横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

壬申の乱戦場考

壬申の乱の戦場について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事は、壬申の乱の開戦についての話でした。

リンク:壬申の乱開戦考

日本書紀』における壬申の乱が開戦するまでの経緯は、大海人皇子天智天皇からの譲位を辞退し、出家の後吉野に下ったにもかかわらず、天皇側に攻める意図が見られたために、兵を挙げたとなっています。

つまり、大海人皇子側が共有の意を示したのにも関わらず、攻められたのでやむを得ず反撃した、という立て付けになっているわけです。

とはいうものの、天智側の行動に対して、打てば響くような挙兵だったことから、実際には最初から大海人皇子側も、やる気満々だったのは明らかだという話でした。

壬申の乱経過

 そんなことで始まった壬申の乱の経過を、簡単に見てみたと思います。

引用元:壬申の乱|関ケ原町歴史民俗学習館

大海人皇子側は、一部難波方面にも進みますが、主力は吉野から北上して直接近江大津宮を目指すのではなく、伊賀、鈴鹿関を経由して、伊勢、美濃の東方面を目指し、不破関に布陣します。

これにより美濃、伊勢、伊賀、熊野等の勢力の協力を得ます。

ところで、美濃は前回の記事で見たように、天智天皇の墓をつくと称して兵を準備していることが、大海人皇子挙兵の重要な根拠だったはずなのですが。

というようなことはあるのですが、この一連の動きで、大海人皇子側は、東側を抑えることになりました。

その後、不破関から侵攻し琵琶湖に沿うように攻めこみ、最後は大友皇子を自殺に追い込み勝利します。

意外と狭い範囲で

 経過を示した上の図を改めて見ると、その戦いが行われた範囲が意外と狭いように思うのですが、どうでしょう。

戦闘はほぼ畿内と近江でしか行われていませんし、それ以外には伊勢と美濃が出てくるだけです。

前回の記事でも書きましたが、大友皇子については、壬申の乱の起こった時に天皇に即位していた可能性があります。

だとすれば、大海人皇子は兵を起こした時点で、天皇に対して反乱を起こしたことになります。

最終的には大海人皇子が勝利したわけで、これは国を2分する出来事だったはずです。

それにしては、上にあげた地域以外は、ほぼ存在感がありません。

東の地域に関しては、大海人皇子側が不破の関を抑えたので、情報を遮断できたと書かれていますが、それにしても乱後にも特に動きが見られません。

西側に至っては、筑紫の大宰府に応援を依頼したが、断られたという話があるだけで、それ以外の地域は全く存在感がありません。

どうして他の地域が出てこないのか

 なぜ他の地域がこれほどまでに出てこないのか。

先ず考えられるのは、乱自体が短期間に収束したから、というのが考えられます。

大海人皇子が挙兵したのが6月24日で、大友皇子が自殺したのが7月23日でその間約1か月です。

この1か月は、確かに長くはないですが、それでも周辺の地域が動くには十分な期間ともいえます。

それでも、周囲の地域の存在感が全くと言っていいほどないことを考えると、もう一つの可能性が出て来ます。

それは、この乱で戦いの行われた、畿内と近江こそが大和政権の勢力範囲だったのではないかというものです。

勿論この時点では、筑紫大宰府も大和政権の勢力下だったのですが、九州の勢力を倒す前の大和政権は畿内+近江だったのではないかと思うのです。


それにしても、西側は見事なまでになんの動きもないんですよね。


ではでは

壬申の乱開戦考

壬申の乱の開戦について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、壬申の乱前夜の大海人皇子の行動の疑問点についての記事でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本書紀』によれば、天智天皇から後継の打診を固辞し、出家した上で吉野に下ったという事になっています。

東宮すなわち皇太子であったとされる大海人皇子が、天皇位を辞退するという謎の行動をとったことになります。

これは、天智天皇かなの話は、実際には大友皇子への後継指名であり、自らの身の危険を感じた大海人皇子が吉野に逃れたのだと考えました。

それを、さも天智天皇からの禅譲を固辞したという、天武系から見ればいい話にしているわけです。

開戦理由

 出家して吉野に下った大海人皇子ですが、翌年には反旗を掲げ壬申の乱を起こすことになります。

その発端について『日本書紀』によると、朝廷が美濃・尾張の二つの国司に、天智天皇の墓を作るための人夫集めさせていたのを、兵を集めているようだと知らせたものがいた、という話になっています。

それを聞いた大海人皇子が、調べさせた結果、どうも本当のようだという事で、挙兵することを決めます。

反応が過敏ではないか

 この話、よく考えると大海人皇子側の反応が、いささか過敏ではないかと思えます。

美濃・尾張で墓造りのために集められている人たちが、兵隊のようだというだけで、別に吉野に向かって進軍してきているわけでも何でもないのです。

上の話の続きとして、知らせた人物の、「これは大事が起こるに違いない」、という意見のようなものがありますが、それにしてもです。

それで様子を見るならともかく、いきなり挙兵するというのは、条件反射にすぎるような気がするのですが。

影法師に驚く

 これは、宮本武蔵宝蔵院流の日観の話に似ているような気がします。

宮本武蔵が、日韓が畑仕事をしている横を通りかかった時に、畑仕事の鎌が自分に向かってくるように感じて、思わず九尺(3メートル弱)あまりも飛んで通り抜けたのです。

それを日観は、「あの殺気は影法師じゃよ。つまり、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたことになる。」と看破します。

