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邪馬台国東遷と継体天皇(後編)

 邪馬台国東遷から、継体天皇の出自について考えてみた話(後編)です。

 

 

継体天皇は九州出身

 前編で、後に継体天皇となる男大迹王は、九州の出先機関を統べる応神天皇の子孫だったのではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

男大迹王が、九州で代を重ねてきた系統の子孫だと考えれば、継体天皇応神天皇の5世の孫という記述も、あながちでっち上げでは無い事になります。

こう考えると、今回の一連の継体天皇に関する最初の記事で書いたように、NHKの番組での継体天皇像を、説明出来るんじゃないかと思った訳です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

番組での継体天皇

 ここで改めて、番組での継体天皇像を確認しておきます。(話の都合で前回とは一部順序を変えています)

  1. 武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、越前にいた応神天皇の5世の孫、男大迹王(をほどのおおきみ)を招いて、継体天皇として擁立した。
  2. 男大迹王は、越前を治め、近江、尾張とも関係が深い、有力な豪族だった。朝鮮半島との関係も深かった。
  3. 河内で即位したのち、大和に入るまで20年近くかかったのは、地方豪族の即位に反対した勢力がいたから。ただし、反対勢力に対抗できるようになるため、わざと入らなかったとも考えられる。
  4. 継体天皇が、天皇として初めて横穴式石室に葬られ、その棺は、九州で産出する阿蘇ピンク石で作られていた。始めて、大陸で行われている、国際的スタンダードを取り入れた天皇だった。
  5. 大和に入った後、すぐに磐井を叩いたのは、もう一度大和政権への求心力を高めるため。


九州出身による説明

 先ず、1.に関しては、前編で書いたように、九州にいた応神天応の5世の孫だったという事になります。

次に、2.の、越前を治め、近江、尾張とも関係が深い、有力な豪族だったというのは、正面から反旗を揚げるのではなく、裏口とも言える、日本海側、東海など、周辺の勢力と連携をしたという事では無いでしょうか。

朝鮮半島とも関係が深かったというのは、元々朝鮮半島政策の最前線を九州で担っていたのですから、当たり前という事になります。

ひょっとしたら、朝鮮半島との関係から、日本海側の勢力とつながりが出来たという事も有るかもしれません。

3.の、河内で即位したのち、大和に入るまで20年近くかかったのは、地方豪族の即位に反対した勢力がいたから、と言うのはその通りでしょう。
周辺の勢力と連携したのち、物部氏と大伴氏と共に反旗を翻したが、葛城氏らの勢力とのせめぎあいが続いたという事だと思います。

4.の、天皇として初めて横穴式石室に葬られ、その棺は、九州で産出する阿蘇ピンク石で作られていた、というのは、九州出身だと考えれば、納得し易いでしょう。
特に、横穴式石室に関しては、この頃になると、九州では支配者層が取り入れる程に、社会に受け入れられいたという事でしょう。

磐井の乱

 最後に、5.の、磐井の乱ですが、これだけは、出身母体をなぜという事になります。

これに関しては、元々男大迹王と九州の実力者磐井との思惑に違いが有ったのか、それとも、20年近くの時間の中で、考えが変質したのかは分かりませんが、大和に入ったころには、その対立が決定的になっていたという事だったのではないでしょうか。
そのため、大和に入るとすぐに口実を作って、磐井を討ってしまったという事なのだと思います。

そのことを示すかのように、『古事記』では、磐井の乱に関して、「命に従わず、無礼が多かったので討った」程度の記述しかなく、乱というほどのものでは無く、言いがかりとも言えるものだったとも思えるものになっています。


 という訳で、これまで継体天皇で王朝が変わったのではないかと思っていたのですが、応神朝の中での勢力争いだったという事になりそうです。


 ではでは

 

 

 

邪馬台国東遷と継体天皇(前編)

 邪馬台国東遷から、継体天皇の出自について考えてみた話(前編)です。

 

 

邪馬台国東遷

 前回の記事で、大和政権は、九州に有った邪馬台国が、畿内に東遷し、それを指導した応神天皇から始まった、というのが現状での私の仮説だという事を書きました。

 

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そもそも、邪馬台国の東遷については、中国における、西晋が滅亡した後に出現した、五胡十六国と呼ばれる大動乱時代の影響を避けるべく、大陸から離れた畿内に移ったのが原因と考えた訳です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ここで改めて、東遷について、確認しておきたいことが有ります。

それは、邪馬台国畿内に移動したとはいっても、江戸時代の藩の国替えのように、一族郎党うち揃って移り住んだのでは無いという事です。

東遷と九州

 ここで、その東遷によって、出発地の九州はどうなったかを考えてみたいと思います

まあ、邪馬台国は、元々九州を拠点としており、敵地に攻め込んでいたのでは無いので、退き戦というのでは無い訳です。
それでも、東遷している途中で、大陸から攻め込まれ、追撃を受けるような事態になるのは避けなければなりませんから、九州に後備えを残しておいた筈です。

さらに、東遷が完了した後には、現代でいうところの縦深防御の最前線の防御を担当することになる訳で、間違っても、大陸からの勢力と呼応するようなことが有ってはなりませんから、信頼できる者を残しておく必要があります。

