横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

徐福伝説

 徐福伝説について考えた話です。

 

 

徐福伝説

 徐福伝説と言うものが有ります。

徐福と言う人物が、秦の始皇帝の命を受けて、中国の東方の海に不老不死の薬を探すために出かけたが、結局戻ることは無かったと言う話が、「史記」に書かれているのです。

驚くべきは、3000人の童男童女と百工(技術者)が同道したというのです。

それに符合するかのように、日本の各地に、辿り着いた徐福が住み着き、様々な技術などをもたらしたとする伝承が残っています。

私が知っているだけでも、和歌山県新宮市、熊野、佐賀県佐賀市京都府伊根町に有ります。
その他にも、数十か所の伝承地が有るようです。

徐福が、五穀も持って行ったと言う話が有るので、その時期も含めて、農耕を伝えたのは徐福ではないかという説もあるようです。

どうなんでしょうか。

徐福は実在

 話の出所が「史記」ではあるものの、徐福にまつわる話については、中国でも疑う向きも多かったようです。

そんな中、1982年になって、江蘇省の徐阜村という村が、清朝のころまで「徐福村」と呼ばれていたことが発見されました。
徐阜村には、徐福に関する伝承も残っているようです。

さらに、徐福を先祖とする徐一族の存在も確認されました。

このようなことを背景に、最近では、徐福は実在したとみなされているようです。

勿論、反論も有るようですが。

徐福は日本に来たのか

 日本各地に有る伝承について考えてみましょう。

いずれも、徐福が辿り着いて、住み着いて云々という内容が、昔から伝承されてきた事になっている訳です。
そうだとすると、おかしなことになると思うんですよね。

徐福は、始皇帝に命じられて、やって来たわけですから、秦の時代の人な訳です。
そうすると、紀元前3世紀頃という事になります。

このころ日本は弥生時代であり、明らかに、文字と言うものは有りませんでした。
よって、徐福に関する伝承は、有ったとすれば、口伝だったはずです。

であるならば、「じょふく」という名前が出て来るのは、おかしいのではないでしょうか。

「じょふく」といのは、徐福と言う文字を日本語で読んだもののはずですから、それが、文字の無かった弥生時代からあった訳は無いのです。
ちなみに、徐福を、Google翻訳で発音させると「しーふー」のように聞こえます。
徐福本人が、自己紹介するときに、私は「じょふく」ですと言う事は無かったはずです。

「しーふー」がやって来たというような伝承が有るならばともかく、「じょふく」がやって来たというのはあり得ない訳です。

 徐福が日本に来たのかどうかについては、正確には確認のしようが無いのですが、伝承としてはそのものずばりというものは無かったのだと思います。

大陸から辿り着いた人間がいたといった伝承が有ったところに、
史記」が日本に入って来てから、徐福に関する記述を見て、それを当てはめたという事ではないでしょうか。


 まあそれ以前に、弥生時代に、秦の時代の知識を持った人間が、3000人も来ていたのなら、もうチョット違う歴史が有ったんじゃないかと言うのも有るんですけどね。
少なくとも、文字ぐらいは有ってもよさそうですよね。


 ではでは

縄文から弥生へ

 縄文から弥生への変化について考えた話です。

 

 

征夷大将軍蝦夷

 江戸幕府を治めていたのは、勿論将軍であるが、この将軍の正式な官職名は、良く知られているように「征夷大将軍」である。

意味的には、夷を征伐する大将軍という事になります。
さらに詳しく見ると、ここでいう夷は、蝦夷(えみし)の夷という事になります。

蝦夷とは、大和政権にまつろわぬ人々を呼んだ名称で、「えみし」という呼び名に、蝦夷と言う字を当てたものだと考えられているようです。

その住む地域は、勿論時代によって変わっていくのですが、概ね現在東北地方と呼ばれている地方になります。

言い方を変えると、白河以北と言ってもいいのかもしれません。

蝦夷の字を当てたと書きましたが、その中の夷の字は、中華思想に見られる、「東夷西戎北狄南蛮」の東夷の夷の字を当てたたものだと考えられています。
つまり、都から東に住んでいる、未開の人々という訳です。

当時の政権の支配下で無いだけで、どうしてこのような呼ばれ方をしたのでしょうか。

農耕社会の広がり

 弥生時代に、北九州の地域から始まって、農耕社会が広がっていくわけですが、その遺跡の範囲は、概ね東海地方以西に多く分布しています。

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引用元: 弥生ミュージアム

これは、常識的に考えて、当時の稲作の生産技術では、この辺りまでしか、農耕社会を維持するだけの生産が困難だった結果と思われます。

ただ、東北地方にも全く稲作が無かった訳では無く、いくつかの水田跡も発掘されていますが、面としての広がりは無かったようです。

大和政権と蝦夷

 結局、後に蝦夷とよばれる人たちの住む地域は、弥生時代の農耕社会が入り込むことなく、縄文社会の要素を色濃く残した地域だったという事になります。

この傾向は、古墳時代にも見られ、大規模(120m以上)な前方後円墳は、宮城県福島県の両県までしか見られません。

そして、蝦夷の地との境界に白河の関が作られることになり、その地に住む、まつろわぬ人たちを従わせる役を担ったのが「征夷大将軍」だった訳です。

という訳で、大和政権と蝦夷の関係は、単に時の政権とそれに従わない人達の争いではなく、農耕社会を背景にした権力と、狩猟採集社会を背景にした平等の争いだったのです。


 縄文から弥生に単純に変わった訳では無く、縄文社会の影響は、意外と後世まで続いていたのです。


 ではでは

農耕と弥生時代

 農耕と弥生時代について考えた話です。

 

