基本的な生活が保障されることについて考えた話です。
基本的な生活
前回の記事で、結局他力本願に頼ってしまった形の、「基本的な生活を保証を目標に」ですが、折に触れ、色々と考えてはいるんです。
例えば、何をもって「基本的な生活」と考えるかという問題があります。
基本的な生活とは、衣食住という事になるかと思いますが、これが現代においてはなかなかに難しいのです。
弥生時代とまでは言わなくても、江戸時代位のまでの機械化されていない生活なら、衣食住を充足する範囲と言うのは想像できるものが有ります。
まあ、その頃の生活は、みんなでやればなんとかなりそうなところは有る訳です。
現代で考えるのは難しい
しかし、これが現代となると、衣食住を充足すると言っても、どこまでを考えればいいのか難しいものが有ります。
当然電気は必要でしょうし、それで使う電化製品は何処までにするのかとか、その部品の製造はどうするのかとか。
家を建てるにしても、コンクリートはどうするのか、金属部品はどうするのか、太陽電池は?
といった具合に、どこまでを基本とするのか、線引きが難しいです。
こうやって考えると、結局のところ、かつてのソビエト連邦のような計画経済まで行き着いてしまいそうです。
しかしながら、計画経済については、ご存知のように、歴史的に上手くいかない事が証明された格好になっています。
という訳で、基本的な生活を保障するという事に関しては、なかなかこれはといったアイデアが降りて来ません。
もし生活が保障されたら
という事なんですが、難しい事だけを強調するだけでは先へ進まないので、その解決方法についてははひとまず置いておいて、「基本的な生活を保証」することに拠る利点を考えてみたいと思います。
よく考えると、衣食住の心配が無いという事になれば、現在社会的に問題となっているかなりの事が、改善されそうなのです。
先ず直ぐに思いつくのが、仕事を生活のためにしなくても良いので、各々やりたい事を追求出来る社会になりそうだという事です。
例えば、スポーツをやりたい人は、思う存分打ち込むことが出来るようになるはずです。
引きこもりの問題も、大まかに言うと仕事もせずにということが問題となっている訳ですが、生活は出来ることになるので、そういった意味では問題ない事になりそうです。
勿論、精神衛生的な面での問題は残るとは思いますが。
ブラック企業や、セクハラ、パワハラなどの問題も起こりにくくなるはずです。
極論を言えば、嫌ならば、そんな状況と関係を持たなくても、生きていけるわけですから。
当然、安い労働力を前提とする経営というのものも、存続できなくなるでしょう。
基本的に貧困から来る生活苦ということも無くなるので、犯罪も減少することが期待されます。
更に政治の面でも、変化することが考えられます。
この、基本的な生活を保障するという事を、政治の最低限守るべきベースとするのです。
そうすることに拠り、政治がシンプルになると思うのです。
政策の可否を判断する場合に、この基本的な生活の保障をベースに、その良し悪しを判断すれば良い事になりそうです。
男女平等の問題に関しても、自動的にかなりの部分が解決するのではないでしょうか。
例えば、生活の心配はないわけですから、不平等な条件で働く必要は無くなりますよね。
少し考えてもこんな感じです、なかなかよさそうに思えるのですが、どうでしょうか。
農耕文明なのに、なぜ食べていくのが難しいのか、という疑問から始まった話ですが、
今回は、新年らしく、多少夢の有る話にしてみました。
ではでは