大海人皇子も、やる気満々だったから、美濃、尾張の集団が自らを攻める兵に見えてしまったのです。

やはり美談ではなかった

 やはり、大海人皇子天皇禅譲の固辞と吉野下野は、美談でも何でもなく、『日本書紀』編纂のシナリオに沿った話だったのです。

身の危険を感じ吉野に逃げたものの、折あらばと虎視眈々と狙っていたところに、美濃、尾張の話が飛び込んで来ます。

それに対して、打てば響くように挙兵をしたという事なのでしょう。


 禅譲を蹴って出家した翌年に反乱の挙兵という話は、無理筋ですよね。


ではでは

大海人皇子の行動の謎

大海人皇子の行動について考えた話です。

 

 

後継争い

 大海人皇子は、前回まで見て来た天智天皇の同母弟になります。

その大海人皇子は、天智天皇の亡き後に、その皇子の大友皇子壬申の乱で倒し、天武天皇となります。

こう書くと、ありがちな後継争いという感じがします。

しかし、『日本書紀』でのその記述をみると、奇妙な点もみられます。

今回は、そのあたりを考えて見たいと思います。

後継指名を蹴った

 『日本書紀』の天武天皇紀によると、天智天皇が病床に大海人皇子を呼び、鴻業(天皇の仕事)を託そうとします。

これは実質的に後継指名の意思を示したと取ってもいいでしょう。

それに対して大海人皇子は固辞し、皇后への譲位と大友皇子を皇太子にすることを進言し、自らは出家して功徳を修めると答えました。

天智天皇はそれを聞き入れ、大海人皇子は即日に出家をし吉野に下ります。

皇太子なのに

 このような経緯で大海人皇子は、出家して吉野に下ることになるのですが、この話には奇妙な点があります。

天智天皇の病床に呼ばれた時点で、大海人皇子東宮と書かれています。

東宮というのは皇太子のことです。

という事は、大海人皇子は皇太子でありながら天皇位を蹴ったことになります。

その内容は、自らその任にあらずと考えて身を引いたとも取れる記述となっています。

しかし、現実には、その翌年に壬申の乱を起こしているのです。

そのまま天皇になっても良かったのではないでしょうか。

大友皇子が後継だった

 天智天皇の病床での話は、実際には、後継を大友皇子にするからよろしく頼むという話ではなかったかと思います。

それを聞いて大海人皇子は、身の危険を感じたのでしょう。

このあたりのことが、蘇賀臣安麻侶に「発言に気をつけろ」と密かに伝えられた、という記述に反映されているのかもしれません。

その場で出家することを申し出ることで、身の安全を図ったのだと思います。

そして吉野へ下り、機会をうかがったという事になります。

出家して功徳を修める気など無かったのです。

これも『日本書記』だからか

 これも、やはり徳のない天智系から有徳の天武系への継承というシナリオで造られたものなのではないでしょうか。

大海人皇子は皇太子であったにもかかわらず、大友皇子に後継の地位を奪われることになり、野に下って壬申の乱を起こします。

天智天皇崩御後に、記録はありませんが実際には大友皇子が即位していたのかもしれません(明治時代に弘文天皇を贈られています)。

そうなると、壬申の乱は、単なる後継争いではなく、天皇に対して反旗を翻したものと言うことになります。

大海人皇子は、簒奪者ということになります。

それを、さも天智天皇からの禅譲を固辞したという、天武系から見ればいい話にしているわけです。


 血族が争うと、なかなかに血生臭いですよね。


ではでは

庚午年籍考

庚午年籍について考えた話です。

 

 

最初の戸籍

 「庚午年籍」は、古代日本で最初に造られた戸籍とされています。

日本書紀』の天智9年(670年)二月に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」との記述があります。

天智9年(670年)が庚午の年であることから、この時造られたものが「庚午年籍」という事のようです。

日本書紀』には上の記述しかないので、天智天皇が「庚午年籍」と呼んだのかどうかは定かではありません。

その後の幾つかの記録の中で、「庚午年籍」という名称が使われている例があるようです。

何が造られたのか

 いずれにしても、戸籍を造ったのは確かなようですが、問題は何の戸籍が造られたかです。

何しろ、二月にいきなり「戸籍を造り」ですよ。

これが全国の戸籍を造ったとするならば、そんなに簡単に出来るのかという疑問が生じます。

これが「作成を命じた」のようなことであれば納得できそうですが、いきなり「造った」というのはどうなんでしょう。

作成を命じても、全国にそれを伝えるだけでも二月が終わりそうです。

しかもその続きが「盗賊と浮浪とを断ず」です。

全国の戸籍を造る目的が、盗賊と浮浪者の取り締まりというのは、ちぐはぐな気もします。

近江大津宮の戸籍?

 という事で、『日本書紀』のこの記述を読んだ時には、これは全国の戸籍などではなく、この三年前に移った近江大津宮の戸籍を造ったのではないかと思ったのです。

であれば、「盗賊と浮浪とを断ず」という記述も、出来たばかりの都の治安を維持するためと考えれば、違和感のないものになります。

最初の戸籍などという大げさなものではないんじゃないかなと、妄想していました。

それなりのものが

 ところが調べてみると、それなりの根拠のあるものでした。

戸籍に関しては、全国的なものがこの後の持統天皇四年(690年)から造られ始めます。

それ以降6年ごとに作成されるようになります。

その造られたものの取り扱いについて、律令の令についての解釈がまとめられた『令義解』に、直近5回分を残すように書かれ、加えて「近江大津宮庚午年籍は廃棄しない」とあるのです。

つまり、「庚午年籍」はその後の全国的な戸籍と同列に扱われ、なおかつ永久保存とされていたという事になります。

近江大津宮だけの戸籍を、永久保存するのは意味がなさそうです。

前回の話と同じ

 実際には、その後の全国的な戸籍と同列に扱われるようなものが造られていたにも関わらず、『日本書紀』での扱いはあまりにもそっけないものと言えるでしょう。

これも、前回の記事で考えた、『日本書紀』を編集した天武系からの天智天皇の不当な取り上げ方の一環なのかもしれません。

 

yokositu.hatenablog.com

 

なぜ永久保存?

