対馬国から一大国への旅程と方位についての話です。
一大国に渡る
前回は、狗邪韓国から対馬国への旅程と、『魏志倭人伝』で使われている「里」の長さについて考えました。
今回は、次の一大国までの旅程を見てみます。
帯方郡
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南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
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海を渡る、1000余里、対馬国に至る
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南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
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海を渡る、1000余里、末廬国に至る
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東南、陸行、500里、伊都国に至る
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東南、100里、奴国に至る
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東、100里、不弥国に至る
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南、水行、20日、投馬国に至る
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南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
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邪馬台国
「南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る」という事ですが、前回の話で1里70数メートルとしましたので、対馬から南の方角に約70から80キロほどのところにあることになります。
地図上でこの条件に当てはまるのは、壱岐ということで問題ないでしょう。
前回同様に、Googleマップに旅程を入れてみました。
なぜ「南へ」が付くのか
ところで今見たように一大国への旅程には、最初に「南へ」と方角が出て来ます。
前回見た、狗邪韓国から対馬国に渡る際の記述には、このような方角は指定されていませんでした。
さらに、次の末廬国への旅程にも方角は、入っていません。
文芸作品ならば、そういった表現の仕方という事もあるのかもしれません。
しかし、魏の使節の報告書を基にしていると考えられる文章と考えると、基の報告書は、これで間違いなく邪馬台国に着けるように書かれていたはずです。
なにか理由、法則といったものがあるはずです。
到着するのに必要なもの
この方角の有り無しについては昔から疑問だったのですが、その答えと思われる内容の記事に行き当たりました。
詳しくは上記のブログを見てもらうとして、要約すると以下のような事になります。
1.船での出発時点で、目的地が見えている時には、そこに向かうだけなので、距離が分かっていればいい。
対馬国までと、末廬国までの場合です。
2.目的地が見えない時には、距離と共に、向かう方位を定める必要が有る。
一大国までの場合です。
よく考えると、当然の事なんですが、目から鱗の内容です。
これであれば、狗邪韓国と一大国から出航する時には、目の前に対馬、九州本土が見えているわけですから、行き先を間違えることは無いわけです。
さらに、対馬国からの出航時には、壱岐が目視出来ないので南に向けて出発し、見えて来た時点でそちらに向かえば、到着出来るという事になります。
引用したブログにもあるように、この話の基になった本は、船乗りの方が書かれたもののようです。
まさに、「餅は餅屋に」ですね。
ではでは