邪馬台国東遷に従わなかった側についての話2、広開土王碑における倭についてです。
大陸からの侵攻は無かった
前回の記事は、邪馬台国の東遷に与せずに九州に残った勢力が最優先で行ったであろう、大陸からの侵攻への備えについての話でした。
その結論としては、現在の福津市辺りにあった末廬国の一族が、松浦市辺りに移ることになり、その周辺に名称が残ったのはないかと考えました。
この説の是非はともかくとして、侵攻に備えたことは間違いないでしょう。
しかし、現実には恐れていた大陸からの侵攻はありませんでした。
今回は、そんな状況の中で、九州に残った勢力が次に取ったと考えられる政策について考えます。
朝鮮半島北部の地の奪還へ
当初こそ、大陸からの侵攻に警戒していましたが、そのうちにそういった可能性がほぼ無くなったことが分かったはずです。
そうなると、九州にも残っていたと考えられる亡命者の中から、朝鮮半島北部の地を取り戻す事を考える声が出てきても不思議は有りません。
以前にも少し書きましたが、其の文化レベルの差から亡命者が重用されていた可能性が高く、影響力も大きかったと考えられます。
その声を受けて、侵攻を画策したのでしょう。
広開土王碑における倭
それを受けての行動についての記録が、高句麗の広開土王碑に有る倭に関する記述なのではないでしょうか。
解釈に諸説ある部分は出来るだけ避けて、記述に沿って記します。(年号から始まる太字の部分が、広開土王碑の内容です)
391年 倭が来る。
朝鮮半島北部における覇権を、奪うにしても、直接攻めては、周辺国から挟撃される恐れもあることから、先ず朝鮮半島南部に橋頭堡を築いたと考えられます。
小国家群からなる加羅に上陸し、築いたのが任那だと思います。
399年 百済は、倭と和通した。
新羅から、倭人の襲撃に対して、高句麗に救援の要請あり。
400年 高句麗5万の兵で新羅を救援し、倭を任那・加羅まで追撃する。
そのすきに、安羅軍が新羅の都を占領する。
任那を足掛りに、百済、新羅を勢力範囲に収めたということでしょう。
安羅は、加羅の一国と考えられています。
404年 倭が帯方地方に侵入するも、撃退。
後背の憂いを無くした上で、満を持して朝鮮半島北部に進行するも、あえなく敗退の憂き目を見たという事でしょうか。
以上から、朝鮮半島北部の奪還は高句麗により阻まれ、新羅、百済を含む朝鮮半島南部の権益を高句麗と争う、という状況が見えて来ます。
広開土王碑における倭は、大和政権では無く、九州に残った勢力なのです。
ではでは