 それなりなものが造られたという事のようですが、どうして永久保存なのでしょう。

これについては一般的には、「氏姓を確認する基本資料とされた」ためと考えられています。

始めて纏められたから、最も遡れる基本資料というわけです。

これを、本ブログで採っている、邪馬台国が分裂して大和政権と九州の勢力に分かれたという立場から考えるとどうでしょう。

その九州の勢力を倒したのが天智天皇だと考えています。

という事は、その天智天皇が造った戸籍は、全国的な規模のものだったとすると、初めて旧九州勢力の勢力範囲を網羅したものだったことになります。

これこそが、永久保存とされた理由だったのではないでしょうか。


 とはいいながら、「庚午年籍」は、現在では影も形もなくて確認できないのが残念です。


ではでは

天智天皇考

天智天皇について考えた話です。

 

乙巳の変の勝者

 前々回は、乙巳の変の影響についての話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

乙巳の変蘇我氏の力が削がれたことが、九州勢力との戦い、ひいては白村江の戦いへと向かう遠因になったのではないかという事でした。

渡来系の勢力との関係が深かったと考えられている蘇我氏は、その関係から、九州の勢力ともパイプをもっていたと考えられます。

それを、乙巳の変蘇我氏が排除されることにより、失ってしまったことが、九州勢力を脅威と考えることになったのではないかというわけです。

その乙巳の変の勝者と言っていいのか、首謀者が中大兄皇子後の天智天皇です。

蘇我氏は穏健派

 ところで、乙巳の変で敗れ去った蘇我氏ですが、上にも書いたように渡来系の勢力と関係が深かかったと考えられています。

本ブログでは、大和政権が渡来系の勢力を国づくりに採り入れるりいれることにより、その優位性を確立したと考えています。

その渡来系の勢力と関係性が深かった蘇我氏は、権力を握った時点では、どちらかと言えば現状肯定的な穏健派であったと思われます。

それまで国を発展させてきた状況に上手く乗って来ているわけで、それを自ら否定するという事は考えにくいですから。

天智天皇は急進派?

 その蘇我氏を排除したという事ですから、その首謀者の天智天皇は、現状否定の急進派という事になります。

確かに、その後の出来事を見ていると、そうなのかもと思わせるものはあります。

百済からの要請に基づいて、いきなり九州へ侵攻をしていますし、その後白村江の戦いまで一気に突き進みわけですから。

ここまで見ると、急進的な現状否定のように思えます。

そのために、穏健路線の蘇我氏が邪魔だったから乙巳の変で排除したように見えます。

白村江の戦いで敗れた後は

 しかし、白村江の戦いに敗れた後はそうでもなくなります。

各地に大宰や城を造るとともに、都を近江大津宮に移します。

特に近江大津宮については、現在の大津市で琵琶湖の沿岸に位置し、明らかに攻められた時に水上に逃げることを意図していると考えられます。

つまり、唐、新羅の連合軍がせめて来ることへの対応がメインという事になります。

この対応を見ると、とにかく蘇我氏を排除たかっただけで、その後のことはあまり考えていなかったとも言えそうです。

たまたまその直後に百済が滅んでしまったために、白村江の戦いまで突っ走ってしまったのかもしれません。

日本書紀』の記述なので

 こう見てくると、天智天皇は勢いで白村江の戦いに負けてしまっただけの天皇のように見えます。

ただし、これは『日本書紀』の記述によるものだという事を考える必要もあります。

日本書紀』は、天智天皇のあとを受けた、天武天皇持統天皇2代の記述で終わりますが、持統天皇から文武天王への禅譲がその最後を飾ります。

明らかに天武系の天皇の正当性を示すのが、編纂された目的の一つだったわけです。

そのため、その天武系の前の天智天皇の取り上げ方が厳しくなったという可能性も排除できません。

天智天皇は徳が無かったが、それを継いだ天武系はこんなに優れているというわけです。


 乙巳の変を見ても、ここ一番の決断力はあったと思うのですが。


ではでは

乙巳の変の影響考

乙巳の変の影響について考えた話です。

 

 

乙巳の変もあった

 ここしばらく、白村江の戦いの前後辺りの歴史について考えています。

九州にあった邪馬台国が、大陸の動乱(五胡十六国時代)を避けて、畿内に東遷したグループと九州に残ったグループに分かれたという仮説がベースになっています。

畿内に移ったグループが大和政権となり、九州に残ったグループは、現状の日本史の教科書では出て来ませんが、白村江の戦いの直前まで一定の勢力として存在していたと考えています。

その好太王の碑文にある倭による侵攻、倭の五王、遣隋使、初期の遣唐使、は全て九州の勢力が行ったという事になります。

その九州の勢力を、白村江の戦いの直前に大和政権が攻め滅ぼしますが、その後、唐、新羅に白村江で敗れてしまうわけです。

ところでこの流れだと、日本史の教科書的には、大和政権側の大きな出来事が抜けています。

乙巳の変です。

乙巳の変大化の改新

 乙巳の変は、645年(この年が乙巳の年なのでこう呼ばれていいるようです。)に中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏を滅ぼした事件です。