 

日本での農耕社会

 以前の話で、石器時代に起きた、狩猟採集生活から農耕社会への変化について考えました。

 

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その中で、日本については、自然が豊かであるために、農耕社会への移行が起こり難かったと考えました。
農耕のような労力を必要とするようなことをしなくても、狩猟採集で十分に生活が、しかも定住生活が可能だったからです。

一般的に日本では、弥生時代から、農耕社会が始まったと考えられています。
さらに、上記のような理由や、遺跡などの発掘による研究などから、大陸から九州地方に伝播したと考えらています。

ただし、ここで言っているのは、農耕社会の伝播であり、稲作そのものは、縄文時代にも知られていたようです。

クニの始まり

 前回の記事で、農耕社会の始まりによって権力も生じたと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ところで、弥生時代は、概ね紀元前1000年ごろから始まったと考えられているようです。
紀元前1000年頃といえば、中国では殷から周に王朝が変わる時代です。

ひょっとしたら、殷から周へと王朝が変わる混乱を避けた集団が、九州にやって来たのかもしれません。
ただし、稲作は中国南部で行われており、北部を中心とした殷、周とは関係ないという説もあるようです。
いずれにしても、その時代に農耕が入って来たという事は、中国では権力システムが確立しているわけで、当然権力層も入ってきたはずです。
農耕の技術を持った人々だけではなく、それを統べる権力システムも同時に入って来たと考えるのが自然だと思います。

そして彼らが定住して、権力システムを中心とした、稲作による集落を形成した。
それを、現代の我々は、クニと呼んでいるわけです。

争いの始まり

 弥生時代の遺跡の調査から、人口が増加していったことが分かっています。
素直に考えれば、稲作による豊富な食料の供給によると考えるのが自然でしょう。

人口が増えれば、さらに土地が必要となります。
結果、クニ同士が争う事になったと思われます。
何しろ、権力側から見れば、自らがコントロール下に置いている土地や、人々、すなわちクニが無くなれば、自らの生存が危ないわけですから。

さらに、中国から来たのであれば、当然戦うための技術も持っていたはずです。

その結果、弥生時代の遺跡からは、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、武器の傷をうけた痕跡のある人骨などの、争いの形跡が数多く見つかています。


 つまり、弥生時代には、農耕だけではなく、権力と争いも日本に入って来たのです。
こうして考えると、倭国大乱は、起こるべくして起こったとも言えるのかもしれません。


 ではでは

 

 

農耕と権力

 農耕と権力の関係に関する話です。

 

 

石器時代は平等

 石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられていると、以前の記事で書きました。

 

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同時に、権力者などのいない、平等な社会であったとも考えられているようです。
これは、埋葬方法に差の無かったことからも、裏付けられると考えられています。

ところで、ここでは、権力を以下のようなものと考えます。

権力とは、一般にある主体が相手に望まない行動を強制する能力である
引用元:権力 - Wikipedia

 

 なぜ平等だったのか

 前述のように権力を定義すると、生活が、狩猟採集によるものである限り、集団の構成員に何かを強制する事は困難だったので、権力は生じなかったのだと考えられないでしょうか。

例えば、誰かが、その他の人たちに、食料を取って来るように強制しようとしても、言われた方は、単に取ってこなければいい訳です。
その行動を強制する方法は、無いように思われます。
そうなれば、強制しようとした方は、自らも食料を調達しない限り、飢えるだけと言う結果になるだけです。
それどころか、平等な社会でそのようなことをすれば、社会から排除される可能性が大です。

という訳で、狩猟採集生活をしていた時代の人々は、我々が考えるような平等主義だったからではなく、生活方法からくる結果としての、平等な生活をしていたという事だったと思われます。

権力の発生

 そんな中で、前の記事で考えたように、次第に農耕技術が発展していくことになり、農耕による生産物を主たる食物とする、農耕社会が発生することになります。

 

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農耕社会では、当然のことながら、農耕による生産物を、貯蔵することに拠り、次の収穫までを乗り切ることになります。
逆に言うと、その生存が、生産物によって制約されるという事になります。

ここに至って、初めて、権力が発生することになったのではないでしょうか。
武力などの力により、貯蔵されている生産物の供給をコントロールすることに拠り、その他の人々に行動を強制することが可能になったと考えられます。
逆らえば、食べられなくなる訳ですから。


 農耕開始により始まったのは、定住ではなく、権力だったのです。


 ではでは

 

農耕社会の始まり方

 農耕社会の始まり方に関して考えてみた話です。

 

 

日本列島の農耕

 日本列島での農耕について、前の記事で、その発展に女性の力が大きく関わったのではないかと考えました。

 

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しかしながら、三内丸山遺跡を始めとする縄文遺跡の出土状況からも分かるように、日本列島では、本格的な農耕社会まで発展することは有りませんでした。

