蝦夷の戦闘力について考えた話です。
平安武士と蝦夷
「歴史探偵 平安武士と蝦夷」という番組を観ました。
大和朝廷をその戦闘力で苦しめた、東北地方の蝦夷ですが、坂上田村麻呂に敗れます。
その後大和朝廷の支配下にはいりますが、その戦い方の元となる戦闘技術が東国の地で源氏、平氏などの王臣子孫に伝播した結果、武士が生まれたという内容でした。
武士の始まりに関しては、前々回に取り上げたばかりです。
結構こういった偶然が重なることがあるのが、不思議な感じがします。
私の仮説は、軍団廃止後に取り入れられた健児が、後の武士につながるのではというものでした。
それに対して今回の番組は、源氏、平氏といった上からの武士の始まりについての話という事になります。
上からなのか、下からなのかというあたりは、一度考えて見たい話ですが、今日のポイントはそこではありません。
それは、大和朝廷を苦しめ、後に源氏、平氏に取り入れられるような戦闘技術そのものについてです。
蝦夷の戦闘技術
その蝦夷の戦い方がどんなものかというと、騎射術だというのが番組の主張でした。
読んで字のごとく、騎馬すなわち馬に乗りながら、射すなわち弓を射る術という事になります。
イメージしやすいものとしては、流鏑馬でしょうか。
騎馬で突撃しながら弓を射るという、機動性と高い攻撃力を誇るものと言えるでしょう。
これに対して、当時の朝廷側は歩兵が主たる攻撃力でした。
これが、蝦夷が朝廷を苦しめることになり、後に源氏、平氏が習得することになった、蝦夷の戦い方です。
なぜ東北の地に
そうであるならば、大きな疑問が生ずるのです。
それは、この時代に東北の地に騎射術が、なぜ存在するのかというものです。
そもそも、『魏志倭人伝』に「牛馬なし」とあるように、古来日本には馬はいませんでした。
その後古墳時代以降に、おそらく大陸から朝鮮半島経由で西日本に持ち込まれ、全国へと広がっていったと考えられます。
そう考えると、その伝播の最終地点ともいえる東北地方に、中央からやって来た高級貴族が持っていないような戦闘技術があるはずがないのです。
にもかかわらず、存在したのはなぜか。
どこからやって来たのか
その戦闘技術は、騎射術ということで、流鏑馬のようなものかと書きましたが、少し異なる点があります。
それは、使用する弓が長弓の所謂和弓ではなく、短弓だという事です。
引用元:原始和弓の起源 2015年『日本考古学』 | 考える野帖
騎馬と短弓という事で有名なのは、モンゴル軍を始めとする大陸の遊牧民でしょう。
蝦夷の戦闘技術は、大陸からもたらされたのか、または蝦夷が大和朝廷に対抗するために求めたのかは分かりませんが、大陸から直接導入されたものなのではないでしょうか。
そのため、大和中央にはない技術が存在したのです。
それをもたらしたのは、当時大陸の日本海沿岸にあった国「渤海」だったと思われます。
「渤海」と大和朝廷は使者を遣り取りする関係でしたし、日本海経由の航路も開拓されていたようです。
軍団が廃止された時にも、対蝦夷の陸奥国・出羽国と共に、佐渡島が残されたのは、この当時の日本海経由の往来が活発であったことを物語っています。
その中で、大和朝廷の対抗勢力とも関係を持っておこうという「渤海」の思惑もあったかもしれません。
蝦夷から短弓の騎射術を導入したにも関わらず、今使われているのは長弓である和弓なんですよね。これも謎です。
ではでは