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邪馬台国から大和へ 23 -邪馬台国への旅程14 残る旅程ー

邪馬台国までの残る旅程について考えた話です。

 

 

不弥国までは辿り着いた

 前回まで13回に渡って、『魏志倭人伝』に描かれた、帯方郡から邪馬台国までの旅程と、関連する記述に関して考えて来ました。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

ここまでのポイントをまとめると

1.九州本土への上陸地点末廬国は、壱岐から東に1000余里海を渡った、福津市辺りと考えられる。
 



2.末廬国から記述に従って陸行した、周防灘に面した築上町築城付近が不弥国と思われる。
 



3.女王国までの一万二千余里、邪馬台国の七万余戸を始めとする旅程国合計の十五万戸余りの戸数、會稽東冶の東のいずれも、邪馬台国を大月氏に比肩する国と思わせるためであり、実際を表すものではない。

という事で、邪馬台国へは到達できませんでした。

今回は、旅程検討の最後として、残る投馬国、邪馬台国への旅程について検討し、邪馬台国の位置について考えます。

投馬国、邪馬台国への旅程

 投馬国、邪馬台国への旅程は

   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る

となります。

先ず、20日、10日、1月は、もともと全て何らかの里数だったものを、邪馬台国までの距離を曖昧なものにした上で、後で一万二千余里とするために、書き換えられたものです。

方角の南は、陳寿に、邪馬台国を南方の大国に見せかけたいとの、目的があった訳なので、改ざんの結果とも言えそうですが、もともと南だった可能性も、排除できません。

それに対して、水行、水行、陸行は、大月氏と同等の国と示唆するために必要な条件とは考えられません。

つまり、水行、水行、陸行に関しては、元となった使節の報告のままの可能性が高いのです。

この事と、上で示した不弥国の比定地は、そこから邪馬台国まで、周防灘を水行、水行した後に陸行したと考えれば矛盾しません。

それ程遠くない

 旅程は、あくまでも周防灘を水行であり、海を渡るではないので、行先は中国地方や四国ではないことになります。

不弥国から、周防灘沿岸を岸に沿って水行したのです。

方角に関しては、残念ながら手掛かりはなく、行橋方面、中津方面のいずれに向かったかわかりません。

最後に距離ですが、それほど遠くではなかったのではないかと思っています

上でも書いたように、邪馬台国はじめとする何万戸という数値は過大で、吉野ヶ里遺跡の規模から考えると、各国の人口は数千人程度ものであり、現代の町村の規模だったと思われます。

このことと、ここまでの陸行が、500里、100里というものだったことを見ても、投馬国、邪馬台国への旅程が、同程度の距離であってもおかしくないと考えます。

そもそも、多くの国の間での争い(倭国大乱)を収めるために、卑弥呼邪馬台国の女王として共立したとなっています。

その邪馬台国が、それ以外の国と離れた位置にあることは不合理です。

以上、『魏志倭人伝』の記述から推定される邪馬台国は、上の地図の北九州から豊後までの間の、不弥国から水行、水行で着いた周防灘沿岸のどこかから、陸行で内陸に入ったところ、ということになります。


 あと少しなんですけどね。


ではでは