農耕社会の出現は、外部からの導入による、弥生時代の始まりを待たなければなりません。

これはひとえに、日本列島の自然の豊かさに拠るのだと思います。
栗やクルミの植栽などを行っても、主食を作るところまでは行かなかった。
と言うか、作る必要が無い自然の豊かさだったのしょう。

では、日本列島に伝わって来た、農耕社会はどのようにして始まったのでしょうか。

日本列島以外の農耕

 日本列島以外の世界でも、基本的には、日本列島での経過と同様に、定住が最初に来て、その後次第に農耕に進んでいったのだと考えられます。

そうでないと、狩猟採集のために移動していては、結果が出るまでに長い期間掛かる農耕は行い得無かったでしょうからね。

もちろん、発展の主体は、女性だったと思われます。

しかしながら、そういう事が有ったとして、そのまま農耕を中心とした生活に移行したとは思えません。
なぜならば、明らかに、狩猟採集生活の方が、楽だったようだからです。
縄文人は、一日のうち実働4時間で生活していたという説もあるようですから。

農耕社会の始まり

 という事は、狩猟採集では十分な食料が確保でききなくなった時に、農耕による主食の確保が考えられたという事になるでしょう。

一番考え易いのは、気候の変動でしょうか。
寒冷化によって、それまで採れていたものが取れなくなったといったような。

ただし、急激な変動では無かったはずです。
あまりに急激な変動では、農耕による生活に移行する前に、定住そのものが出来なくなってしまうでしょうから。

徐々に減っていく収穫に対応する形で、農耕が拡大していったのではないでしょうか。
そして、最終的に農耕により主食を確保するようになったという事でしょう。

日本列島でも、気候の変動はあったでしょうが、自然の豊かさに厚みが有ったために、農耕を取り入れる程の状況にはならなかったのだと思います。

それに対して、定住生活を送ることが出来ても、それに対する自然の状況に、元々余裕のなかった地域で、農耕社会が発生したのではないかと考えます。


 こう考えると、農耕によって確保できる食料が増えて、人口が増加したといったことはあるかもしれませんが、決して生活が楽になった訳では無いような気がするのですが。


 ではでは

 

定住と農耕の始まり

 定住と農耕の始まりの関係について考えてみた話です。

 

 

三内丸山での定住

 以前の記事で、三内丸山遺跡の話から、日本列島では、農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという話をしました。

 

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普通は、農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったと考えられています。

逆に言えば、農耕をしなくとも、狩猟採集により食料が十分に入手出来れば、定住が可能だという事になります。

三内丸山で定住が行われた当時の日本列島は、そう言った環境に有ったという事でしょう。

栽培も行われていた

 狩猟採集と言っても、単純に自然の恵みに頼っていたわけでは無いようです。

特に採集に関しては、出土状況から、集落の周辺に堅果類(クリ、クルミなど)の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられています。

栗やクルミの木を植えて、採取を効率よくするための手入れの様な事が行われていたようです。
単に効率だけでなく、どんぐりよりも、栗やクルミはおいしいですからね、おいしいものを少しでもたくさん採りたかったという事も有ったかもしれません。

中心は女性だった?

 石器時代の人間が、どのような生活をしていたのかについては、もちろん正確に知る方法は有りません。
多くの場合、現代の世界各地にいる、石器時代から生活が変わっていないと考えられている集団に関する調査結果から、石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられています。

そうであるとすると、三内丸山で、植栽を考え出したのは、女性たちだったと考えられないでしょうか。
力仕事が必要な時には、男性が手伝う事も有ったかもしれませんが、中心的に行ったのは女性だったのだと思います。

現在でも、日頃、家事に関わっていない男性が、家事の効率化に関しては思い浮かべる事さえしない(大体、何が問題かすら分からないですからね)のと同様に、日頃採集作業を行わない男性が、どうやったら、効率良く栗やクルミの収量を増やすことが出来るか、などと考えることは、全くとは言わないまでも極めて少なかったでしょう。

毎日採集を行う中で、より多く、安定して取る方法を、試行錯誤していくことで、植栽にたどり着いたのではないかと思います。

それが、コメや麦などの一年草にも拡大していき、最終的に農耕技術となった。

農耕技術は、定住生活の中で、女性達によって作り出されたのではないでしょうか。


 もっとも、日本列島では、完全な農耕技術に発展する前に(縄文晩期の遺跡には水田遺構もあるようですが)、外部からもたらされて、弥生時代になったようですけどね。


 ではでは

 

 

本能寺の変での光秀の行動

 本能寺の変での、光秀の行動に関する話です

 

 

最大の疑問点

 本能寺の変での光秀の行動の中で、私が、最大の疑問点だと考えるのは、なぜ光秀が、本能寺を攻撃すると同時に、妙覚寺に泊まっていた信忠を襲わなかったのかという事です。

そもそも、前の記事でも書いたように、信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを逃さなかったのが、本能寺の変の原因だと考えた訳です。

 

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であるならば、信長を討ちとることが、最大の目標で有るのはもちろんですが、後継者の信忠を逃しては、決して小さくは無い、後顧の憂いを残すことになってしまいます。ここは、逃げられないように、同時に襲撃するのが最善の策の筈です。

