『日本書紀』創られた日本 82 聖徳太子についての話9です
聖徳太子と仏教
前回は、『日本書紀』における聖徳太子と仏教について考えました。
『隋書俀国伝』に書かれた、遣隋使の使者による、有名な「日出ずる所の天子云々」の後に続く遣隋使の目的は仏法を学ぶためだという話に対応すために、聖徳太子の仏教関連の記述が作られた
と考えました。
そのため、仏教に関しては超人的な人物ではなく、仏法を学ぶために遣隋使を送った、仏教に関して関心を持って学んでいた人物として描かれたという話でした。
今回は、残る仏教関係の話として、聖徳太子が創建したと考えられている四天王寺について考えます。
『日本書紀』には
四天王寺については、『日本書紀』用明天皇2年に、戦いの中で聖徳太子が、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をし、勝利の後四天王寺を造った、という有名な話が載っています。
しかし、『日本書紀』の推古1年にも、四天王寺を造り始めたという記事が有るのです。
秋九月、改葬橘豊日天皇於河內磯長陵。是歲、始造四天王寺於難波荒陵。是年也、太歲癸丑。
(即位1年)秋9月。橘豊日天皇(タチバナトヨヒノスメラミコト=用明天皇)を河内磯長陵(カフチノシナガノミサザキ=現在の大阪府南河内郡太子町春?)に改めて葬りました。この年、四天王寺(シテンノウジ=荒陵寺)を難波の荒陵(アラハカ=地名)に作り始めました。この年、太歲癸丑です。
引用元:四天王寺の建立と氏族の寺
これらは一見矛盾するのですが、用明天皇2年の話は、四天王寺が建てられた由来を書いたものであり、実際に建て始めたのが推古天皇1年だったということでしょうか。
四天王寺を建てたのは
ここでポイントとなるのは、推古天皇1年の文章には誰が建て始めたのかが無いという点です。
推古天皇1年の話なのですから、素直に考えれば建てたのは推古天皇という事になります。
厩戸王(聖徳太子)は皇太子兼摂政なのだから厩戸王(聖徳太子)が建てたのだ、というのはいささか無理があるように思います。
加えて、先の引用部分の次に以下のような記述が有ります。
二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時、諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍、卽是謂寺焉。
即位2年春2月1日。皇太子と大臣に詔(ミコトノリ)して、三宝(サンポウ=仏・法・僧)を興して栄えさせようとしました。この時、諸々の臣連はそれぞれの親の恩のために競って仏舎(ホトケノオオトノ)を作りました。これを寺(テラ)と言いました。
引用元:同上
聖徳太子が四天王寺を建てたのならば、ここで皇太子(聖徳太子)も含めて詔しなくてもいいわけで、やはり四天王寺を建てたのは推古天皇なのでしょう。
用明天皇2年の記述は
という事は、用明天皇2年の記述も聖徳太子を生み出すために創り出された話という可能性が高い、という事になりそうです。
建てたのは推古天皇だが、聖徳太子の発願が背景に有るんだというわけです。
これは、『日本書紀』編纂時に四天王寺が推古天皇が建立した宮寺として存在しており、聖徳太子の建立と断言出来なかったからではないでしょうか。
そのために、読み方によっては太子が建立したともとれる表現に留めざるを得なかったのでしょう。
そして、『日本書紀』以降から始まった太子信仰の中で、聖徳太子との関係が作られていったのだと思います。
これも、『日本書紀』編纂者の思う壺かもしれません。
ではでは