ところで、私が学生だった時に「乙巳の変」というのを習った記憶はありません。

そのころには、「大化の改新」と習いました。

調べてみると、現在では蘇我入鹿の暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、それ以降に行なわれた政治改革を「大化の改新」と呼び分けているようです。

どうやら最近は、「大化の改新」の実存性が疑われており、「大化の改新」が否定されても、蘇我入鹿の暗殺事件は残るため、その部分だけを「乙巳の変」と呼んでいる、という事のようです。

蘇我氏

 乙巳の変で滅ぼされた蘇我氏ですが、ウィキペディアによると、

王権の職業奴属民としての役割を担っていた氏族の管理や国外との外交に対する権益を持っていたとみられ、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。
引用元:

蘇我氏 - Wikipedia

 

という事で、本ブログで考えている、大和政権が伸長する要因となった大陸からの渡来人を背景にして権力の座についていた氏族のようです。

暗殺された蘇我入鹿の頃に全盛期で、ほぼ一強状態だったとされています。

蘇我氏が滅亡して

 本ブログでは、九州の勢力が一貫して大陸に向かっていたと考えています。

これは見方を変えると、渡来系の勢力の影響力が強かったとも考えられます。

その九州の勢力と、大和政権の外交に対する権益を持ち、かつ渡来系を率いていたと考えられる蘇我氏は、陰に陽に繋がりがあったとしても可笑しくありません。

蘇我氏が滅亡することで、そのパイプが無くなってしまったと考えられます。

そんな状況の中で、百済が、唐・新羅によって滅ぼされてしまいます。

蘇我氏のパイプがなか無くなってしまったことで、その後の唐・新羅・九州の勢力連合の意向を確認することが出来なかったという事なのかもしれません。


 情報不足の疑心暗鬼からの過剰反応が、九州勢力を滅ぼし、その後の白村江の戦いでの敗戦の原因だったのかもしれません。

 
ではでは

白村江で敗れて

白村江の戦いで敗れた後の話です。

 

 

前回の話

 前回の話は、大和政権が九州の勢力に対して戦いを挑んだ背景についてでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

大和政権の勢力下にある勢力の関係は、これまで考えられてきたような中央集権的なものではなく、中国と周辺国との間の冊封体制のような関係だったのです。

その結果、百済が滅び、唐・新羅・九州勢力の連合軍による侵攻の可能性が出て来た時に、宗主国的な立場の大和政権としては、自ら戦う他は無かったというわけです。

その結果、伊勢王、斉明天皇の政権中枢部を失いながらも、九州勢力を滅ぼしたと考えられるのです。

大和政権の過剰反応?

 ところで九州の勢力は、中国側の歴史資料から見ると、その関心が一貫して大陸へと向かっていたと考えられます。

そう考えると、唐・新羅・九州勢力の連合軍による侵攻の可能性と書きましたが、九州の勢力は、実際には侵攻する気は無かったのかもしれません。

歴史的に見ても、白村江の戦いの後に、唐・新羅が攻めて来るという事も無かったわけですし。

このあたりは、中国との交流があまりなかった、大和政権の過剰反応だったのかもしれません。

敗れた後は

 ともあれ、大和政権は、九州の勢力の排除に成功しますが、その後の白村江の戦いで敗れてしまいます。

そうなると、あとは防衛モードへ一直線です。

連合軍は、九州、瀬戸内海と侵攻してくる可能性が高いことから、それを迎え討つための防御施設が造られました。

具体的には、筑紫大宰、吉備大宰、周防総領、伊予総領です。

この中では、のちの筑紫大宰の水城などの構造物が有名です。

大宰と総領

 筑紫大宰は、のちの大宰府であることは間違いないでしょうから、大宰というのは大和政権が作ったものという事になります。

そうなると、総領というのは大和政権以外の、冊封国が作ったっものではないかと考えられます。

造られた当時は、それぞれに違った名称だったと思われますが、『日本書紀』作成にあたって、大和政権が造ったものとして、律令制定により作られた官名を当てたのではないでしょうか。

その上で、大和政権が造ったものには大宰、そうでないものは総領としたのではないでしょうか。

全て大和政権が造った大宰とするのは、憚られたという事なのかもしれません。

2か所の大宰

 ここで注目したいのが、大和政権が造った大宰が、2か所しかないという点です。

畿内に無いのは、本拠地である以上、当然防衛体制は整っていたはずなので問題ないとしても、そこに至るまでに2か所というのは、いかにも少ないように思えます。

総領の2か所によって、一応の形が出来たとも言えそうです。

欲を言えば、四国にもう一か所あってもいいような気もします。

逆に言うと、大和政権には筑紫と吉備にしか造れなかったという事なのかもしれません。

筑紫は攻め滅ぼした地ですし、吉備は神武東征の時に三年留まったことからも分かるように、非常に緊密な関係を持った地域です。

近畿の周辺以外には、そのぐらいしか造れる場所が無かったのです。

それ以外は冊封的な関係の地域であり、その中でかろうじて周防と伊予が、侵攻経路になる恐怖感からか協力したという事なのかもしれません。

大和政権が全国に号令をかけて防衛体制をとる、というような立場では無かったのです。


 国内の覇権をねらうのはまだしも、なに唐と新羅なんかにちょっかいを出してるんだよ、と思っていた人達も多かったのではないでしょうか。


ではでは

大和政権と冊封的体制

大和政権と冊封的体制についての話です

 

 

前回の話

 前回は、邪馬台国から分かれたと考えている、畿内の大和政権と九州に残った勢力の関係についての話でした。

 

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いずれの勢力も、大陸からの人々を取り入れることにより、大陸の先進的な知識や文化を持ち、周囲に対する優位性を持ったと考えらえます。