しかし、実際には、光秀が、配下の軍を分け、信忠を討ちに向かわせるようなことはしていないようです。

信忠は、二条御新造に立てこもり、明智軍とたたかった後、最終的に自害をしました。
という事は、宿泊していた妙覚寺から移動する余裕はあった訳で、本能寺と同時に妙覚寺を責めた訳では無いことになります。

これをどう考えたらいいでしょうか。

うっかりした訳では無い

 巷間言われるように、途上で重臣を集め、信長を討つつもりで有ることを打ち明け、それに重臣も従ったのだとして、どうして信忠を同時に襲う事にしなかったのでしょう。
百歩譲って、光秀はうっかりしていたとしても、誰かが進言をしたはずです。
まさか、全員がそれに気が付かなかったという事は、あり得ないでしょう。
信長を討った後すぐに、二条御新造を責めていることからも、うっかり見逃していたわけではなさそうです。

さらに、いかに本能寺が防御も考えられていたとしても、100人単位でしかなかったと考えられている信長とその供回りの人数を考えれば、13000といわれている全軍で攻める必要は無かったはずです。

という事は、軍を二手に分けられない理由があったという事になります。

どんな理由が考えられるでしょうか。

なぜ二手に分けられなかったのか

 光秀は、言われているように重臣に本意を打ち明けていなかったとしたらどうでしょう。
家臣の中から、謀反して、信長に知らせる者が出ることを恐れ(なにしろ、自らが、謀反を起こすつもりなわけですから)、打ち明けることは出来無かったのだと思います。
その代わり、信長からの命により、密かに家康辺りを討つと、騙したのたのではないでしょうか。
そのため、軍を二手に分け、妙覚寺に送ることは、出来なかったのです。
信忠を攻めるのでは、話の辻褄が合わなくなってしまいますからね。

それでも、信忠は放っておくわけにはいかにので、信頼のおける腹心にだけは打ち明けて、その配下を偵察に出していたのではないでしょうか。
それによって、信長を討った後で、素早く二条御新造に攻め寄せることが出来たという訳です。
当然、信長を討った後に、家臣に打ち明けた後だとは思いますが。
信忠が逃げなかったことを、光秀は僥倖だと思ったでしょう。


 以上、私の全くの妄想の域は出ませんが、『本城惣右衛門覚書』やルイス・フロイスの『日本史』にも、こういった事を思わせる内容があるようなので、どんなものでしょうか。


 ではでは

 

 

明智光秀も時代の子

 明智光秀も時代の子だっただけではないかと言う話です。

 

 

麒麟がくる

 今年の大河ドラマが、明智光秀が主人公の「麒麟がくる」という事で、そのクライマックスとも言える、「本能寺の変」について、見聞きすることが多くなったような気がします。

当然、なぜ光秀が、謀反して信長を討つようなことをして、「裏切り者」とよばれるようになったのか、という内容が多いです。

それに対して、怨念説、黒幕説等様々な説が唱えられています。
中には、光秀が主犯ではないというものまであります。

どうして、ここまで謀反を問題にされ、さらには「裏切り者」呼ばわりまでされなければいけないのでしょう。

光秀が裏切り者ならば

 その「本能寺の変」で討たれた織田信長は、若い頃に、主家である、尾張守護代清洲織田家を滅ぼした上に、自ら擁立した尾張守護・斯波義銀も追放しています。

光秀を主君の仇として討った、豊臣秀吉も、その後、信長の孫の三法師を主君として担ぐが、ご存知のように最終的には、豊臣政権を樹立しています。

その秀吉から、後継者秀頼を、五大老の一人として支えるように頼まれた徳川家康も、大阪夏の陣で、秀頼を自害に追い込んで、自らの政権を確立しています。

という事で、光秀の引き起こした「本能寺の変」も、三英傑が行った事と、それほど掛け離れていた訳ではないのです。
違いと言えば、一夜のうちに、主家の当主と嫡男を、いずれも自害に追い込むといった、劇的な展開であった点だけだとも言えます。

光秀も時代の子

 光秀が、「本能寺の変」で、主君信長に対して謀反をした事をもって、「裏切り者」呼ばわりされるのであれば、三英傑も「裏切り者」と呼ばなければならないですよね。

彼らが行ったことに対して、怨念が有ったからとか、黒幕がいたとかいった話は聞いたことが有りません。

農民出身の人間が、天下を取ることが出来るのが戦国時代です。
天下を狙う事が、そのための下剋上が、荒唐無稽な話では無い時代だったのです。

光秀も、その時代の、いわば常識に従って行動をしただけなのではないでしょうか。

千載一遇のチャンス

 当主の信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを前にした時に、ここが勝負の時だと思ったという事ではないでしょうか。

怨念とか、朝廷との関係、四国長宗我部との関係のような、これまで原因ではないかと考えられてきた事が、決断の後押しをしたという事も有ったかもしれませんが、主たる理由は、光秀も、戦国時代の常識の下で生きていた武将の一人だったという事だったのだと思います。
常に頭の何処かに、天下を取るという事が、あったのでしょう。

それが、裏切り者扱いされることになったのは、ひとえに、「三日天下」とも呼ばれている程すぐに、秀吉に討たれてしまったからでしょう。
歴史は、常に勝者のものな訳です。


 もう少し、彼の天下が長ければ、三英傑の一人は彼だったかもしれません。

麒麟かどうかはわかりませんけど。

 