もっとも考え易いのは、東遷の指導者応神天皇の子息という事になるでしょう。

そう、九州には、邪馬台国が東遷して大和政権が成立してからも、応神天皇の子孫を歴代のトップとする、出先機関とも言えるものが存在したのではないかと考えられのです。

九州の出先機関と大和政権

 その後、大和政権は、広開土王碑の記述にみられるように、朝鮮半島への関与を強めた後に、高句麗に敗れることになります。

そして、倭の五王による朝貢に見られるように、一転して、中国との関係の中で、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に、方針転換をしました。

 

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この間、九州の出先機関は、当然当初は、朝鮮半島に対して最前線で関与していたはずです。
しかし、方針転換後は、脇に追いやられた格好になったと考えられます。

当然不満があったはずで、そんな中、大和政権が弱体化したのを機に、政権の奪取を画策したのではないでしょうか。

そうした時に、当然行動の旗頭は、九州の出先機関の中でトップとして引き継がれてきた、応神天皇の子孫という事になります。
ちなみに、後に「磐井の乱」で登場する磐井は、トップを支える有力者だったと考えられます。

そして、該当する子孫が、応神天皇5世の孫である男大迹王だったという訳です。


 以上のように考えると、継体天皇に関する話について、色々と説明出来るんじゃないかと思っているんですが、そのあたりを後編で検討したいと思います。


 ではでは

 

 

邪馬台国東遷と応神天皇

 邪馬台国東遷と応神天皇の関係についての話です。
話としては独立していますが、一応前回の話の続きになります。

 

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宇佐神宮卑弥呼

 以前の記事で、卑弥呼の墓は、宇佐神宮じゃないかという話を書きました。

 

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宇佐神宮には、比売大神、神功皇后応神天皇、の三神が祀られています。
前記の記事では、このうちの比売大神が、卑弥呼ではないかと考えました。

そして、日本書紀の成立が720年である事、さらに三柱の神がそれぞれ祀られている三御殿の造営時期が、725年以降であることを考え合わせて、宇佐神宮は、比売大神即ち卑弥呼への信仰を基に、日本書紀中の人物を加える形で、現在の形に成ったと書きました。

神功皇后応神天皇が選ばれたのは、九州に関係する人物だからだというのを、理由として考えました。

宇佐神宮神功皇后

 しかし、その後、邪馬台国東遷説と日本書紀の記述の関係を考える中で、神功皇后に関しては、もう少し別の理由が有るのではないかと考えるようになりました。

 

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それは、神功皇后が、卑弥呼の存在を日本書記から消すために、作り出された人物だったのではないかという事です。
ただし、存在を消すためと言うならば、その後継の台与のことも包含していると、考えるべきかもしれないと、最近は考えています。

神功皇后が以上のような存在であるならば、神功皇后と比売大神即ち卑弥呼宇佐神宮に祀られているのはうなずけます。

宇佐神宮応神天皇

 となると、残る応神天皇はどう考えれば良いでしょうか。

前述の記事では、神功皇后の息子で、九州生まれだからという事にしたんですが、これについては、書いた時から、説得力が無いに等しいなとは思ってたんですけどね。

神功皇后が、卑弥呼と台与という事であるならば、その息子とされる応神天皇は、その後継者という事になります。

世代的には、邪馬台国が東遷したと考えている時期に当てはまります。

という事は、応神天皇の正体は、邪馬台国の東遷を指導した人物ということではないでしょうか。

こう考えると、応神天皇が九州生まれであることや、宇佐神宮に祀られている事も、何ら不思議では無いことになります。

さらに、その事績には、彼の軍事的能力を示すような話がほぼ無いに等しいにも関わらず、武神八幡神として祀られていることも、東遷における役割を考えると、納得がいくものとなります。

応神天皇以降が実在

 ところで、応神天皇に関しては、その事績に関して、仁徳天皇と記述の重複・混乱が見られることから、両者を同一人物と考える説もあります。

これに関しては、日本が中国の周と同時代から続く正当な王朝で有ることを示すために、応神天皇以前の系図を付け加えたと考える事で、解釈出来ると思います。
その上で、東遷の事実を、初代とした神武天皇の東征という形にし、応神天皇には、次の仁徳天皇の事績の一部をあてたという事では無いでしょうか。

つまり、応神天皇以降が、実在の天皇なのではないかと、考えられるのです。
この事は、『古事記』において、応神天皇以降に、死没年の干支が記載されるようになっていることとも符合します。

大和政権は、九州に有った邪馬台国が、畿内に東遷し、それを指導した応神天皇から始まった、というのが、今のところの私の仮説という事になります。


 次回は、応神天皇が東遷を指導したことと、継体天皇の出自との関係について考えてみたいと思います。


 ではでは。

 

 

継体天皇は何処から来たのか

 継体天皇の出自に関して考えた話です

 

 

継体天皇の番組

 BSプレミアの番組「英雄たちの選択」で継体天皇の話をやっていました。

概ね、以下のような内容だったと思います。

  • 武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、越前にいた応神天皇の5世の孫、男大迹王(をほどのおおきみ)を招いて、継体天皇として擁立した。
  • 男大迹王は、越前を治め、近江、尾張とも関係が深い、有力な豪族だった。朝鮮半島との関係も深かった。
  • 河内で即位したのち、大和に入るまで20年近くかかったのは、地方豪族の即位に反対した勢力がいたから。ただし、反対勢力に対抗できるようになるため、わざと入らなかったとも考えられる。
  • 大和に入った後、すぐに磐井を叩いたのは、もう一度大和政権への求心力を高めるため。
  • 継体天皇が、天皇として初めて横穴式石室に葬られ、その棺は、九州で産出する阿蘇ピンク石で作られていた。始めて、大陸で行われている、国際的スタンダードを取り入れた天皇だった。

