神武東征から邪馬台国東遷を考えた話2です。
少数で吉備を目指して
前回の記事では、神武東征の話から、邪馬台国東遷の規模と目的地について考えました。
途中の吉備に三年もの間留まったことから、規模については比較的少数であったろうとしました。
同様に目的地についても、当初は瀬戸内海の東の端を考えていたのかもしれないが、付いてくるものの少なさからとりあえず吉備を目指したのではなかったか、という話でした。
ではそんな一行が、なぜ東遷をすることになったのか。
そのための軍勢はどこからきたのか。
そのことについて、神武東征、特に吉備から畿内までの経路を検討することで考えたいと思います。
神武東征経路
先ず、神武東征の経路について簡単に見てみます。
磐余彦尊(後の神武天皇)は、「東有美地、靑山四周(東に美し国有り。青い山に四方に囲まれ。)」と聞いて、その地へ行くべく九州を発ちます。
その後、前回の記事で見たように吉備の地に三年留まってから、さらに東へと進みます。
そして瀬戸内海の東の端、難波の碕に上陸し内陸を目指しますが、長髄彦に撃退されてしまいます。
そこで、「日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだ」と考えた磐余彦尊は転進します。
東から攻めるために、紀伊半島をぐるっと回って熊野へ至り、そこから宇陀を経て、畿内に攻め込むというルートを取り、長髄彦を倒すのです。
引用元:其の百 いざ!「神武東征」の古戦場へ!!(続編) - ryu-chun3 ページ!
色々と疑問が
こうやってまとめると、艱難辛苦を乗り越えて見事目的を果たす、所謂英雄談という感じはします。
しかしよく考えると、色々と疑問もあります。
先ず、「東に美しい国が有る」という事で東征を始めたのに、長髄彦に苦戦すると一転、「東に向かって戦うのは天の意思に逆らう」として転進してしまう点です。
最終的に東の地に国を建てたのは、大丈夫なんでしょうか。
紀伊半島を回る
次に東から攻めるために取った方法が、なんと紀伊半島を海路で回るというものだったというのは、よく決断したなとは思いますが、まあいいとしましょう。
ところが、回った結果上陸したのが熊野というのはどうなんでしょう。
そこまで来たのなら、そのまま北上して伊勢湾まで行き、そこから西に向かう方が自然のような気がします。
熊野に土地勘があるわけではありませんが、地図で見ても山がちで、畿内までの行軍が簡単ではないことが想像できます。
事実、東征の話の中でも途中で八咫烏に道案内をしてもらったりしていますし。
東から攻めるということであれば
ここで、改めて上の図を見てみると、名草辺りから宇陀の方向に白く線を引いたようになっているのが分かると思います。
これは紀ノ川とその流域の比較的平坦な地形になります。
ここを遡れば、紀伊半島を回らなくても宇陀に向かう事が出来そうです。
道路を歩くように簡単ではないでしょうが、熊野の山の中を行軍するよりもよさそうです。
そもそも東へ向かって攻めるのがまずいという事で、わざわざ紀伊半島を回って熊野まで行き、苦労して山の中を行軍にして、宇陀に攻め込んだわけです。
紀伊半島を回り込むような地理的な知識があったわけですから、紀ノ川周辺のことについても十分知っていたと思われますし。
普通に考えて、紀ノ川経由で行きそうなものですが。
以上、神武東征の経路に関しては色々と疑問があるのです。
前回と今回の様々な疑問を踏まえつつ3に続きます。
ではでは