ではでは
 

三内丸山遺跡と農耕と定住

 三内丸山遺跡から、農耕と定住について考えた話です。

 

 

彼が去年行ったのは

 年初の記事で、知り合いが古代史好きだと分かったと言う話をしましたが、その発端は、彼が、昨年、三内丸山遺跡に行ってきたと言う話をしたことに拠ります。

三内丸山遺跡は、縄文遺跡なので、古代史よりも古いわけですが、それに絡んで、色々と話しているうちに、古代史にも興味を持っていることが分かった訳です。

三内丸山遺跡は、かねがね一度行きたいと思っているんですが、いまだ果たせないでいます。
そのため、やっかみ半分で、三内丸山遺跡についても色々と盛り上がりました。

で、帰り道で、そうか、三内丸山遺跡は定住跡なんだと、いまさらながらに思い至ったのです。

三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は、ご存知のように、青森県にある縄文時代の住居跡の遺跡です。

縄文時代の住居跡と言っても、数家族程度が竪穴式住居を作って住んでいたといったものではなく、高床式倉庫、大型の竪穴式住居(集会用?)や大型掘立柱建物(祭祀用と考えられているようです)などが有る、広大な遺跡となっています。

 

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引用元:三内丸山遺跡 -日本最大の縄文集落-|青森県庁ウェブサイト Aomori Prefectural Government

 

居住者は数百人規模だと考えられているようで、これはもう立派な村落と言っていいでしょう。

さらに驚きなのは、その居住が、今から約5900年前~4200年前の、1700年間にわたって続いていたという点です。

もちろん、縄文時代の三内丸山で農耕は行われていませんでした。(栗の木の植栽などは行われていたようですが。)

農耕と定住

普通、農耕と定住の関係は次のように考えられていると思います。

農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。
引用元:農耕 - Wikipedia

農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったという訳です。
私も、漠然とそんな風に考えていました。

しかし、三内丸山では、農耕とは関係なく、1700年間も定住が行われていたわけです。
しかも、家族・親族単位よりもはるかに大きな規模で。

少なくとも、日本列島では、農耕の開始よりも、定住の開始の方が早かった訳です。
農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという事になります。


 定住と、農耕それぞれの始まりについて考えてみるのも、面白いかもしれません。


 ではでは

魏志倭人伝の里程

 魏志倭人伝の里程についての話です。

 

 

知り合いの疑問

 正月休みには、日頃会えない人達とも会えたりするわけですが、その中の一人が、実は古代史好きだと分かって、話が盛り上がりました。

で、私は、ここぞとばかりに、邪馬台国の話をしたわけです。
チョット話は逸れますが、ブログに一回書いているせいで、話が整理されているので、立て板に水とは言わないまでも、特に何も参照することなく話せるので、驚かれたりしました。
やはり、インプットだけでは無く、アウトプットが重要だなと。

それはともかく、彼が引っ掛かったのが、朝鮮半島から海を渡って、対馬壱岐と来て、九州の末廬国に渡る訳ですが、その末廬国を、宗像市のあたりだとした点でした。

彼は、どちらかと言うと、熊本辺りに邪馬台国が有るという説を取っているようで、末廬国は壱岐から南に渡って、東松浦半島辺りに上陸したんじゃないかと考えているようようです(まあ、普通はそう考えるわけですが)。

それに対して私は、壱岐から東松浦半島だと、1000余里とするには距離が近いんじゃないかと思うと言いました。

海の上だから、そこまで正確な距離は測れないだろう、と言うのが彼の意見でした。

以上の話に対する私の意見と、その後に検討した結果が、この記事という訳です。

ちなみに、私の邪馬台国の位置に関する説に関しては、この記事でどうぞ。

 

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里数は概ね正しい

 大前提として、魏志倭人伝中の里数に関しては、概ね正しいと考えます。
GPSなど無かったわけですから、現代の基準から考えれば正確な距離では無かったかもしれませんが、それなりのものはあっただろうと思うのです。

例えば、朝鮮半島から九州へ渡るまでの航海は、全て「海を渡る1000余里」と記されています。
これに関して、よく、海の上で測れるわけがないので(彼と同じです)、キリ良く1000余里としたというような考え方が有ります。

しかしですよ、航海ですから、当然船を使ったわけですが、その時に、使者の一行だけで行った訳ではなく、当然それを生業としており、そのあたりの海域を行き来している船乗りに頼ったはずですよね。
その船乗りたちが、距離も分からずに航海するはずも無く、大まかな距離は把握していたはずです。
狗邪韓国から対馬国対馬国から一大国、一大国から末廬国は全て同じぐらいの距離で、1000里ぐらいだ、と言った感じで。

それを聞き取って、報告書を書いたと思うんですよね。
加えて、当然陸上では、それなりに分かる訳ですから。
それが魏志倭人伝

原文
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

女王国より以北は、その戸数、道里の略載が可能だが、その他の旁国は遠く隔(絶)たっており、詳しく得ることができない。

という表現になったのだと思います。

地図に当てはめると

 改めて、邪馬台国への旅程を、示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

以前の記事で、投馬国までと、邪馬台国までの旅程に関しては、作者陳寿により、改ざんされていると考えました。
そのため、距離に関しては、里数でなくなっています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そこで、ここでは、不弥国までの旅程について考えることにします。