まとめると、地方からスカウトされて大和政権を立て直した、開明天皇という事でしょうか。

継体天皇の記事

 継体天皇に関しては、実際にはそこで王朝の交代があったのではないかと言う話を、以前書きました。

 

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武烈天皇から継体天皇への継承の話が、中国の正史にみられる、王朝交代のフォーマットによく当てはまることから、単なる代替わりではなく、実質的に王朝が交代したのではないかと考えました。

また、古事記の奇妙な記述内容も、継体王朝への交代が有ったと考えると、説明出来るとも書きました。

 

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継体天皇の出自

 ただし、継体天皇本人に関しては、応神天皇5世の孫というのは、いかにも怪しいということ以外は、その出自に関して、特にこれといった考えは有りませんでした。

まあ、漠然と、番組で紹介された上記のようなものだったのだろうと、考えていました。

しかし、今回の番組を見ていて、継体天皇の出自に関して、邪馬台国東遷説との関係で、違った解釈も出来ることに気が付きました。

それは、継体天皇は九州からやって来たのではないかというものです。
加えて、応神天皇5代の孫というのも、あながち出鱈目では無いかもしれないというおまけつきです。

その詳細を、さっそく説明したいところですが、そのためには、先ず、応神天皇に関して、東遷説との関係を説明する必要があるので、稿を改めたいと思います。
本日はこれまで。


 出来の悪い講談のような終わり方になってしまいましたが、実は、元々、最近になって応神天皇と東遷説の関係を考えていたのですが、タイミング良く、継体天皇の番組が放送され、今回のような記事になりました。
という訳で、次回は、邪馬台国東遷説と応神天皇の関係についてです。


 ではでは

 

古墳の形状

 古墳の形状について考えてみた話です。

 

 

色々な種類が

  前回の話を読んだ知り合いから、埋葬方式についてはそうかもしれないが、古墳の形も色々ある、それはどうなんだという趣旨の事を聞かれました。

確かに、古墳に関しては前方後円墳が圧倒的に有名ですが、実際には、下記の図のような、実に多様な形状が存在します。

 

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引用元:古墳の形(墳形)

 

横穴式石室の伝播が、朝鮮半島からの亡命者によるものと考えるならば、これらの多様性はどう考えれば良いのかという訳です。

墓の形に正解は無い

 私としては、そもそも以前から、墓の外形的なものと、葬送形式は別々に考えるべきものではないかと考えていました。

例えば、古代エジプトで考えると、初期には、三大ピラミッドに代表されるように、ピラミッドの形態を取っていたものが、時代を下るにつれて、王家の谷に代表されるように、地下に墓を作るようになりました。
世界観、死生観としては、一部例外を除き、一貫してエジプト神話をもとにしており、ミイラを葬るというように、変化は無かったと思われるのにです。

現代の我が国で考えても、墓の形は多様性に富んでいると言っていいでしょう(一応、仏教系の墓を対象にします)。
墓石ひとつとっても、一般的な直方体だけでなく、昔から宝塔とか五輪塔とかの形のものもありますし、最近では、本人の意思、生前の業績、趣味嗜好などにより、さらに様々な形態の墓石が作られています。
例えば、お酒が好きだった父親のために、缶ビールの形にしたと言う話を聞いた記憶があります。

現代とはチョット違うかもしれませんが、日光東照宮も、徳川家康の墓といえば墓な訳です。

極論を言えば、何かを墓だと言えば、それが墓になると言っても良いかと思います。

古墳も同じ

 古墳の形状に関しても、同じような事だったのではないでしょうか。

ある時点で、誰かが、またはある集団が、墓を作る時に様々な理由で、ある形状を考えたというだけの事ではないか。
勿論、考えた側にとっては、それなりの理由があったとは思いますが、それらに共通する背景のようなものは無かったのではないかという事です。

例えば、古墳時代の代表的な前方後円墳に関しては、最初に誰かが作って、はっきりとした理由は分かりませんが、天皇家でも採用したことに拠り、各地の支配者層が取り入れたという事ではないでしょうか。
それ以外の地位の人には、ある意味忖度したために、前方後円墳以外の古墳も作られたという事だと思います。

まあ、そこに世界観、死生観といったものはあまり関係なく、一種の流行だったのではなかったかと思うのです。 

それを裏付けるかのように、6世紀末の第31代用明天皇以降は、現代にいたるまで、天皇の陵墓としての前方後円墳は、作られていません(の筈です)。


 以上、色々と考えてきましたが、前方後円墳に関しては、結局のところ、あのデザインそのもののインパクトが大きかったのではないかと思っています。


ではでは

 

横穴式石室の伝播と普及

 横穴式石室の伝播と普及について考えた話です。

 

