『三国志』によって示そうとした正統性について考えた話です。
前回の話から
前回は、中国における「正史」について考えました。
正史は、その最初のものとされる『史記』を除いて、残りの二十三史全てが各王朝毎に纏めるという形になっています。
さらに、その二十三史全てに共通する特徴として、全て各王朝を継いだ次の王朝が、前王朝について纏めているという事があります。
その世界観から、正史は、いかに前王朝が徳をなくし新たに命を受けた現王朝が取って代わったかをその歴史を通して示し、それにより現王朝の正統性を知らしめるために、書かれるのという話でした。
以上を受けて今回は、『魏志倭人伝』が含まれる正史『三国志』について見てみます。
現王朝は西晋
先ず、『三国志』の対象となる王朝は、よく知られた「魏、蜀、呉」の三国という事になります。
この三国は、『三国志演義』でよく知られているように激しく覇権を争いますが、現実の歴史ではそのいずれも覇者をなることはありませんでした。
結果的には、魏の後を継いだ「西晋」が、蜀と呉を滅ぼすことで、中国を統一しました。
という事で、その正統性を示すために『三国志』を纏めた現王朝は「西晋」という事になります。
西晋と魏
そして司馬懿の字は仲達といいます。
そう、あの有名な「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の仲達です。
魏の武将の孫が魏の後を継いで王朝を建てたという事になります。
実際には、孫の司馬炎が魏を打倒したのではなく、司馬懿が実質的に魏の権力を掌握し、それを父司馬昭を通じて継承した上で、魏の皇帝元帝に禅譲を迫ったとされています。
という事で、『三国志』編纂の基本的立場としては、魏の歴史を記す中で、それに仕える武将司馬懿に徳があったことを示し、それによって孫の司馬炎による西晋の建国の正統性を示そうとしたのだというように考えられそうです。
『三国志』だったのは
前項までのようなことであるのであれば、魏、蜀、呉に分けて記述する形の『三国志』ではなくて、魏を中心として纏める『魏志』といった形でもよかったような気がします。
ところで、『三国志』を纏めたのは、西晋に仕えていた陳寿という人物でした。
彼は、西晋の前は、滅ぼされた蜀に仕えていた経歴の持ち主のようです。
そんな背景もあって、魏、蜀、呉を個別に扱う『三国志』という形になったという事でしょうか。
「正史」も人が作るものだという事かもしれません。
ではでは