先ず、海上を移動している、末廬国までの行程を、Googleマップ上に入れてみました。

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この経路をGoogleマップの距離測定機能で測ると、赤系で示した、狗邪韓国から末廬国までの航路は、それぞれ70数キロになります。
これが1000余里という訳です。

それに対して、帯方郡から狗邪韓国までの青色の経路は、同様に測定すると500キロ強であり、7000余里という表現に矛盾しません。

ちなみに、壱岐から東松浦半島までは、約30キロです。

という事で、この方法から求められた1里の距離は、70数メートルという事になり、いわゆる「短里」という事になります。

この値を、末廬国から不弥国までの里数に当てはめた上で、方角も考慮して引いてみた(赤系の線)のが、次のGoogleマップです。

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これで距離、方向は、
  赤     約35キロ 末廬国から伊都国 東南へ500里 
  オレンジ  約8キロ  伊都国から奴国  東南へ100里 
  ピンク   約8キロ  奴国から不弥国  東へ100里
と、矛盾の無いものになります。


 以上、距離に関しては、結構精度が出たと思っているんですが。


 ではでは

 

ギザの三大ピラミッドの内部空間

 ギザの三大ピラミッドの内部空間の違いから、大回廊の役割に関して考えた話です。

 

 

ギザには三つのピラミッドが有る

 ここ最近、シンクロニシティという程ではないですが、続けざまに、テレビでピラミッドを扱った番組をいくつか見ました。

それらの番組を見ている中で、いまさらながらに思い出したことが有りました。

それは、ギザには、クフ王のピラミッド以外にも、二つのピラミッドが有るという事です。

それはもちろん、メンカウラー王カフラー王のピラミッドで、クフ王のピラミッドと合わせて、ギザの三大ピラミッドと呼ばれているのは、ご存知の通りです。

何をいまさらと思われるでしょうが、そういえば、クフ王のピラミッド以外の二つのピラミッドの内部については、あまり聞いたことが無いなと思ったわけです。

二つのピラミッドの内部空間

 調べてみると、現在までに発見されている内部空間はそれぞれ次のようになっているようです。

先ずメンカウラー王から

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 引用元:第15回 ピラミッドに新たな「未知の空間」の発見[後編] | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

点線部分がピラミッドの本体部分です。
つまり内部空間は、ほぼ地下に有るという事になります。

次にカフラー王です。

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 引用元:同上

同じように点線部分がピラミッド面になります。
やはり、内部空間は、ほぼ地表面より下に有ることが分かります。

いずれも、クフ王のピラミッドとは違って、ピラミッド本体の内部には、大回廊のような、大きな内部空間は見つかっていないようです。

大回廊が無い意味

 では、なぜ二つのピラミッドに大回廊が無いのか。

以前、クフ王のピラミッドに関して、その謎の空間に関して記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その中で、大回廊は王の間の石材を、謎の空間の正体は、もう一つの大回廊で、重力軽減の間の石材を運び上げるのに、それぞれ使ったものではないかと言う話をしました。

その大回廊が、クフ王のピラミッド以外の二つのピラミッドに見られないという事は、この説を補強していると考えられないでしょうか。
なぜなならば、この事は、大回廊が必ずしもピラミッドに必須の構造ではないことを示していると考えられるからです。

三大ピラミッドを作った、三人の王は、親、子、孫の関係に有るようなので、その三代の間に、宗教や死生観に大きな変化があったとは思えず、それによりピラミッドの設計が変わり、大回廊が無くなったという事は考えにくいです。
つまり、大回廊が、宗教的な儀式用とか、または死生観に従って魂の通るためなどの、ピラミッドに必須の構造だというようなことは無いと思われます。

クフ王のピラミッドで、王の間や重力軽減の間の材料の巨大な石を引っ張り上げるのに使ったのが、大回廊であるならば、いずれも内部空間が地表面以下に有る二つのピラミッドには、石を引っ張り上げるための大回廊は必要なかったという事ではないでしょうか。


 とはいえ、二つのピラミッドの本体内部にも、見つかっていない空間が有るかもしれません。
ぜひ、この二つのピラミッドも、クフ王のピラミッドと同様に、宇宙線を利用した調査を行っていただきたいです。


 ではでは、良いお年をお迎えください。

古事記と継体王朝

 『古事記』と継体王朝の関係に関する話です

 

 

事績が記されていない天皇

 欠史八代と言うのが有ります。
記紀の記述の中で、系譜が記述されているが、その事績が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことを指します。

事績が記されていないことから、実在しないのではないかと考えられています。
中国の歴史に匹敵する古い歴史が有るように見せかけるために、付け加えられたという訳です。

古事記』の内容を見ていくと、欠史八代と同じように、系譜が記述されているが、その事績が記されない天皇が、ほかにも存在しています
第27代安閑天皇から第33代推古天皇までです

実在しないのでしょうか。

そんな訳は無く、『日本書紀』にはその事績が記されています。
しかも、この七代は、『古事記』の最後の部分であり、作者から見て、最も近い時代の天皇達と言うことになります。
作者が、その情報を知らなかったはずはなく、明らかに、故意に事績を記述しなかったと思わざるを得ません。