 
竪穴式と横穴式

 前方後円墳というのは、お墓な訳ですが、その埋葬方式には、勿論細かな違いや例外はありますが、大きく分けて、竪穴式と横穴式の二つの形式があります。

竪穴式は、後円部の頂上部に埋葬を行うもので、再利用は出来ません。
それに対して、横穴式は、棺を納める玄室まで、文字通り横から通路を作る形式のもので、構造から分かるように、後から別の棺を入れること、すなわち追葬が可能という事になります。

これら二つの形式は、先ず土着的な竪穴式から始まって、そののち横穴式が広まったと考えられています。

その横穴式は、中国から、朝鮮半島を経由して、日本に伝播したとされ、地理的にも近い九州北部で、4世紀後半から作り始められたとされています。

埋葬方式は葬送儀式の一部

 一般的には、北九州の豪族が、朝鮮半島で行われているのを、取り入れて始まったと考えられています。

それに対しては、チョット疑問があります。

先にも書いたように、そもそも葬送儀式の一部である、埋葬の形式を、交流があるからと言って、そんなに簡単に取り入れるとは思えないんですよね。

大体、葬送儀式の形式は、その社会の世界観、死生観、そして宗教観を色濃く反映しているものの筈で、いくら近隣の先進地域で行われているからといって、自分の親を葬る時に、祖父母とは違う形式のもので行おうとはならないと思うんですよね。

では、4世紀後半の北九州で何があったのでしょうか。

横穴式石室の伝播

 以前の記事で、中国での動乱から逃れてきた朝鮮半島からの亡命者の影響で、邪馬台国畿内に東遷したのでは無いかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

この朝鮮半島からの亡命者が、葬られるときに、彼らの習慣に従って横穴式を取り入れたと考えれば、納得がいきます。

中国での動乱、すなわち西晋の滅亡による五胡十六国時代の始まりは309年です。
当然、その後に亡命が起こった訳で、亡命後に古墳に葬られるほどの地位になった後に亡くなったと考えられるので、それなりの年月があったと考えられます。

そうすると、九州北部で4世紀後半から作られ始めたという事実に合う事になります。

横穴式石室の普及

 その後、邪馬台国の東遷に従って、それに同道した亡命者の一族を中心に、横穴式が東にも広がっていったという事ではないでしょうか。

という事で、初めの頃にみられる横穴式の古墳は、亡命者関連の権力者の墓で有り、支配者の墓では無かったという事になります。

初めて天皇で横穴式の墓に葬られたのは、継体天皇だそうです。
継体天皇が亡くなったのは、531年となっているので、大和政権の支配者層が取り入れるほど社会的に受け入れられるのに、約二百年程かかった事になります。


 以上、横穴式石室の伝播と普及を、邪馬台国東遷論で説明してみた話でした。


 ではでは

 

徐福伝説

 徐福伝説について考えた話です。

 

 

徐福伝説

 徐福伝説と言うものが有ります。

徐福と言う人物が、秦の始皇帝の命を受けて、中国の東方の海に不老不死の薬を探すために出かけたが、結局戻ることは無かったと言う話が、「史記」に書かれているのです。

驚くべきは、3000人の童男童女と百工(技術者)が同道したというのです。

それに符合するかのように、日本の各地に、辿り着いた徐福が住み着き、様々な技術などをもたらしたとする伝承が残っています。

私が知っているだけでも、和歌山県新宮市、熊野、佐賀県佐賀市京都府伊根町に有ります。
その他にも、数十か所の伝承地が有るようです。

徐福が、五穀も持って行ったと言う話が有るので、その時期も含めて、農耕を伝えたのは徐福ではないかという説もあるようです。

どうなんでしょうか。

徐福は実在

 話の出所が「史記」ではあるものの、徐福にまつわる話については、中国でも疑う向きも多かったようです。

そんな中、1982年になって、江蘇省の徐阜村という村が、清朝のころまで「徐福村」と呼ばれていたことが発見されました。
徐阜村には、徐福に関する伝承も残っているようです。

さらに、徐福を先祖とする徐一族の存在も確認されました。

このようなことを背景に、最近では、徐福は実在したとみなされているようです。

勿論、反論も有るようですが。

徐福は日本に来たのか

 日本各地に有る伝承について考えてみましょう。

いずれも、徐福が辿り着いて、住み着いて云々という内容が、昔から伝承されてきた事になっている訳です。
そうだとすると、おかしなことになると思うんですよね。

徐福は、始皇帝に命じられて、やって来たわけですから、秦の時代の人な訳です。
そうすると、紀元前3世紀頃という事になります。

このころ日本は弥生時代であり、明らかに、文字と言うものは有りませんでした。
よって、徐福に関する伝承は、有ったとすれば、口伝だったはずです。

であるならば、「じょふく」という名前が出て来るのは、おかしいのではないでしょうか。

「じょふく」といのは、徐福と言う文字を日本語で読んだもののはずですから、それが、文字の無かった弥生時代からあった訳は無いのです。
ちなみに、徐福を、Google翻訳で発音させると「しーふー」のように聞こえます。
徐福本人が、自己紹介するときに、私は「じょふく」ですと言う事は無かったはずです。