その優位性を基に、中国と周辺国の間にあった冊封体制のような関係が、2つの勢力を中心に出来上がっていきます。

軍事力に関しては、邪馬台国の東遷時に多数が残った、九州の勢力の方が当初は圧倒的に強かったはずです。

それにも関わらず2つの勢力が、白村江の戦いの直前まで併存していたのは、ひとえに九州の勢力の関心が一貫して大陸に向かっていたからだと考えました。

なぜ性急な行動をしたのか

 上にも書いた白村江の戦いの直前に、大和政権が九州の勢力を攻め滅ぼしたと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

この記事の中で、大和政権が畿内に留まって守りに徹するのではなく、性急とも思える攻勢に出たのかという疑問を呈しました。

それに対する回答は、大和政権が中央集権的なものではなく、各地の勢力の集合体のようなものであり、雪崩的に崩壊する危険性があると考えたからだとしました。

この各地の勢力の集合体のようなもの、というのが前回の記事で考えた冊封的な体制という事になります。

冊封的な体制だから

 冊封的な体制のだと考えると、大和政権の動きが納得出来そうです。

日本書紀』の記述を見る限り、九州へは斉明天皇以下の大和政権のみが赴いています。

それ以外の地域の勢力に軍事力を要請したという形跡はありません。

もし中央集権的な体制であれば、あまりにも不自然です。

しかし、冊封体制のようなものであれば、軍事力の要請がなくてもおかしくはなさそうです。

細かい話をすると、本家中国の冊封体制では、理論的には冊封を受けた国に軍事的な要請が出来ることになっていたようですが、実際には理念的なものだったようです。

冊封を受けた側からは

 さらに冊封を受けた側から見れば、別に宗主国に対して絶対的な隷属関係のようなものを考えていたわけでは無いはずです。

日本が、遣隋使、遣唐使と続けて朝貢しているのを見ても明らかなように、宗主国と運命を共にするわけでは無く、その時々の王朝に冊封を受けているだけなのです。

これと同じことが言えるのではないでしょうか。

大和政権でも、九州の勢力(その背後に唐、新羅がいたとしても)のどちらでもよかったのです。

大和政権は、唐・新羅・九州の勢力の連合軍に対して、存続を賭けて自ら戦う必要があったのです。


結構、大和政権は崖っぷちだったと言えるかもしれません。


ではでは

畿内の勢力と九州の勢力

畿内に東遷した勢力と九州に残った勢力の関係について考えた話です。

 

 

畿内に大陸からの人々が

  前回まで数回に渡って、畿内に移って来た大和政権が、どのようにして勢力を拡大していったかを見てきました。

国としての形を造り上げるため大陸の人的資源を受け入れ、結果として先進的な優位性を獲得することになります。

その先進性を求めて、中国と周辺国の間にあった冊封体制のような関係が、大和政権を中心として出来上がっていたのではないかと考えました。

「漢委奴国王」の金印の時代から多くの朝貢をしており、先進的な優位性のある勢力との間の冊封という考え方は、理解できるものだったはずです。

九州にも大陸の人々が

 ところで、大和政権は邪馬台国が九州から東遷したものと考えていますが、同時にそのほとんどが九州に残ったとも考えています。

そして大陸からの人々も、少なくない数の人が存在していたと思われます。

遣隋使に対して中国から送られた裴世清の報告に、九州に上陸した後の記述に「秦王国は中国人の国だ」とあるのを見ても、その後も多くの人々がやって来たことがうかがえます。

ということは、畿内の大和政権が獲得した優位性を、九州の勢力も持っていたという事になります。

2つの勢力の関係は

  つまり、九州の勢力も畿内の大和政権と同様に、冊封体制の中心となってもおかしくないのです。

実際にも、九州や西日本の一部とはそういう関係にあったのかもしれません。

また、もともと邪馬台国の大部分が残ったと考えているので、軍事力も最初からそれなりにあったはずです。

そうなると、東遷からしばらくは、九州の勢力の方が優位だった可能性が高いのです。

しかし、歴史を見てれば明らかなように、最終的には九州の勢力は敗れ去ることになります。

国内は見ていなかった

 その最大の要因は、九州の勢力の関心が一貫して大陸に向かっていたからではないでしょうか。

大和政権を作った人々が東に去った後、九州に残った勢力が採った戦略は、朝鮮半島への侵攻でした。

九州の勢力では、大陸からの人々の力が強く、失った地を回復することが最大の目標という事になったのかもしれません。

「広開土王碑」に記録されているように、朝鮮半島を攻め上がりますが、最後は高句麗に敗れます。

その後は、「倭の五王」、遣隋使、初期の遣唐使と、中国への朝貢外交に転じます。

あくまでも、大陸との関係を重視していたことが分かります。

このことが、軍事力の弱かった東遷後の大和政権が、命脈を保ち勢力を広げることが出来た原因だったのでしょう。


 九州に残った大陸からの人々にとって、日本のような後進的な地は興味無かったのかもしれません。


ではでは

大和政権の勢力拡大と古墳

大和政権の勢力拡大と古墳の関係について考えた話です。

 

 

謎の四世紀だから

 前回の記事では、大和政権がどのように全国に勢力範囲を拡大したのか考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

大和政権の勢力拡大には、軍事的なものによるのではなく、大陸の先進的な知識、文化による優位性によって冊封体制のようなものが形成されたことによるものではないかという話でした。