第26代は継体天皇

 ところで、第27代安閑天皇の前は、第26代継体天皇です。

継体天皇に関しては、以前の記事で、天皇の地位を簒奪して、新王朝を開いたのではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その継体天皇に関しても、『古事記』では、応神天皇の5世孫と言うこと以外には、ほとんど事績が書かれておらず、唯一、九州で起こった磐井の乱のみとなっています。

つまり、『古事記』の作者は、継体王朝の天皇に関しては、ほぼ事績を書いていない訳です。

なぜ事績を書かなかったのか

 前の記事で、『古事記』は、山背大兄王を支持していた勢力の一部が、舒明天皇側に売り込むための資料として作られたと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

売り込むためには、継体王朝に対する功績を強調する必要がある訳ですが、作者は、事績を書き込むことが出来ない状況にあったのではないでしょうか。

それは、作者が、物部氏の一族だったためだと考えます。

唯一書かれた事績である、磐井の乱で功績のあった者は、乱を収めた物部荒甲大連と大伴金村連になります。

その後、物部氏は、仏教をめぐって、蘇我氏と対立をします。

さらに、第31代用明天皇の後継を巡っても、蘇我氏と対立した挙句、大連の物部守屋が戦死することになり、物部氏は政治の中枢から外れることになってしまいます。

事績を書き込むことにすると、これらの事も書かざるを得なくなってしまう訳です。

加えて、山背大兄王の祖母は物部氏と伝えられており、蘇我氏に対抗して、山背大兄王物部氏が支持し、再び敗れたとも考えられます。

以上のような状況のもと、継体天皇の代における、磐井の乱以外の事績を全て省くことにしたのだと思います。
継体王朝の開祖である、継体天皇との関係のみにすることで、正当性を示すことにしたのでしょう。

 継体恩顧の忠臣という訳ですが、残念ながら蘇我氏の力が強く、『古事記』の効果はなく、天武天皇の御代に、物部氏から改めた石上氏が復権するのを待つことになり、『古事記』は表舞台に出ることはなかった、という事ではないでしょうか。

 

  やはり、継体天皇で王朝が変わったのだと思います。


 ではでは

六世紀に何があったのか

 六世紀の日本に何があったのかという話です。

 

 

6世紀には朝貢がなかった

 倭の五王最後の武が朝貢を行った478年を最後に、その後600年の遣隋使まで、100年以上、中国側には使者が来たという記録がありません。

この間、中国では宋、斉、梁、陳と王朝が継承されており、朝貢出来ない状況ではありませんでした。

謎の四世紀に、邪馬台国の東遷が行われていたように、六世紀にも日本側に何かがあったと考えられます。

継体天皇について

 六世紀初めの507年に即位したのが継体天皇です。

日本書紀」によると、前年の506年に武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、有力豪族が協議し、越前にいた応神天皇の5世の孫を招いて、翌507年に即位したとされます。

これ、いかにも怪しいですよね?
いくら、武烈天皇に子供がなく、後継も決めずに死んだからといっても、応神天皇の5世の孫などという人物を引っ張り出さなくてはいけないほど、一族の中に後を継ぐ者がいなかったとは考えられませんよね。

大体、5代前の先祖から分かれた親戚と言われても、ほぼほぼ他人ですからね。

武烈天皇からの禅譲

 武烈天皇に関しては、「日本書紀」に、残虐とも言える行為が書き連ねられています。

  • 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
  • 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
  • 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
  • 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
  • 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
  • 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

引用元:武烈天皇 - Wikipedia

 

 

これらの記述の後に、後嗣を定めずに亡くなったため、継体天皇が探し出された話になります。

これは、明らかに、中国の正史に見られる禅譲のフォーマットそのものですよね。
前王朝の末期に徳を失い、それを、有徳により天命を受けた現王朝が引き継ぐ、というあれです。

中国であれば、徳のある人物が天命により禅譲を受けるわけですが、わが国にはそのような世界観は無く、正当性を示すために、5世の孫と言う話を作り出したのではないでしょうか。

もちろん、中国でもそうであったように、現実には禅譲であった訳はなく、河内で即位したのち、大和に入るまで19年かかったという記述も、反対勢力との間に色々とあった事を伺わせます。
ひょっとしたら、武烈天皇は、継体天皇の勢力に殺されたという事も有るかもしれません。

継体王朝がそれなりの体制になり、再び中国に赴くまでに、約100年かかったという事になります。


 まあ、大体、がいかにもな「継体」ですからね。


 ではでは

 

「源氏物語」関連まとめ

 「源氏物語」関連のまとめです

最初は、源氏物語の謎(前編)、(後編)のみのつもりで書き始めたんですけど、書くために色々調べているうちに、自分でも予想外の展開となりました。

自分自身の整理も兼ねて、まとめてみます。

 

 

藤原道長が第一部を利用した

源氏物語」と同時代の才能ある女性達が、なぜ同じような作品を残さなかったのかという疑問が、昔からありました。

一般的に三部作と考えられている、「源氏物語」の第一部 桐壷から藤裏葉までを、光源氏の栄華物語と捉えて、藤原道長天皇の権威を相対化するために利用したと考えると、色々と説明がつくと思いつきました。

源氏物語」の背後に藤原道長がいるために、同じような作品が書かれることは無かった訳です。

以上の事を踏まえて、紫式部は第一部しか書いておらず、第二部、第三部は、天皇側からの、藤原道長への反論だと考えました。

天皇の権威をないがしろにすると、因果応報により、自らのみか子孫までも幸せになる事は出来ない、という訳です。

 