「しーふー」がやって来たというような伝承が有るならばともかく、「じょふく」がやって来たというのはあり得ない訳です。

 徐福が日本に来たのかどうかについては、正確には確認のしようが無いのですが、伝承としてはそのものずばりというものは無かったのだと思います。

大陸から辿り着いた人間がいたといった伝承が有ったところに、
史記」が日本に入って来てから、徐福に関する記述を見て、それを当てはめたという事ではないでしょうか。


 まあそれ以前に、弥生時代に、秦の時代の知識を持った人間が、3000人も来ていたのなら、もうチョット違う歴史が有ったんじゃないかと言うのも有るんですけどね。
少なくとも、文字ぐらいは有ってもよさそうですよね。


 ではでは

縄文から弥生へ

 縄文から弥生への変化について考えた話です。

 

 

征夷大将軍蝦夷

 江戸幕府を治めていたのは、勿論将軍であるが、この将軍の正式な官職名は、良く知られているように「征夷大将軍」である。

意味的には、夷を征伐する大将軍という事になります。
さらに詳しく見ると、ここでいう夷は、蝦夷(えみし)の夷という事になります。

蝦夷とは、大和政権にまつろわぬ人々を呼んだ名称で、「えみし」という呼び名に、蝦夷と言う字を当てたものだと考えられているようです。

その住む地域は、勿論時代によって変わっていくのですが、概ね現在東北地方と呼ばれている地方になります。

言い方を変えると、白河以北と言ってもいいのかもしれません。

蝦夷の字を当てたと書きましたが、その中の夷の字は、中華思想に見られる、「東夷西戎北狄南蛮」の東夷の夷の字を当てたたものだと考えられています。
つまり、都から東に住んでいる、未開の人々という訳です。

当時の政権の支配下で無いだけで、どうしてこのような呼ばれ方をしたのでしょうか。

農耕社会の広がり

 弥生時代に、北九州の地域から始まって、農耕社会が広がっていくわけですが、その遺跡の範囲は、概ね東海地方以西に多く分布しています。

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引用元: 弥生ミュージアム

これは、常識的に考えて、当時の稲作の生産技術では、この辺りまでしか、農耕社会を維持するだけの生産が困難だった結果と思われます。

ただ、東北地方にも全く稲作が無かった訳では無く、いくつかの水田跡も発掘されていますが、面としての広がりは無かったようです。

大和政権と蝦夷

 結局、後に蝦夷とよばれる人たちの住む地域は、弥生時代の農耕社会が入り込むことなく、縄文社会の要素を色濃く残した地域だったという事になります。

この傾向は、古墳時代にも見られ、大規模(120m以上)な前方後円墳は、宮城県福島県の両県までしか見られません。

そして、蝦夷の地との境界に白河の関が作られることになり、その地に住む、まつろわぬ人たちを従わせる役を担ったのが「征夷大将軍」だった訳です。

という訳で、大和政権と蝦夷の関係は、単に時の政権とそれに従わない人達の争いではなく、農耕社会を背景にした権力と、狩猟採集社会を背景にした平等の争いだったのです。


 縄文から弥生に単純に変わった訳では無く、縄文社会の影響は、意外と後世まで続いていたのです。


 ではでは

農耕と弥生時代

 農耕と弥生時代について考えた話です。

 

 

日本での農耕社会

 以前の話で、石器時代に起きた、狩猟採集生活から農耕社会への変化について考えました。

 

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その中で、日本については、自然が豊かであるために、農耕社会への移行が起こり難かったと考えました。
農耕のような労力を必要とするようなことをしなくても、狩猟採集で十分に生活が、しかも定住生活が可能だったからです。

一般的に日本では、弥生時代から、農耕社会が始まったと考えられています。
さらに、上記のような理由や、遺跡などの発掘による研究などから、大陸から九州地方に伝播したと考えらています。

ただし、ここで言っているのは、農耕社会の伝播であり、稲作そのものは、縄文時代にも知られていたようです。

クニの始まり

 前回の記事で、農耕社会の始まりによって権力も生じたと考えました。

 

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ところで、弥生時代は、概ね紀元前1000年ごろから始まったと考えられているようです。
紀元前1000年頃といえば、中国では殷から周に王朝が変わる時代です。

ひょっとしたら、殷から周へと王朝が変わる混乱を避けた集団が、九州にやって来たのかもしれません。
ただし、稲作は中国南部で行われており、北部を中心とした殷、周とは関係ないという説もあるようです。
いずれにしても、その時代に農耕が入って来たという事は、中国では権力システムが確立しているわけで、当然権力層も入ってきたはずです。
農耕の技術を持った人々だけではなく、それを統べる権力システムも同時に入って来たと考えるのが自然だと思います。

そして彼らが定住して、権力システムを中心とした、稲作による集落を形成した。
それを、現代の我々は、クニと呼んでいるわけです。

争いの始まり

 弥生時代の遺跡の調査から、人口が増加していったことが分かっています。
素直に考えれば、稲作による豊富な食料の供給によると考えるのが自然でしょう。

人口が増えれば、さらに土地が必要となります。
結果、クニ同士が争う事になったと思われます。
何しろ、権力側から見れば、自らがコントロール下に置いている土地や、人々、すなわちクニが無くなれば、自らの生存が危ないわけですから。

さらに、中国から来たのであれば、当然戦うための技術も持っていたはずです。

その結果、弥生時代の遺跡からは、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、武器の傷をうけた痕跡のある人骨などの、争いの形跡が数多く見つかています。


