北野大茶の湯が一日で終わってしまった理由について考えた話です
北野大茶の湯
北野大茶の湯は、豊臣秀吉が旧暦の天正15年10月1日に京都北野天満宮境内において催した茶会になります。
参加者数約1000人という大規模なものだったようです。
秀吉は、例の有名な「黄金の茶室」を持ち込みました。
この茶会については、当初10日間に渡って行われるとされていたにも関わらず、最初の一日だけで終わってしまったという謎が有ります。
その理由については、「その日の夕方に肥後国人一揆が発生したという知らせが入って秀吉が不快を覚えたから」というのがこれまでの通説となっているようです。
今回は、この北野大茶の湯が一日で終わってしまった事が、千利休が切腹した事と関わっているのではないかという話になります。
大茶の湯はマウント目的
北野大茶の湯は、秀吉が思い立って次の日に行ったというようなものでは無く、前もって約二ヶ月前の7月28日に京都・五条などに以下のような触書を出して告知するほど力の入ったものでした。
それを最初の一日で止めてしまったのには、なにか理由が有るはずです。
- 北野の森において10月1日より10日間、大規模な茶会を開き、秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること。
- 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
- 座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないものとする。
- 日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
遠国からの者に配慮して10日まで開催することにしたこと。- こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない。
茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに秀吉が目の前で茶を立てること。引用元:北野大茶湯 - Wikipedia
この中で注目したいのは
- 秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること
- 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること
ことの2点です。
これに「黄金の茶室」も持ち込んだことを合わせて考えれば、秀吉がマウントする気満々だったことが分かります。
天下人として、圧倒的な差を見せつけようとした訳です。
丿貫の風流な茶席
さて当日の話として、午前中に茶を点てた秀吉が、午後は会場を視察して過ごし、その際に丿貫の風流な茶席に目がとまり所望したというものがあります。
丿貫(へちかん)は茶人の名前です。
「丿貫は、侘びすきにて、しいて茶法にもかかはらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす」と言われ、高額な茶道具によるマウント茶道とは全く異なる方向性の茶人だったようです。
その丿貫の茶席を目に留めたわけです。
そして、「秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜った」ようです。
特権を与えたぐらいですから、秀吉も面白いと思ったのは確かでしょう。
しかしそれと同時に、このまま茶会を続けても自分が一人勝ち出来ないことを悟ったのです。
しかも、それは自分にはすぐに乗り越えられない種類の茶道だった訳です。
その結果が、たった一日での中止だったのです。
そしてこの時の感覚が、以前記事に書いた千利休の切腹に繋がったのでは無いでしょうか。
センスは、お金や権力が有っても手に入れられないですからね。
ではでは