一応話としては、致命的な破綻は無いと思うのですが、何しろ対象となる時代がおおむね「謎の四世紀」で、ほぼ文献的な裏付けもなく、妄想全開です。

さすがに妄想のままではと思うので、今回は現物の存在する古墳との関係から考えて見たいと思います。

古墳時代

 古墳と言えば、三世紀中頃から七世紀末に盛んに造られ、この時代を古墳時代と呼んでいます。

さらに古墳の形状から言えば、全てではありませんが、前方後円墳が広く造られるようになる過程と言ってもいいでしょう。

前方後円墳については、以前卑弥呼の墓へのオマージュとして造られ始めたという記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

当然、邪馬台国が東遷した畿内でも、最初期から造られていたはずです。

その前方後円墳が、先進的な知識、文化を象徴するものの一つとして捉えられたという事なのではないでしょうか。

副葬品から

 古墳時代は、一般に四世紀頃の前期、五世紀頃の中期、六世紀頃以降の後期の3つの時期に分けられます。

前回までの記事で考えて来た大和政権の勢力拡大は、おおむね「謎の四世紀」の出来事ですから、ほぼ古墳時代前期の話と考えられます。

この前期の古墳の特徴の一つとして、その副葬品が呪術的と考えられているな鏡・玉・剣・石製品のほか、鉄製農耕具が見られるという事が挙げられます。

冊封体制のようなものという事で、各地の豪族のような権力者が大和政権へ使者を送り帰属を表明し、それに対して上記のようなものが贈られたのではないかと考えらえます。

さらに、遣隋使や遣唐使にもみられるように、畿内に先進的な知識を学ぶために送られた者もいたはずです。

彼らが、前方後円墳も含めてそれ等の技術を持ち帰ることで、全国に広まっていったのでしょう。

大和政権が、支配被支配の関係の中で強制したものではなかったと考えられます。

そうするだけの軍事力は無かったと思われるからです。

そのことが、副葬品に武器以外のものが多いことに反映されているのです。

中期になると

 その古墳の副葬品は、古墳時代の中期になると馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなります。

このことは、大和政権が次第に富国だけでなく強兵へと舵を切ったことを反映していると考えます。

それに伴い、大和政権から下賜されるものが軍事的なものになっていきます。

さらに、大和政権の軍事力増強を見て、各地域も同じように増強を図ったと考えられます。

その結果が、副葬品の軍事品化という事なのだと思います。


 軍事力強化の現れが、継体天皇の御代の磐井の乱の話という事なのではないでしょうか。


ではでは

大和政権の勢力拡大の実際

大和政権の勢力拡大の実際について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事は、大和政権が最終的に全国に勢力範囲を拡大した要因についてでした。
 

 

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熊野の勢力の応援があったとはいえ、比較的小さな集団で畿内に拠点を構えた大和政権は、その国造りのために大陸から人々を積極的に取り込んだのではないかと考えました。

これにより人的な数の面だけでなく、大陸の先進的な知識、文化なども導入することになります。

これによるその他の国々に対する優位性こそが、大和政権の勢力拡大の要因だったのではないかという話でした。

武力によるものだったのか

 大陸の先進的な知識という事ですぐに思いつくのは、軍事的な知識でしょうか。

同時代的に大陸は五胡十六国の動乱期ですし、少し前には諸葛孔明の活躍した三国志の時代もあったりと、大陸の軍事的な先進性は疑うべくもないでしょう。

その先進的な軍事知識でもって九州を除く全国を勢力範囲に収めていったのかというと、そうでもないのではないかと思うのです。

神武東征での一旦撃退される話から明らかなように、熊野からの軍勢を含めても、畿内の勢力を一蹴するほどの力も無かったという事になります。

勿論、畿内の近隣地域との間の争いもあったとは思います。

しかし、そのまま全国に侵攻して、覇を唱えるのは考え難いと思われます。

やはり、知識だけではなく、それを実行に移すだけの人員も含めた物量という絶対的な軍事力が必要だという事なのでしょう。

これは、大陸からの人々を取り込んだとしても、短期間で解決できる問題では無かったはずです。

それに代わるものは

 それに代わるものが、大陸からの人々によりもたらされた、軍事的なものも含めた知識、文化そのものだったのではないかと思うのです。

先にも書いたように、それらのものを取り込んで国づくりを行っていった結果、大和王朝は、他の地域に比べて先進的な国になります。

それを見て他の地域の国々は、それを取り入れたいと思ったはずです。

または、取り入れないと将来的に攻め滅ぼされると、危機感を持った国もあったかもしれません。

その結果、中国と周辺国に在った冊封体制のようなものが形成されたのではないでしょうか。

大和王朝から地域の支配者として承認され、先進的な知識、文化を提供されるのです。

これは、直接攻められていない日本から中国に朝貢したことからも分かるように、武力による侵攻がなくても成立するシステムです。


 提供された、または取り入れたかったものの中に前方後円墳もあり、全国に広まったという事になります。
 
 
ではでは

大和政権の勢力拡大の要因

大和政権の勢力拡大の要因について考えた話です。

 

 

前回までの話

 前回まで神武東征について考えてきました。

 

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本ブログでは、神武東征の話は邪馬台国の東遷を基にしていると考えています。

そのことを前提にして考えると神武東征は、吉備に逃れて来た少数の邪馬台国中枢の人々に、熊野の勢力が力を貸すことで可能になったのではないか、というものでした。

東征(東遷)はしたが

 東征(東遷)を果たしたわけですが、上に書いたように熊野の勢力の力を借りて達成されたものでした。

その経過も、大阪湾に上陸して攻め込むも一度撃退され、紀ノ川経由で迂回し、搦め手ともいえる宇陀方面から攻略しています。

つまり、圧倒的な力で攻め取ったわけでは無く、むしろようやく勝利したといってもいいかもしれない結果です。

この状況から考えて、その後に周辺に向けて軍事行動を起こして、勢力を拡大するというほどの力は無かったのではないかと考えられそうです。

それ以前に

 東遷して来た邪馬台国の人々は少数だったっと考えてきたわけですから、熊野の勢力の助けを借りるとしても、東遷時の短期的な戦いはともかくとして、長期的に国としての形を整えるのも大変だったと考えられます。