 つまり、弥生時代には、農耕だけではなく、権力と争いも日本に入って来たのです。
こうして考えると、倭国大乱は、起こるべくして起こったとも言えるのかもしれません。


 ではでは

 

 

農耕と権力

 農耕と権力の関係に関する話です。

 

 

石器時代は平等

 石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられていると、以前の記事で書きました。

 

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同時に、権力者などのいない、平等な社会であったとも考えられているようです。
これは、埋葬方法に差の無かったことからも、裏付けられると考えられています。

ところで、ここでは、権力を以下のようなものと考えます。

権力とは、一般にある主体が相手に望まない行動を強制する能力である
引用元:権力 - Wikipedia

 

 なぜ平等だったのか

 前述のように権力を定義すると、生活が、狩猟採集によるものである限り、集団の構成員に何かを強制する事は困難だったので、権力は生じなかったのだと考えられないでしょうか。

例えば、誰かが、その他の人たちに、食料を取って来るように強制しようとしても、言われた方は、単に取ってこなければいい訳です。
その行動を強制する方法は、無いように思われます。
そうなれば、強制しようとした方は、自らも食料を調達しない限り、飢えるだけと言う結果になるだけです。
それどころか、平等な社会でそのようなことをすれば、社会から排除される可能性が大です。

という訳で、狩猟採集生活をしていた時代の人々は、我々が考えるような平等主義だったからではなく、生活方法からくる結果としての、平等な生活をしていたという事だったと思われます。

権力の発生

 そんな中で、前の記事で考えたように、次第に農耕技術が発展していくことになり、農耕による生産物を主たる食物とする、農耕社会が発生することになります。

 

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農耕社会では、当然のことながら、農耕による生産物を、貯蔵することに拠り、次の収穫までを乗り切ることになります。
逆に言うと、その生存が、生産物によって制約されるという事になります。

ここに至って、初めて、権力が発生することになったのではないでしょうか。
武力などの力により、貯蔵されている生産物の供給をコントロールすることに拠り、その他の人々に行動を強制することが可能になったと考えられます。
逆らえば、食べられなくなる訳ですから。


 農耕開始により始まったのは、定住ではなく、権力だったのです。


 ではでは

 

農耕社会の始まり方

 農耕社会の始まり方に関して考えてみた話です。

 

 

日本列島の農耕

 日本列島での農耕について、前の記事で、その発展に女性の力が大きく関わったのではないかと考えました。

 

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しかしながら、三内丸山遺跡を始めとする縄文遺跡の出土状況からも分かるように、日本列島では、本格的な農耕社会まで発展することは有りませんでした。

農耕社会の出現は、外部からの導入による、弥生時代の始まりを待たなければなりません。

これはひとえに、日本列島の自然の豊かさに拠るのだと思います。
栗やクルミの植栽などを行っても、主食を作るところまでは行かなかった。
と言うか、作る必要が無い自然の豊かさだったのしょう。

では、日本列島に伝わって来た、農耕社会はどのようにして始まったのでしょうか。

日本列島以外の農耕

 日本列島以外の世界でも、基本的には、日本列島での経過と同様に、定住が最初に来て、その後次第に農耕に進んでいったのだと考えられます。

そうでないと、狩猟採集のために移動していては、結果が出るまでに長い期間掛かる農耕は行い得無かったでしょうからね。

もちろん、発展の主体は、女性だったと思われます。

しかしながら、そういう事が有ったとして、そのまま農耕を中心とした生活に移行したとは思えません。
なぜならば、明らかに、狩猟採集生活の方が、楽だったようだからです。
縄文人は、一日のうち実働4時間で生活していたという説もあるようですから。

農耕社会の始まり

 という事は、狩猟採集では十分な食料が確保でききなくなった時に、農耕による主食の確保が考えられたという事になるでしょう。

一番考え易いのは、気候の変動でしょうか。
寒冷化によって、それまで採れていたものが取れなくなったといったような。

ただし、急激な変動では無かったはずです。
あまりに急激な変動では、農耕による生活に移行する前に、定住そのものが出来なくなってしまうでしょうから。

徐々に減っていく収穫に対応する形で、農耕が拡大していったのではないでしょうか。
そして、最終的に農耕により主食を確保するようになったという事でしょう。

日本列島でも、気候の変動はあったでしょうが、自然の豊かさに厚みが有ったために、農耕を取り入れる程の状況にはならなかったのだと思います。

それに対して、定住生活を送ることが出来ても、それに対する自然の状況に、元々余裕のなかった地域で、農耕社会が発生したのではないかと考えます。


 こう考えると、農耕によって確保できる食料が増えて、人口が増加したといったことはあるかもしれませんが、決して生活が楽になった訳では無いような気がするのですが。


 ではでは

 

定住と農耕の始まり

 定住と農耕の始まりの関係について考えてみた話です。

 

 

三内丸山での定住

 以前の記事で、三内丸山遺跡の話から、日本列島では、農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという話をしました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

普通は、農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったと考えられています。

逆に言えば、農耕をしなくとも、狩猟採集により食料が十分に入手出来れば、定住が可能だという事になります。

三内丸山で定住が行われた当時の日本列島は、そう言った環境に有ったという事でしょう。

栽培も行われていた

 狩猟採集と言っても、単純に自然の恵みに頼っていたわけでは無いようです。

特に採集に関しては、出土状況から、集落の周辺に堅果類(クリ、クルミなど)の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられています。

栗やクルミの木を植えて、採取を効率よくするための手入れの様な事が行われていたようです。
単に効率だけでなく、どんぐりよりも、栗やクルミはおいしいですからね、おいしいものを少しでもたくさん採りたかったという事も有ったかもしれません。

中心は女性だった?

