神武東征から邪馬台国東遷を考えた話1です。
神武東征は邪馬台国東遷
前回の記事で、『日本書紀』の神武東征が邪馬台国東遷を基にした話ではないかと考えました。
それを受けて、今回から何回かに渡って神武東征を通して邪馬台国東遷について見ていきたいと思います。
東遷の規模
磐余彦尊(後の神武天皇)は、「東有美地、靑山四周(東に美し国有り。青い山に四方に囲まれ。)」と聞いて、その地へ行くべく九州を発ちます。
神武天皇は親(みずか)ら諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いたとされます。
これを見る限り、天皇一族とどの程度規模かわかりませんが水軍のみであり、陸上の兵力や民といったものは引き連れていなかったようです。
それほどの規模では無かったように思われます。
という事は、基となった邪馬台国の東遷も、大規模な勢力で一機加勢に畿内まで移動したのではなく、小規模なものだったという事になります。
吉備に3年
その後の神武東征ですが、東に向かう途上で吉備に3年間滞在して、船と兵量を準備したという記述が出て来ます。
このことからわかるのは、吉備に滞在したのが少数の人間だったのだろう、という事です。
何しろ3年間も滞在したわけで、何千とか場合によっては万で数えるほどの集団では、吉備が対応できるとは思えません。
それに、そんな集団が身近に存在しては、いつ何時寝首を掻かれるかもしれないわけで、吉備の側としては容認できないでしょう。
やはり邪馬台国の東遷は、一丸となって東に向かったわけでは無く、ごく少数の集団でおこなわれたと考えられそうです。
邪馬台国連合の諸国としては、担ぎ上げた存在である邪馬台国に付き従うより、伝来の地を守ることを選んだという事なのかもしれません。
どこへ向かっていたのか
我々は歴史の結果を見ているので、最終的に畿内にヤマト政権が出来たことを知っています。
したがって、邪馬台国も畿内を目指して移動したと考えがちです。
しかし上で見たように、実際に東に向かったのは少数の集団の可能性が高いものでした。
そして、吉備に3年間留まったのです。
この吉備が目的地だったという事はないでしょうか。
確かに最初は、大陸からの侵攻を恐れて、瀬戸内海の東の端を目指していたのかもしれません。
しかし、その考えに共鳴する者の少なさから、取り敢えず東に逃げることにして、吉備を頼ったという事ではないのでしょうか。
今でいうところの、亡命政権のような立場だったのでしょう。
吉備の軍事力を借りてさらに東へというよなことも、考えていたかもしれません。
吉備の対応
そうして吉備にたどり着いたわけですが、それに対する吉備の対応はどうだったのでしょう。
先ず、3年間留まったわけですから、ひとまず一行を受け入れたことになります。
しかし3年間滞在して、船と兵量を準備したということですから、軍事力の提供はしなかったようです。
少なくとも、吉備での滞在中に兵が集まり、大きな兵力になったという記述はありません
吉備に共にやって来た水軍だけで十分であるのならば、3年も滞在した意味が分かりません。
にもかかわらず、神武東征、すなわち邪馬台国の東遷は行われたました。
畿内に攻め込んだ軍勢は、どこから来たのでしょう。
ではでは