圧倒的に、人材が不足していたと考えられるのです。

そこで利用したのが、大陸の人々だったのではないでしょうか。

そもそも東遷の理由が、五胡十六国という大陸の混乱が海を渡ってやってくることを恐れて始まったのでした。

そしてその東遷を推進したのは、邪馬台国の中枢に入り込んだ大陸から亡命して来た人たちだったと考えたわけです。

彼ら以外にも沢山の人間が逃げて来たはずで、それらの人々を取り込んで、国を造り上げていったのではないでしょうか。

大陸の人間を採用したから

 その結果が、以前の記事でも取り上げた、この時代のDNAに見みられる、大陸の影響なのでしょう。

 

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この記事の中では、大陸からの亡命者が大和政権の中枢部にいることをみて、大陸から人が渡って来たのではないかとしました。

そういった流れもあったかもしれませんが、今回考えた東遷時の状況からは、より積極的に大和政権が大陸の人材を採用していったのではないかと考えられそうです。

渡って来るのを待つだけではなく、呼び寄せるといったこともあったかもしれません。

しかも、このブログでも何度か取り上げているように、当時の大陸と日本との文化のレベルの差は、かなりのものがあったはずです。

その大陸の人材を登用して国づくりを行ったわけですから、当時のその他の国に対するアドバンテージは小さくなかったと思われます。

このあたりが、少数で東遷したにも関わらず、結果として大和政権が勢力を拡大した要因なのではないでしょうか。


 これ、九州にも大陸からの人々がいたわけで、九州の勢力がこの後長く続く要因でもあるかもしれません。


ではでは

神武東征と邪馬台国東遷・後編

神武東征と邪馬台国東遷につい考えた話・後編です。

 

 

疑問と回答

 前編、中編と、邪馬台国東遷を基にしたと考えている『日本書紀』神武東征の疑問点についてみてきました。

 

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疑問点は以下のようなものでした。

前編:少数であったと考えられる神武一行が、最終的に東征に踏み切ったのはなぜか。

中編:わざわざ紀伊半島を回り込んだ上で、熊野から攻め上ったのは不合理ではないか。

この二つの疑問を合わせて考えると、一つの仮説が浮かび上がってきます。

それは、熊野の勢力が力を貸すことで神武東征(邪馬台国の東遷)が可能になったのではないか、というものです。

吉備の時点で

 勿論神武東征の中では、熊野高倉下が剣を献じたとか、八咫烏が道案内をした、といったように熊野の勢力が力を貸したことを示唆する記述があります。

しかし、ここでいう熊野の勢力の協力体制は、吉備に滞在している間に成立していたと考えます。

熊野の勢力が、畿内に攻め込みたいと思っていたのか、畿内からの圧力に危機感を抱いていたのかは分かりませんが、吉備に滞在している磐余彦尊(邪馬台国の中枢部)の一行に接触したのではないでしょうか。

一行の中にいる、大陸から来た人の軍事的な知識に期待したのかもしれません。

熊野の勢力からの協力の話に乗る形で、畿内への侵攻を決意したという事になります。

畿内に攻め込んだ軍勢の主力は、熊野からやって来たものだったのです。

紀伊半島は回らなかった

 畿内へ攻め込むのに最初から熊野の軍勢が参加していたとして、もう一度神武東征の経路を見てみましょう。

引用元:其の百 いざ!「神武東征」の古戦場へ!!(続編) - ryu-chun3 ページ!

 

最初の畿内への侵攻を跳ね返され名草に転進した時には、すでに熊野の軍勢は同行してしたのです。

その先の熊野へ至る航海は必要ないことになります。

その証左ともいえるのが、名草から新宮に至る経路についての記述です。

この紀伊半島をぐるっと回る部分については、全く記述がないのです。

名草を出ると、次は新宮の記述になってしまいます。

やはりこの部分の航海は無かったのではないでしょうか。

実際には、名草から紀ノ川をさかのぼって宇陀へ攻め込んだのでしょう。

熊野を無視は出来なかった

 ではなぜ、本来無かった熊野経由の話を組み入れたのでしょう。

それは、大和政権の建国神話である以上、あくまで磐余彦尊(神武天皇)が主役でなけれなばならなかったからです。

攻め込んだ軍の主力が熊野のものでは困るわけです。

とはいえ、熊野の貢献を無視することも出来ません。

そのためにひねり出されたのが、紀伊半島を回り込んだ上で熊野から攻め上がるという経路だったのだと思います。

攻め手の主力としてではなく、剣の献上や八咫烏(熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)を表すという説もある)による道案内という形にしたわけです。


 というわけで、神武東征(邪馬台国の東遷)は、少数の東征(東遷)組が熊野の勢力の力を借りて行ったものという事になります。


ではでは

神武東征と邪馬台国東遷・中編

神武東征と邪馬台国東遷につい考えた話・中編です。

 

 

少数で吉備を目指して

 前回の記事では、神武東征の話から、邪馬台国東遷の規模と目的地について考えました。

 

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途中の吉備に三年もの間留まったことから、規模については比較的少数であったろうとしました。