 石器時代の人間が、どのような生活をしていたのかについては、もちろん正確に知る方法は有りません。
多くの場合、現代の世界各地にいる、石器時代から生活が変わっていないと考えられている集団に関する調査結果から、石器時代には、男性が狩猟を行い、残った女性が採集を行っていたと考えられています。

そうであるとすると、三内丸山で、植栽を考え出したのは、女性たちだったと考えられないでしょうか。
力仕事が必要な時には、男性が手伝う事も有ったかもしれませんが、中心的に行ったのは女性だったのだと思います。

現在でも、日頃、家事に関わっていない男性が、家事の効率化に関しては思い浮かべる事さえしない(大体、何が問題かすら分からないですからね)のと同様に、日頃採集作業を行わない男性が、どうやったら、効率良く栗やクルミの収量を増やすことが出来るか、などと考えることは、全くとは言わないまでも極めて少なかったでしょう。

毎日採集を行う中で、より多く、安定して取る方法を、試行錯誤していくことで、植栽にたどり着いたのではないかと思います。

それが、コメや麦などの一年草にも拡大していき、最終的に農耕技術となった。

農耕技術は、定住生活の中で、女性達によって作り出されたのではないでしょうか。


 もっとも、日本列島では、完全な農耕技術に発展する前に(縄文晩期の遺跡には水田遺構もあるようですが)、外部からもたらされて、弥生時代になったようですけどね。


 ではでは

 

 

本能寺の変での光秀の行動

 本能寺の変での、光秀の行動に関する話です

 

 

最大の疑問点

 本能寺の変での光秀の行動の中で、私が、最大の疑問点だと考えるのは、なぜ光秀が、本能寺を攻撃すると同時に、妙覚寺に泊まっていた信忠を襲わなかったのかという事です。

そもそも、前の記事でも書いたように、信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを逃さなかったのが、本能寺の変の原因だと考えた訳です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

であるならば、信長を討ちとることが、最大の目標で有るのはもちろんですが、後継者の信忠を逃しては、決して小さくは無い、後顧の憂いを残すことになってしまいます。ここは、逃げられないように、同時に襲撃するのが最善の策の筈です。

しかし、実際には、光秀が、配下の軍を分け、信忠を討ちに向かわせるようなことはしていないようです。

信忠は、二条御新造に立てこもり、明智軍とたたかった後、最終的に自害をしました。
という事は、宿泊していた妙覚寺から移動する余裕はあった訳で、本能寺と同時に妙覚寺を責めた訳では無いことになります。

これをどう考えたらいいでしょうか。

うっかりした訳では無い

 巷間言われるように、途上で重臣を集め、信長を討つつもりで有ることを打ち明け、それに重臣も従ったのだとして、どうして信忠を同時に襲う事にしなかったのでしょう。
百歩譲って、光秀はうっかりしていたとしても、誰かが進言をしたはずです。
まさか、全員がそれに気が付かなかったという事は、あり得ないでしょう。
信長を討った後すぐに、二条御新造を責めていることからも、うっかり見逃していたわけではなさそうです。

さらに、いかに本能寺が防御も考えられていたとしても、100人単位でしかなかったと考えられている信長とその供回りの人数を考えれば、13000といわれている全軍で攻める必要は無かったはずです。

という事は、軍を二手に分けられない理由があったという事になります。

どんな理由が考えられるでしょうか。

なぜ二手に分けられなかったのか

 光秀は、言われているように重臣に本意を打ち明けていなかったとしたらどうでしょう。
家臣の中から、謀反して、信長に知らせる者が出ることを恐れ(なにしろ、自らが、謀反を起こすつもりなわけですから)、打ち明けることは出来無かったのだと思います。
その代わり、信長からの命により、密かに家康辺りを討つと、騙したのたのではないでしょうか。
そのため、軍を二手に分け、妙覚寺に送ることは、出来なかったのです。
信忠を攻めるのでは、話の辻褄が合わなくなってしまいますからね。

それでも、信忠は放っておくわけにはいかにので、信頼のおける腹心にだけは打ち明けて、その配下を偵察に出していたのではないでしょうか。
それによって、信長を討った後で、素早く二条御新造に攻め寄せることが出来たという訳です。
当然、信長を討った後に、家臣に打ち明けた後だとは思いますが。
信忠が逃げなかったことを、光秀は僥倖だと思ったでしょう。


 以上、私の全くの妄想の域は出ませんが、『本城惣右衛門覚書』やルイス・フロイスの『日本史』にも、こういった事を思わせる内容があるようなので、どんなものでしょうか。


 ではでは

 

 

明智光秀も時代の子

 明智光秀も時代の子だっただけではないかと言う話です。

 

 

麒麟がくる

 今年の大河ドラマが、明智光秀が主人公の「麒麟がくる」という事で、そのクライマックスとも言える、「本能寺の変」について、見聞きすることが多くなったような気がします。