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紫式部はいつ「源氏物語」を書いたか

 第一部二系統説と、「紫式部日記」に見られる道長の不可解な行いから、紫式部が「源氏物語」を書いた時期を推定しました。

宮中への出仕以前に紫上系17帖を、出仕した後に、玉鬘系16帖を書いたと考えました。

 

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源氏物語」第二部、第三部は、誰が誰に書かせたのか

 「源氏物語」第二部、第三部の作者は、与謝野晶子の説を取って、紫式部の娘大弐三位だと考えました。

彼女に対して

道長の後を継いで摂政となった長男頼通に対して、母の違いから不遇をかこっていた弟能信が、摂関家の権威を損なう事を目的に

または

道長の長女彰子が、自ら養育した親王の、立太子の問題に絡んで、父親を怨んでいたとする話が有ることから、父を困らせようとして

第二部、第三部の作成を依頼したと推定しました。

第一部への天皇側からの反論と言うよりは、藤原北家内部での問題から書かれたという事になります。
それが結果として、反論の形に成った訳です。

 

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大弐三位はいつ書いたのか

 「更級日記」の記述内容から、大弐三位は、母紫式部の後を継ぎ一条院の女院彰子の女房として出仕した、1017年から、1021年の間に書いたと推定しました。

 

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源氏物語」の作者と製作時期

 現時点での、「源氏物語」の作者と製作時期についての仮説は、
  第一部紫上系17帖 紫式部が出仕前に
  第一部玉鬘系16帖 紫式部が出仕後に
  第二部、第三部  大弐三位が出仕後に

という事になります。

 


 結局のところ、藤原北家の内部問題から最終的な形になったと考えた「源氏物語」が、道長とその息子達のその後を暗示するものとなったのは、やっぱり因果応報なんですかね。

 

 ではでは

 

 

 

紫式部はいつ源氏物語を書いたか

 「源氏物語」第一部の書かれた時期についての話です。

 

 

藤原道長の不可解な行い

 「紫式部日記」に、次のようなくだりがあります。

 

局に物語の本ども取りにやりて隠しおきたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて、みな内侍の督の殿にたてまつりたまひてけり。

 

引用元:紫式部日記 (渋谷栄一校訂) - Wikisource

 

 

 一般的に、道長紫式部の部屋をこっそり探して、隠しておいた物語を持ち出し、「内侍の督の殿」妍子(道長の二女)に渡した、と解釈されています。

物語は、「源氏物語」と考えられています。

このくだりの少し前に、藤原公任紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた話が出て来ます。

それほど、人口に膾炙した物語を、道長ほどの地位と権力を持った人物が、娘のために手に入れるのは、それほど困難だったとは思われません(というか、私の考えでは、道長が広めたんですけどね)。

ましてや、紫式部の部屋から、こっそりと持ち出す必要は、全く無かったはずです。

道長は、なぜそんなことをしたのでしょうか。

第一部二系統説

 源氏物語」第一部が、現在読まれているような順序ではなく、紫上系と玉鬘系の、二系統からなっているとする説があります。

二系統は次のようになります。

紫上系17帖
桐壺、若紫、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標、絵合、松風、薄雲、朝顔、少女、梅枝、藤裏葉

玉鬘系16帖
帚木、空蝉、夕顔、末摘花、蓬生、関屋、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸藤袴、真木

二系統の関係については、

  • 紫上系の巻だけをつなげても、光源氏が栄華を極めるところで終わる物語として読める。
  • 紫上系の登場人物は、紫上系・玉鬘系のどちらの巻にも登場するのに対して、玉鬘系の登場人物は玉鬘系の巻にしか登場しない。
  • 玉鬘系は、源氏物語全体のストーリーと絡まないという短編的・外伝的性格を持つ。

等のさまざまな理由から、まず紫上系が執筆され、玉鬘系はそのあとに、一括して挿入されたものである、とする説があります。

道長の持ち出したもの

 そうであるならば、道長が、紫式部の部屋からこっそり持ち出したものについて、一つの仮説が浮かび上がります。

先ず、紫式部は、宮中に出仕する前に、紫上系17帖を完成していたと考えます。
元々は、これが「源氏物語」だったのです。
それを、道長が読んで、外戚としての権力を知らしめることに、利用出来ると考えた訳です。

そして、出仕した後に、玉鬘系16帖を書いたのではないでしょうか。
中宮彰子に、新たな光源氏の話を求められたか、ひょっとしたら、懐妊した中宮彰子のために書いたという可能性もあるかもしれません。

いずれにしても、玉鬘系16帖の出来上がったのが、道長が忍び込んだ直前の時期だったと考えれば、色々と符合しそうです。

つまり、道長の持ち出したものは、出来上がったばかりの、玉鬘系16帖だったのです。

持ち出した話のすぐ前の部分で、出産の終わった中宮彰子が、内裏に帰る前に、物語の御冊子を作る様子が出て来ますが、この物語も出来上がったばかりの、玉鬘系16帖だと思われます。


 中宮彰子は、この時の経験があったので、後に、紫式部の娘大弐三位に、第二部、第三部を書かせることを思いついたのかもしれません。


 ではでは