同様に目的地についても、当初は瀬戸内海の東の端を考えていたのかもしれないが、付いてくるものの少なさからとりあえず吉備を目指したのではなかったか、という話でした。

ではそんな一行が、なぜ東遷をすることになったのか。

そのことについて考える前に、今回は神武東征の経路について考えてみたいと思います。

神武東征経路

 先ず、神武東征の経路について簡単に見てみます。

磐余彦尊(後の神武天皇)は、「東有美地、靑山四周(東に美し国有り。青い山に四方に囲まれ。)」と聞いて、その地へ行くべく九州を発ちます。

その後、前回の記事で見たように吉備の地に三年とどまってから、さらに東へと進みます。

そして瀬戸内海の東の端、難波の碕に上陸し内陸を目指しますが、長髄彦に撃退されてしまいます。

そこで、「日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだ」と考えた磐余彦尊は転進します。

東から攻めるために、紀伊半島をぐるっと回って熊野へ至り、そこから宇陀を経て、畿内に攻め込むというルートを取り、長髄彦を倒すのです。

 

引用元:其の百 いざ!「神武東征」の古戦場へ!!(続編) - ryu-chun3 ページ!

色々と疑問が

 こうやってまとめると、艱難辛苦を乗り越えて見事目的を果たす、所謂英雄談という感じはします。

しかしよく考えると、色々と疑問もあります。

先ず、「東に美しい国が有る」という事で東征を始めたのに、長髄彦に苦戦すると一転、「東に向かって戦うのは天の意思に逆らう」として転進してしまう点です。

最終的に東の地に国を建てたのは、大丈夫なんでしょうか。

紀伊半島を回る

 次に東から攻めるために取った方法が、なんと紀伊半島を海路で回るというものだったというのは、よく決断したなとは思いますが、まあいいとしましょう。

ところが、回った結果上陸したのが熊野というのはどうなんでしょう。

そこまで来たのなら、そのまま北上して伊勢湾まで行き、そこから東に向かう方が自然のような気がします。

熊野に土地勘があるわけではありませんが、地図で見ても山がちで、畿内までの行軍が簡単ではないことが想像できます。

事実、東征の話の中でも途中で八咫烏に道案内をしてもらったりしていますし。

東から攻めるということであれば

 ここで、改めて上の図を見てみると、名草辺りから宇陀の方向に白く線を引いたようになっているのが分かると思います。

これは紀ノ川とその流域の比較的平坦な地形になります。

ここをさかのぼれば、紀伊半島を回らなくても宇陀に向かう事が出来そうです。

道路を歩くように簡単ではないでしょうが、熊野の山の中を行軍するよりもよさそうです。

そもそも東へ向かって攻めるのがまずいという事で、わざわざ紀伊半島を回って熊野まで行き、苦労して山の中を行軍にして、宇陀に攻め込んだわけです。

紀伊半島を回り込むような地理的な知識があったわけですから、紀ノ川周辺のことについても十分知っていたと思われますし。

普通に考えて、紀ノ川経由で行きそうなものですが。


以上、神武東征の経路に関しては色々と疑問があるのです。


前回と今回の様々な疑問を踏まえて後編につづく。


ではでは

神武東征と邪馬台国東遷・前編

神武東征と邪馬台国東遷につい考えた話・前編です。

 

 

神武東征と邪馬台国東遷

 本ブログでは、九州宇佐にあった邪馬台国が、畿内に東遷して大和政権となったという立場をとっています。

加えて、現時点では、邪馬台国が一丸となって東遷したわけでは無く、東遷した者と、九州に留まった者に分かれたと考えています。

そして以前の記事で、その東遷がもとになったのが、『日本書紀』の神武東征の話だとも考えました。

 

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今回は、その神武東征の話の内容を、分裂した邪馬台国による東遷という観点から検討してみたいと思います。

やはり一部の者だけが

 その神武東征ですが、東に向かう途上で吉備に3年間滞在して、船と兵量を準備したという記述が出て来ます。

このことからわかるのは、吉備に滞在したのが少数の人間だったのだろう、という事です。

何しろ3年間も滞在したわけで、何千とか場合によっては万で数えるほどの集団では、吉備が対応できるとは思えません。

それに、そんな集団が身近に存在しては、いつ何時寝首を掻かれるかもしれないわけで、吉備の側としては容認できないでしょう。

やはり邪馬台国の東遷は、一丸となって東に向かったわけでは無く、ごく少数の集団でおこなわれたと考えられそうです。

どこへ向かっていたのか

 我々は歴史の結果を見ているので、最終的に畿内に大和政権が出来たことを知っています。

したがって、邪馬台国畿内を目指して移動したと考えがちです。

しかし上で見たように、実際に東に向かったのは少数の集団の可能性が高いものでした。

そして、吉備に3年間留まったのです。

この吉備が目的地だったという事はないでしょうか。

確かに最初は、大陸からの侵攻を恐れて、瀬戸内海の東の端を目指していたのかもしれません。

しかし、その考えに共鳴する者の少なさから、取り敢えず東に逃げることにして、吉備を頼ったという事ではないのでしょうか。

今でいうところの、亡命政権のような立場だったのでしょう。

吉備の軍事力を借りてさらに東へというようなことも、考えていたのかもしれませんが。

吉備の対応

 そうして吉備にたどり着いたわけですが、それに対する吉備の対応はどうだったのでしょう。

先ず、3年間留まったわけですから、ひとまず一行を受け入れたことになります。

しかし3年間滞在して、準備したのが船と兵量ということで、軍事力の提供に関しては話が出て来ません。

にもかかわらず、神武東征、すなわち邪馬台国の東遷は行われたました。

なにがあったのでしょうか。


次回に続く


ではでは