当然、なぜ光秀が、謀反して信長を討つようなことをして、「裏切り者」とよばれるようになったのか、という内容が多いです。

それに対して、怨念説、黒幕説等様々な説が唱えられています。
中には、光秀が主犯ではないというものまであります。

どうして、ここまで謀反を問題にされ、さらには「裏切り者」呼ばわりまでされなければいけないのでしょう。

光秀が裏切り者ならば

 その「本能寺の変」で討たれた織田信長は、若い頃に、主家である、尾張守護代清洲織田家を滅ぼした上に、自ら擁立した尾張守護・斯波義銀も追放しています。

光秀を主君の仇として討った、豊臣秀吉も、その後、信長の孫の三法師を主君として担ぐが、ご存知のように最終的には、豊臣政権を樹立しています。

その秀吉から、後継者秀頼を、五大老の一人として支えるように頼まれた徳川家康も、大阪夏の陣で、秀頼を自害に追い込んで、自らの政権を確立しています。

という事で、光秀の引き起こした「本能寺の変」も、三英傑が行った事と、それほど掛け離れていた訳ではないのです。
違いと言えば、一夜のうちに、主家の当主と嫡男を、いずれも自害に追い込むといった、劇的な展開であった点だけだとも言えます。

光秀も時代の子

 光秀が、「本能寺の変」で、主君信長に対して謀反をした事をもって、「裏切り者」呼ばわりされるのであれば、三英傑も「裏切り者」と呼ばなければならないですよね。

彼らが行ったことに対して、怨念が有ったからとか、黒幕がいたとかいった話は聞いたことが有りません。

農民出身の人間が、天下を取ることが出来るのが戦国時代です。
天下を狙う事が、そのための下剋上が、荒唐無稽な話では無い時代だったのです。

光秀も、その時代の、いわば常識に従って行動をしただけなのではないでしょうか。

千載一遇のチャンス

 当主の信長と、後継者の信忠が同時に京都に滞在し、警備も薄い、しかも自らは兵の準備が出来ており、出兵の理由も有るという、千載一遇のチャンスを前にした時に、ここが勝負の時だと思ったという事ではないでしょうか。

怨念とか、朝廷との関係、四国長宗我部との関係のような、これまで原因ではないかと考えられてきた事が、決断の後押しをしたという事も有ったかもしれませんが、主たる理由は、光秀も、戦国時代の常識の下で生きていた武将の一人だったという事だったのだと思います。
常に頭の何処かに、天下を取るという事が、あったのでしょう。

それが、裏切り者扱いされることになったのは、ひとえに、「三日天下」とも呼ばれている程すぐに、秀吉に討たれてしまったからでしょう。
歴史は、常に勝者のものな訳です。


 もう少し、彼の天下が長ければ、三英傑の一人は彼だったかもしれません。

麒麟かどうかはわかりませんけど。

 

ではでは
 

三内丸山遺跡と農耕と定住

 三内丸山遺跡から、農耕と定住について考えた話です。

 

 

彼が去年行ったのは

 年初の記事で、知り合いが古代史好きだと分かったと言う話をしましたが、その発端は、彼が、昨年、三内丸山遺跡に行ってきたと言う話をしたことに拠ります。

三内丸山遺跡は、縄文遺跡なので、古代史よりも古いわけですが、それに絡んで、色々と話しているうちに、古代史にも興味を持っていることが分かった訳です。

三内丸山遺跡は、かねがね一度行きたいと思っているんですが、いまだ果たせないでいます。
そのため、やっかみ半分で、三内丸山遺跡についても色々と盛り上がりました。

で、帰り道で、そうか、三内丸山遺跡は定住跡なんだと、いまさらながらに思い至ったのです。

三内丸山遺跡

 三内丸山遺跡は、ご存知のように、青森県にある縄文時代の住居跡の遺跡です。

縄文時代の住居跡と言っても、数家族程度が竪穴式住居を作って住んでいたといったものではなく、高床式倉庫、大型の竪穴式住居(集会用?)や大型掘立柱建物(祭祀用と考えられているようです)などが有る、広大な遺跡となっています。

 

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引用元:三内丸山遺跡 -日本最大の縄文集落-|青森県庁ウェブサイト Aomori Prefectural Government

 

居住者は数百人規模だと考えられているようで、これはもう立派な村落と言っていいでしょう。

さらに驚きなのは、その居住が、今から約5900年前~4200年前の、1700年間にわたって続いていたという点です。

もちろん、縄文時代の三内丸山で農耕は行われていませんでした。(栗の木の植栽などは行われていたようですが。)

農耕と定住

普通、農耕と定住の関係は次のように考えられていると思います。

農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。
引用元:農耕 - Wikipedia

農耕により食料が安定的に入手出来るようになり、狩猟採集生活を脱して、定住が可能になったという訳です。
私も、漠然とそんな風に考えていました。

しかし、三内丸山では、農耕とは関係なく、1700年間も定住が行われていたわけです。
しかも、家族・親族単位よりもはるかに大きな規模で。

少なくとも、日本列島では、農耕の開始よりも、定住の開始の方が早かった訳です。
農耕の始まりが、定住の始まりでは無かったという事になります。


 定住と、農耕それぞれの始まりについて考えてみるのも、面白いかもしれません。


 ではでは