり例はありません。

軍事力こそが権力の源であることが多いからです。

それにも関わらず軍団の廃止は行われました、なぜでしょうか。

廃止したのは桓武天皇

 軍団を廃止したのは、桓武天皇で792年のことでした。

桓武天皇といえば、平安京への遷都ですが、2年後の794年のことでした。

桓武天皇は、これら以外にも、親政により様々な施策を行っています。

例えば、あの有名な征夷大将軍坂上田村麻呂による蝦夷の征討なども、桓武天皇の時代に行なわれました。

また、『続日本紀』の編纂も命じたとされています。

桓武天皇は天智系

 このように様々な施策を行った桓武天皇ですが、奈良時代を長く治めて来た天武天皇の系統ではなく、天智天皇に連なる天皇でした。

このことが、上記の様々な施策の背景にあったのではないかと考えられるのです。

それは、天武系の歴代天皇の行ってきたことの否定、またはそれ以上の結果を残すことで、天智系の正当性を担保する事だったとおもわれます。

軍団の廃止は、天武系による施策の否定のために、軍事力すらも捨てたことになります。

蝦夷の征討は、天武系の歴代天皇が成し得なかったことです。

その仕上げが、平安京への遷都だったのでしょう。

明らかに、天武系が造り上げて来たものを全て捨て去るためのものだったと考えられます。

改めて考えて見ると、その名称「平安」というのは、文字通りこののちの世の平安を願うというものでしょうが、その裏には、それまでの世が平安で無かったと言っているともいえるわけです。

そして以前の記事で書いたように、『続日本紀』の編纂は、天武系の徳の無さを指摘するとともに、平安京への遷都の正当性を示すものだったのです。

 

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桓武天皇の施策の多くは、天武系とは違う事を示すことが目的だったのす。

 
 もっとも、平安時代の始まりとしているのは後世の人間であって、桓武天皇は新たな時代を始めたとは考えていなかったと思いますが。


ではでは

軍団廃止考

軍団の廃止について考えた話です。

 

 

軍団の成立

 古代日本における軍団については、律令制の導入との関係から、その成立過程について書きました。

 

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それまでの大和政権と各地の勢力との間の冊封的体制を、中央集権的体制への移行するための施策だったのではないかというものでした。

先ず、畿内紀伊半島、旧九州勢力の元々の大和政権の勢力範囲に軍団を導入します。

それを一元的に運用することによる軍事力を背景に、周辺の地域から順次体制への参加を交渉、参加した地域での「軍団」の整備、一元的な運用と交渉、を繰り返すことで、全国を体制に組み込んでいきます。

勿論、ただ軍事的に圧をかけるだけではなく、参加した場合の国司以下の官吏への任命という見返りを提示したと考えました。

飴と鞭で律令体制というフォーマットへの組み込みを図ったのです。

軍団の廃止

 そんな軍団ですが、桓武天皇により陸奥国出羽国佐渡国西海道諸国を除いて廃止されることになります。

陸奥国出羽国は対蝦夷佐渡国渤海などへの備え、西海道諸国については対中国と考えらることから、軍事的な備えが必要な地域を除いて廃止したことが分かります。

これは逆に見ると軍団が、純粋に対外的な軍事力のためだけではなくそれ以外の理由で導入されたことを示しているとも言えそうです。

それが、各地域の勢力を律令制への組込みだったという事になります。

廃止されたという事は

 そして、そういった軍団が廃止されたという事は、その地域では当初必要とされた理由が無くなったことを示していると考えられます。

つまり、律令制というフォーマットへの各地域の勢力の組み込み
が完了し、もはや軍団による鞭が必要なくなったという事になります。

軍団は701年の大宝律令による規定により始まり、桓武天皇による廃止は、792年のことでした。

その間91年に渡って存続したことになります。

一世代20年とすると、四世代以上経過しているわけです。

これほどの期間があれば、当初軍団の導入を背景に律令制に組み込まれた各地域の勢力も、その地位の世襲を重ねることにより既得権益化していったと考えられます。

もはや大和政権に対抗する勢力では無かったのです。

それによって、中央集権的な基盤が出来上がり、軍団の必要性は薄れていった結果なのだと思います。


 794年が平安京遷都ですから、奈良時代律令制による中央集権化の導入から完成までの時代だったという事になります。


ではでは

軍団考

軍団について考えた話です。

 

 

大宝律令というフォーマット

 以前の記事で、壬申の乱で権力を奪取した天武天皇の政策について書きました。

 

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そのポイントは、それ以前の各地の勢力との間の冊封的体制を、大和政権による中央集権的体制への移行を画策していたというものでした。

その体制のフォーマットとして律令制を採用しようとしたのですが、それが最終的に結実するのは、二代後の文武天皇による大宝律令だったわけです。

フォーマットを作っただけでは

 上の記事でも少し書きましたが、大宝律令によってフォーマットは作ったわけですが、それに各地の勢力のすべてが、はい分かりましたと言って組み込まれるというのは考え難いのです。

しかし、歴史上は最終的に大和政権の中央集権的な体制が作られています。

勿論、豊臣秀吉による全国制覇のようなことは起きていません。

では、何があったのでしょう。

「軍団」について考えることで、そのあたりを説明出来るのではないかというのが今回の話になります。

軍団というシステム

 ここで取り上げる「軍団」は、大宝律令で規定された軍事組織で、大和政権が徴兵、維持を行う、地方の政治機構から独立している点にあります。

一般に、それ以前には「国造軍」と呼ばれる中央・地方の豪族が維持している軍事力があったと考えられています。

ところで本ブログでは、「国造」は、冊封的関係にあった各地の勢力に、大和政権が授けたものだと考えています。

 

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つまり、「国造軍」は、大和政権のコントロール下にはない軍事力という事になります。

律令制下に組み込まれるという事は、大和政権のコントロール下の軍事力を認めるという事になり、容易に認められないものだったはずです。

どうクリアしたのか

 それをクリアした過程は、次のようなものではなかったかと考えます。

先ず、大和政権の勢力範囲に「軍団」を導入します。

具体的には、畿内紀伊半島、旧九州勢力の勢力範囲といったところでしょうか。

それを一元的に運用することによる軍事力を背景に、周辺の地域から順次体制への参加を交渉、参加した地域での「軍団」の整備、一元的な運用と交渉、を繰り返すことで、全国を体制に組み込んでいったのです。

勿論、ただ軍事的に圧をかけるだけではなく、参加した場合の国司以下の官吏への任命という見返りを提示したと考えられます。

「軍団」は、軍事力の強化と律令制の導入という、一石二鳥のシステムだったのです。

納得しない勢力も

 元々の勢力範囲の周辺から徐々に体制化を進めていったわけですが、当然否とする勢力も出て来ます。

それの大規模なものが、720年の隼人の反乱と724年の蝦夷の反乱という事なのだと思います。

いずれも、大和政権からは遠く、元々冊封的ですらなかったと考えることも出来そうです。

加えて、701年に大宝律令を制定してから、それを全国に展開するのに20年以上かけても、いまだ完遂していなかったという事になります。


 反乱というのは、あくまでも大和政権側の理屈ですよね。


ではでは